子どものための地域活動 シリーズ2
子どもの『空間』づくり −子どもの居場所を求めて−
第2章 地域社会で進める「空間」づくり
1 自然環境の活用
(1)自然へのアクセス

 自然環境が子どもにとって重要というのは、フランスの思想家ルソーをはじめ、昔からよく言われていることです。しかしながら、都市というのは自然を壊して開発して、見た目には人工的な環境を築いて成り立ってきたわけです。都市には自然が少なく、農村は自然が豊富というイメージが一般的には固定しているようです。しかし、いったい子どもにとってどのくらいの、どんな自然の環境が最低限必要なのかといった、明確な基準というものはありません。

 <1>都市と農村

 都市の中でも人工的に作られたにせよ、公園や緑地の豊富な住宅地もあります。ほとんどオープンスぺースに欠けた密集市街地やコンクリートジャングルのような街もあります。

 一方、農村は自然環境が豊かなようですが、水稲単作の大規模に圃場が整備された水田地帯ですと、水路はコンクリート三面張りで、農薬の汚染で生き物が少なくなったり、農家の屋敷の庭もコンクリートで固められたり、鑑賞の庭園になったりと、子どもたちが触れられる自然が少なくなっている地域もあります。また山村でも、山の管理がされなくなると子どもたちは山に入ることもなく、護岸整備で川も危険な場所になったりして子どもたちの自然との接触も制限されるようになっています。とりわけ農村部では子ども人口の減少で、近所に遊び仲間が少なく、いきおいテレビゲームなど室内に閉じこもりがちになるというように、外の自然に接触する体験が減ってきているということもあります。

 <2>センス・オブ・ワンダー

 農薬の汚染への警告を発した海洋生物学者のレイチェル・カーソンは、甥っ子の面倒を見ながら、子どもが自然の環境の中に入って見つける様々な発見への驚きや関心を「センス・オブ・ワンダー」(上遠恵子訳、新潮社 1991)と表現しました。子どもの持っている、不思議な世界への飽くなき好奇心こそが、環境の認識へつながる根源的な力であることを見抜いたカーソンの指摘は、今日の環境教育にも重要な問いかけを発しています。知識として環境の重要性を子どもたちに植え付けるよりも、子どもたちのこの「センス・オブ・ワンダー」の感覚をいかに引き出していくかが、自然から遠ざかっている今の子どもたちへの仕掛けのポイントとなるのてす。

 もちろん幼児期における自然との接触は、土や水たまり、木の葉など自然の素材や虫などの生き物といった、都市の中でも身近にある小さな自然の世界への驚きから始まるものです。そういう意味で、どろんこ遊びなどに代表される自然の根源的な要素と言われる、土、水、木などが住居の近くで触れられることが大事てす。これらの要素から草花、そして虫などの多様な生物の生活にふれ、次第に成長に伴い、虫とり、草花の採取、そして魚とりなどで、野原や水辺へと行動を広げていくのが自然な流れでしょう。しかし、前述のように都市ではこれらの豊かな自然空間がありません。また、農村では管理面や伝承の断絶などから自然が豊かであっても子どもが自然に接触していないという傾向があります。子どもの発達に伴う行動の広がりに対応した自然環境へのアクセスを保障する必要があります。


(2)都市での身近な自然の活用と創出

 <1>公園と自然

 都市では、街区公園(旧児童公園)の形態がどこでも画一的になるきらいがあります。もっと個性を持たせて、ある公園は広場に、ある公園は自然志向の高いものがあってもよいかもしれません。児童公園から街区公園へ名称が変わった経緯には、児童公園で子どもがあまり遊んでいない、なぜ子どもだけの利用なのか、高齢者にも使えるようにするのが高齢社会での公園のありかたではないか、などの議論がなされたことがありました。いわゆる3点セットが置かれたどこでも同じような公園というのは、子どもの成長に伴う多様な要求には応えきれなかったのでしょう。自然の環境は遊具のように固定ではなく、子どもの成長に伴う多様な要求に応えられる深みがあります。近隣公園ぐらいになると、あるコーナーにそういった自然に近付けた形態を設けることができるでしょう。

 <2>水辺の空間

 水辺としては都市内を流れている小河川や水路は、今ではドブ川か暗渠化された形態ですが、中には緑道として整備されているものもあります。暗渠の上に人工的に水の流れをつくっている場合も少なくないですが、これからの整備の方向としては、自然に近づけた形の整備が推進されることが予想されます。


世田谷の住民参加でつくられたネコジャラシ公園

 <3>空き地・樹林地・緑地

 樹林地や空地の中には、民有地でも税の優遇措置で市民に開放された使い方ができる場所もあります。子どもの遊びに開放された空地もありますが、市民緑地や市民の森のように自然保護、自然観察が中心の利用となってくると、子どもの遊びが制限されるということもありえます。

 しかし、そういった場所が単に自然保護の場として形だけの緑地であるよりも、環境教育にもっと活用されるように考えたいものです。子どもの主体的な関わりである遊びをもある程度の許容範囲に置いて、自然との接触の場として活用された方が好ましいはずです。それはその樹林地の管理運営に市民組織がどのように関わるかにかかっています。

 <4>食べられる果実のある庭

 個人個人の敷地内および道ばたには、柿の木を典型例に、かつては子どもたちが柿泥棒をしたりという、食べられる実のなる木があったりします。現在では、子どもたちは全く見向きもしないで、実が熟して落ちるだけにまかせたり、鳥が食べるだけという場合が少なくありません。子どもたちには、店で売っているミカンと庭のミカンを同種のものと感じていない向きもあります。個人の敷地内のこれら食べられる実のなる木の活用を子どもたちに向けて工夫することも、遊びと学習の兼ねた仕掛けとなるでしょう。実際にイベントとして地域で柿どろぼう大会などを開いたりしているところもあります。


柿の実は落ちるままか鳥のえさになるだけ-ならば子どもたちに開放し思い切って「柿どろぼう大会」(松戸市北小金)

 <5>校庭の活用−学校ビオト一プ

 環境教育の重要性が高まってきて、学校の校庭のあり方も変わってきています。トンボ池やビオトープの環境づくりが広まりつつあります。これは理科の教育に使うだけではなく、子どもたちが休み時間に親しんだり、生き物に触れ、遊びと学びが入り混ざった体験を通して環境との関わりを習得していく効果が期待されているものです。

 前述の「隠れたサイン」、「隠れたカリキュラム」としての校庭の環境の役割が発揮される空間です。しかし、このような自然の復元をめざした環境づくりは、後々の維持管理の手間のことを考えてつくる必要があります。自然というのは天然の大自然ではなく、人が関わって維持されている自然であるのが、私たちの風土の中での一般釣な形態ということを認識しておく必要があります。ビオト一プといいながら、池の中にザリガニや外来種の魚を放り込み、生態系を崩しているものも見られます。そんな行動を反省したり、自然とのつきあい方を子どもたちが体験の中で学ぶ身近な自然の環境としてビオト一プづくりは重要性を増しています。


柳の迷路
高低のコンクリート、アスファルトなど固い舗装をはがして土の自然のものへと作り替え「総合的な学習」に活用する動きは、すでにイギリスで始まっており大きな成果を上げている。


(3)農村部での身近な自然の活用

 <1>都市と農村交流の流れ

 農村部では、自然環境が豊富にあるようですが、管埋面の問題と少子化の影響で子どもたちの自然との接触が薄れているという問題があります。最近の農村部の振興策として都市農村交流やグリーンツーリズムがすすめられています。これらの動きは、都市の子どもを対象にしたものだけではなく、農村の子どもへの伝承も含めて展開した方が、長期的に見れば地域の後継者を育てることにもなり、より確実な振興策となるようです。

 <2>地域で伝承されている空間

 河川は危険な場所と思われたりしますが、かつてプールがないときは子どもたちが入って水遊びをする場所が決まってありました。この川のこの部分は危険で、この部分は入って泳ぐ場所と、「〇〇渕」などの固有の場所名とともに伝承されていたはずです。これは遊びの世界で環境を読み取り、世代間に伝承されていたものです。また魚を採ったりする方法も伝えられ、川の流れの読み方、仕掛けをつける位置など、創意工夫の知恵も伝承の上に自分の実践の工夫を重ねて、環境に慣れ親しんできたものてす。例えば、「脱皮したばかりのトンボのサナギをとるときは手でつかんではいけない。葉っぱでつかむ」など、自然への接し方のマナーというものは、今では環境教育となるでしょうが、遊びの世界で伝承されていたものです。

 また、山登りで、食べられるキノコと食べられないキノコの識別は、子ども期に、採ってきては家のおばあさんに聞いて教わり、身につけたものです。このような世代間の伝承も含めて、農村では生活の中にしみ込んで伝えられてきた自然環境に関する知識や技術が、今の子どもたちに伝わらなくなったのは残念なことであり、また農村の文化の消滅にもつながることと危惧されます。そのためには今の子どもたちに自然とのつきあいの仕方を伝えていく、何かしらの仕掛けが必要となっているのです。地域ぐるみの伝統行事の復活なども行われますが、子どもたちが受け身的ではなく、主体的に取り組むような工夫が求められます。

 <3>遊びと学びのプログラム

 これからの学校教育は生活科、総合的学習のプログラムを独自に地域との連繋で考えていくことが求められています。いわば、地域で遊びながら得ていた感覚や技術、知識を学校で行わなければならなくなったほど、地域の教育力が衰退した裏返しとも言えます。総合学習の方法を熱心に研究してきた山村では、忍者になって木の上に小屋をつくるといったことを行っている学校もあります。遊びと学びとは紙一重の表と裏のような関係で、子どもの好奇心を刺激する例です。

 同様に、都市農村交流やグリーンツーリズムのプログラムは、都市の子どもと農村の子どもの両者に農村の自然を舞台にした遊びと学びの体験を与えることになるでしょう。農村環境の整備も、雑木林や里山の保全、川や水路の多自然型整備、ビオトープづくりに方向が変わってきています。

 そしで河川では、法改正で河川の役割として環境面が加わり、「子どもの水辺」など再び子どもが川に入って遊ぶことの出来る場所を整備できるようになりました。また農村では、田んぼと水路の環境学習的価値に着目して、「田んぼの学校」という農業体験や遊びのプログラムが行われるようになりました。棚田や谷地田(谷津田)、里山の保全が都市住民の関心事となり、農村の自然環境の管埋に理解と協力をする都市住民も増えてきています。そこに都市の子どもと農村の子どもとの交流が期待されます。

 調査によれば、まだ農村の子どもの方が、自然の素材を使った手作り、生き物を捕まえたり飼ったりする体験、食ベられる木の実や草花の採取など、自然との接触のレベルは都市の子どもに比べて高いことが示されています。農村の子どもは少子化の中で競争的環境に恵まれていないという指摘があります。しかし、インターネットの普及で都市の子どもとの交流が進めば、そういった心配も必要とせず、農村の自然から学ぶ豊富な体験を都市の子どもに分け与えるというような、農村ならではの地に足のついた自信と誇りを持った子どもが育つことになると予想されます。

2 町の中の空間

(1)遊びが可能な生活の道路へ

 第1章の3で述べたように、住宅街区内の道路は子どもが遊び、社会化する上で重要な場所です。まずは車交通よりも人が優先される道路へと、住宅地内の道路は変えて行くことが必要です。そのためにも道路法や道路交通法が一律にすべての道路を対象に車交通優先に立脚している点を改めて、住宅地内の区画街路やコミュニティ道路では子どもが遊ぶことを認めるような、制度上の整備が必要です。そのような声が市民からあがらないのは、車依存の生活にどっぷりつかっていて、なかなかその利便性から脱却できないからです。

 環境への負荷の間題も含めて、どの程度まで市民の運動が盛り上がるかにかかっています。幼児を抱えた親ならば、だれもがわが子を道路に一人で出した時に交通事故や犯罪に巻き込まれるのを心配するように、道路は危険な場所になってしまっています。幼児の交通事故の死亡率は先進諸国の中で日本はとりわけ高いという結果が出ています。そのためにも住宅地内の道路を車より人間の空間、生活の場に戻していくことが必要です。

 米国の都市学者の指摘によると、公園は危ない場所になり、道路の方がコミュニケーション豊かな安全な場であると報告されています。道路の車道幅を狭めて蛇行させたり、ハンプというコブのような障害を設けたりして車のスピードを抑制するコミュニティ道路のモデルとなったオランダのボンネルフの例もあります。これは、中世の農家の庭を語源とする生活の庭という意味です。ブリューゲルの絵のような、道路に人々が出て豊かな都市生活を営むことをビジョンに描いて考えだされたものです。

 そのために道路交通法を改正して、ボンネルフ内では子どもの遊びが優先されるようになったり、子どもの飛び出しにも対処できるような、植え込みや構造物の基準も定められています。住民の参加でその形態を決めたりしていますので、地域によって道路の表情も異なります。道路にベンチはもちろん、パラソルとテーブル、なかには卓球台が置かれているところもあります。道路で自主保育のグループが形成されたところもみられます。ボンネルフは一つの道路の改造を意味して、その複数形はボンネルフェンといいます。いくつもの道路の改造を面的に広げて、自宅の玄関から公園まで安心して遊びに行くことができるように整備が進んだところも多くみられます。日本でもコミュニティ道路を街区内に広げてコミュニティゾーンとするような施策も打ち出されていますが、住民の関わりや認識を変えるまでのものとなってはいません。

表2-1 オランダのボンネルフに関する交通法規

(1976年8月27日、交通規則及び環境の法典集RVVの変更に関する国王の決定、1976年9月13日のオランダ政府報告集第453号で公布によって下記の条項が変更及び修正された。

第88a条 歩行者は、ボンネルフと定めた地区内では、道路の幅員全部を通行することができる。道路上で遊ぶことも差し支えない。

第88b条 ボンネルフ内では運転者は歩行の速度より早く運転しないものとする。遊んでいる子どもや、一般歩行者、障害物、路面の凹凸などの対処できるよう余裕を持って走行しなければならない。

T路地をうまく使ってボール遊び

(2)商店街は店先学校

 ある駄菓子屋のおばあさんのエピソードです。子どもが千円札を持って買いにきました。すると、おばあさんは「こんな大金を子どもが持つものでは無い。お母さんに返して来なさい」と、子どもを追い返しました。こんな駄菓子屋は今では少なくなったようですが、昔の駄菓子屋には子どもがあがりこんで遊ぶといった、いわばミニ児童館のようなところもあったのです。駄菓子屋のみならず、物を売る機能のみではなくコミュニケーションの場としての社会的機能を持っているのが地域のお店です。

 このように子どもが社会と接点を持つ場所としては、最初に駄菓子屋をはじめとする地域の商店があります。商店のみではなく、畳屋さんや大工さんなど職人さんの仕事を見ながら、その技術のすばらしさを実感したり、時にはいたずらを嗜められたり、商店街を舞台にして顔見知りになり地域の大人から様々なことを学んでいました。そういう意味で商店街は『店先学校』(C. アレグザンダー「パタンランゲージより」鹿島出版会 1984)と言ってもよいかと思います。

 しかしながら、コンビニエンスストアと大型店舗の進出で、商店街は軒並み打撃を受けています。安く、早くという商業における競争の原理は、地域の商店街のもっていたコミュニケーションの役割まで打ち消してしまったのです。どこでも同じ商品のならぶコンビニエンスストアが、その名のとおりに便利ということで歓迎されます。コンビニエンスストアの前でたむろする少年少女たちの姿も珍しくない光景です。かたや週末には車に乗って大型店舗へ買い物に出かける家族の姿もあります。古くからの商店街は歯抜け状に店が閉まり、残された商店も老夫婦が営み、後継者がなく、いずれ商店街は消えようとする運命が待っているかのようです。経済的な合理性の追求以外に、お年寄りや子どもといった弱い者の立場に立った商店街のあり方を社会に投げかけていく必要があります。

表2-2 わが国の道路交通法に記載されている道路における禁止行為の条項(一部抜粋)
第76条(禁止行為)
4 何人も、次の各号に揚げる行為は、してはならない。
一 道路において、酒によって交通の妨害となるような程度にふらつくこと。
二 道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しゃがみ、又は立ち止まっていること。
三 交通の頻繁な道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

オランダのボンネルフは子どもの遊びに配慮されている

スイスでは卓球台はまで道路に置かれている

そして、「遊びの箱」も


(3)都市公園の役割

 かつて児童公園と称していた都市公園が街区公園へと名称を変えました。1993年の都市公園法の改正によってです。これは高齢社会を迎えて、高齢者にとっての身近な公園の要求が高まったことと、少子化を投影して児童公園を利用している子どもの数が少ないというような傾向から、なぜ子ども専用の公園なのか、という疑問が呈されることが多くなってきたことによります。

 しかし、このように名称を変えても使われない公園は使われないままです。というのは、人が使いたくなる、入りたくなる公園の形をなしていないところもあるからです。建物の陰になってじめじめした公園など、はじめから公園の用地として適さないようなところもあります。用地の確保が難しい点もありますが、区画整理などの街をつくる事業では、しっかりと使いやすい公園の位置を決めて考えないと、利用されない公園をつくってしまうことになります。利用されないというだけではなく、防犯上、危険な公園をつくってしまうことにもなりかねないので要注意です。調査によると、安全な公園は人の目が届きやすいところにある公園であり、例えば建物の南側にあって明るく上から見おろせるような公園です。逆に、危ない公園は建物の北側にあったりして、暗く、絶えず人の目がとどくことが保障されない場所にある公園であることがわかっています。

 また、公園の樹木の管理が悪いと生い茂った樹木が死角をつくり危ない場合もあります。だからといって樹木を伐採するのは短絡的であり、常に誰かがいるような使われ方と、ほどよい管理のかねあわせで決まるのです。いい公園は地域の人たちが愛着をもってよく使われる公園です。そのためには創る段階から自分達でこんな公園がいい、という絵を描いて、自ら公園の計画と建設に関わっていくことが大事です。最近、このように住民参加で公園をつくる事例がふえつつあります。公園ならば子どもたちも一緒に、そういった計画づくりに携わることができます。自分たちも参加してつくった公園ならば、子どもたちにとっても自分達の場所という愛着が湧き、公共空間の利用の権利と管理の責任感覚をあわせもった市民意識を育むことになるのです。


「御用聞きカフェ」空き店舗を活用して既存の商店街の魅力を再発見(世田谷区太子堂2丁目にて)

子どもは、見るだけの施設より体感できるものを求めている。


(4)原っぱと冒険遊び場 ―プレーリーダーのいる遊び場

 たえず、自分たちの関わりで変化していく遊び場。小屋をつくったり、焚き火ができたり、その火でパンを焼いたり、穴を掘って水路をつくったりと、元は原っぱのようなもので、その上に自分たちで好きなようにつくっていくことのできる遊び場。それが冒険遊び場です。最初にこれが考え出されたのは1945年です。デンマークの著名な造園家のソーレンセン教授が近所の廃材置き場で子どもたちが嬉々と遊んでいるのを見て、それを見守る若者を配置したことから始まります。

 その後、英国をはじめヨーロッパ、アメリカと広まり、日本では世田谷区で運動として始まり、現在ではプレーパークという名で行政の支援を受けて、住民団体の手によって世田谷区内の4ケ所で運営されています。モットーは「自分の責任で自由に遊ぶ」という点にあります。何でも危険を封じ込める管理が先走るよりも、子どもたちに忘れた冒険心と危機管理能力をもったたくましさを育てる唯一の場として、共感を集め、同様の遊び場を求める運動は各地に広がっています。

 普通の公園と違うのはプレーリーダーという、子どもたちの自由な遊びを見守る役割の大人がいるという点です。古くは日本の児童公園の前身にも公園児童指導員が配置された歴史がありますが、当時は公園の使い方とか衛生面の指導が中心であったのに対して、プレーリーダーは決して指導者ではなく、子どもの自由な遊びを他の干渉から守る役割に徹している点が異なります。

 冒険遊び場づくりを願う住民運動は全国に広まりつつありますが、プレーリーダーの人件費をどうやってまかなうのか、という点が、行政が二の足を踏む点となっています。またプレーリーダーの養成も課題となっていましたが、冒険遊び場の推進に向けて冒険遊び場情報室*(注)が開かれ、冒険遊び場づくりの相談にのったり、プレーリーダーの養成講座も開かれるようになりました。


溝堀遊び(世田谷の羽根木プレパーク)


(5)探検と秘密基地

 まちの中の空間では、制度に乗らない子どもの空間があります。それが秘密基地です。大人には秘密なので、ここにそれを紹介するのも気がひけるのですが、子どもが主体となってまちの空間に関わるのが探検と秘密基地づくりの行為です。秘密基地は隠れ家といってもよいでしょう。英語でいうとシェルターです。むしゃくしゃしたときに逃げ込む場所としてのシェルターの意味もあるかも知れませんが、一人だけないし仲間だけの秘密基地です。それはよく映画のシーンにもなったりしますが、納屋の屋根裏に見つけた秘密基地や、または子どもたちだけで木の上に廃材で作った秘密基地など、いろいろな形があります。中には穴を掘って作ったものまであります。

 今の大人も、なんらかの秘密基地を持った思い出のある人は少なくないと思います。また、廃材を使った秘密の家づくりは、冒険遊び場の定番のメニューでもあります。秘密基地の家づくりにはいろいろな意味があると思います。ままごとの発展したもののように、大人の生活を真似た「ごっこ遊び」、自立したい背伸びと守られたい甘えとのいったりきたりする象徴的な行為と見ることもできます。探検も子どもの発達の過程でみられる探索行動と説明されます。行動圏いわば「なわばり」の拡大と自分だけの秘密の場所を持とうとするのは、自立心と発達の特性がなす自然な欲求なのでしょうか、わくわくするまちの空間との関わりです。

 今、密集した大都市の中では、秘密基地をつくるというわけにはいかず、空家を見つけては仲間だけの秘密基地にしたりしています。また、そういった空家が探検の場所となっていたりします。もちろん、これには危険性もつきまといます。全く大人の目の届かない死角はやはり、犯罪がいたるところで起こり得る今日では問題があるでしょう。理想的には大人は「あ、きょうもあそこに行っているな」と聞き耳を立てたり気配を感じることができて、子どもは大人には秘密と思い込んでいるような場所だとよいのでしょう。

 探検も秘密基地も子どもの大人より豊かな想像力のなせる都市の空間の使い方です。イメージを都市の空間から受け止めて、そのイメージの世界で遊ぶことができるというのは、より豊かな都市との関わりでもあります。どういうイメージを膨らませてやれるかは、また都市の空間のあり方にも関わってきます。いろいろにイメージを膨らますことのできる空間と、もう限定されたイメージしか持てない空間とがあるように、あまり情報過多の空間はかえってイメージが貧困になるかもしれません。


ビル解体後のコンクリ擁壁の穴を秘密基地にした子どもたち


(6)都市の隙間

 そのように子どもたちは都市の中の隙間を見つけては遊んでいます。表の通りだけを歩くのではなく、わざと塀をよじのぼって、家の裏のブロック塀をわたったりして近道だと思い込んで通ったりします。表通りを通る犬よりも裏側を通り抜ける猫に近いかとも思えてきます。道を歩いていると脇にあるモノにひっかかって寄り道をすることもしょっちゅうです。それが子どもであり、そういうようにレーダーをはってひっかかったものに自分がはまりこむことで、いろいろなことを吸収していくのです。都市はそういう子どもたちのレーダーにいろいろなシグナルを発信しているのですが、それが画一的になってくると面白くないでしょう。都市の空間もデジタル化して表面的な情報を処理するだけとなっては、子どもたちに生きることの実感というものは伝わらなくなってしまうかも知れません。

3 コミュニケーションの場
(1)学校と地域の連携

 阪神淡路大震災が起きた時、被災した住民は学校へ避難しました。洪水や災害が発生した時も、一時非難の場所として学校が拠点になります。地域のなかで一定の広さと人的な受け入れを可能とする場は学校が第一番にあげられます。学校は、地域にある空間として、重要な機能を有しています。

 同時に学校は、地域に住む子どもから大人までがかかわりを持つ施設で、地域の中心となっているところです。特に、小学校の場合には一層顕著で、何十年前の卒業生が地元で生活をしています。学校は誰でもが気持ちを一つに出来る共有の居場所なのです。また、学校は、学びの館であることから、気持ちを新たにすることが出来ます。地域社会は学校との有機的な関係を発展させることが必要です。

 <1>地域の遊び空間としての学校

 急激な都市化で、子どもが安全に遊び、活動出来る場は、非常に少なくなりました。公園は、けして子どもたちの拠点となる遊び場ではなく、ある時には犯罪の温床になります。整備された団地の広場も、人の目から隠れると事件が起きています。そう考えると、地域の学校は、児童の安全が図られた良好な状態に維持された空間です。遊びの内容や人的な問題を抜きにすれば、学校は子どもにとっての貴重な遊び空間になります。

 <2>地域の人を結びつけるものとしての学校

 学校の遊び空間は、地域の住民において、過去に、現在に、未来にとつながるイメージを持つことができます。子どもが生まれれば、学校に通うことになるし、現在通っていれば、学校への関心は高く、足を運ぶことも多くなります。学校に関することが共通の話題となりやすく、学校は、地域の住民が人間的に結び付く要素を備えていると言えます。

 <3>地域コミュニティの拠点としての学校

 学校に人が集まれば、そこで、家庭や地域のことが話題になります。子どもの成長や地域環境のことなど、様々なことが、学校という場から発信されていきます。また、学校という単位で地域の問題が集約されることもあります。有効に働けば、学校は地域のコミュニティの再生を促進する地域のセンターになりえます。また、学校は、様々な団体や関係機関と連携との要にもなり、地域のネットワークを形成することも出来ます。学校も地域へ開かれ、地域との関係を重視するようになってきました。いま、結び付きを深めるときだと思います。


(2)公的施設の活用

 地域にはたくさんの公的施設が存在しています。これらはそれぞれの機能を果たしていますが、地域社会が求めるニーズに適切に対応しているかは定かではありません。敬老館は、高齢者の集う施設ですが、高齢者の要求がお年寄りだけとの会話やコミュニケーションを求めているとは限りません。子どもや若者、地域の様々な人との出会いを望んでいるかも知れません。その意味から、これらの公的機関を有効に結び付け、また活用することは、深い部分の地域ニーズをくみ上げることになると思います。

 ここでいくつかの子どもに関係する施設との結び付きを考えてみたいと思います。

 <1>地域住民(市民)集会所

 どの地域でもコミュニティの拠点として地域センター、集会所など、住民が気軽に集まれる施設が建設されています。施設の利用方法はかなり異なりますが、そこには地域の様々な人が集まり、会合を持ったり、学習会を行ったり、活動をしています。この施設の中で一般の利用だけでなく、施設のイベントを催すことがあります。これは、施設をより有効に且つ、ニーズを集約する形で行われるわけですが、ここに、住民の生活・文化・暮らしが反映されることになります。まだ一部の人しか利用していないという指摘もありますが、地域におけるベースとなる施設だと考えられます。

 <2>図書館

 全国のほとんどの自治体に設置されている図書館は、文字どおり活字文化の拠点であり、様々の文化の発信基地でもあります。現在の図書館は、図書の貸し出しのみならず、多様なサービスが行われ、住民の知的好奇心を満たしています。資料と情報提供を行い、生涯学習の拠点にもなってきています。AV部門も充実し、そこでも情報を集めることができ、これからますます必要性は高くなるでしょう。児童コーナ−も充実し、利用が広がっています。読み聞かせや行事を通じて、若い母親や子どもたちの地域での居場所になっています。

 <3>児童館・学童クラブ(児童クラブ)

 全国に4,400ヶ所設置された児童館では、地域で子どもの健全育成の拠点として活動しています。児童館の利用対象は、0歳から18歳までですが、主には小学生低学年の利用が多く、子どもの遊び場として重要な機能を果たしています。最近では、地域の多様なニーズに対応するために、乳幼児と母親の子育て支援事業や地域の組織化を進める地域活動、そして、中・高校生の活動へと領域を広げています。児童館は、誰でもが気軽に利用できる良さがあります。育児不安や悩みを受けて、0歳から1、2歳児の母親たちの活動が活発に行われています。この母親たちの活動で、自主的なグループ活動や地域での行事、交流会がもたれ、子どもの活動をサポートする動きを作りだしています。子どもと大人が集い、活動する拠点として注目されます。

 学童クラブは現在全国に11,000ヶ所設置され、2年前の児童福祉法改正により、法的に位置付けられました。設置や運営形態は、地域によってまちまちですが、両親の就労による、放課後児童の安全と生活を維持する大事な空間となっています。ここには、学校を終えた子どもたちが、家庭の替わりとして帰宅する場所です。ほっとした居場所として機能しています。異年齢の集団が形成されることから、地域で貴重な子どもの集団が生まれる場となっています。要求運動が盛んなため、保護者のまとまりも強く、地域で大人の連携が生まれているところです。

 <4>公民館

 地域の住民の学習や生活文化活動など、地域での大人が集まる社会教育の中心的役割を担っています。公民館では様々な講座・活動が組まれ、熱心な学習活動が行われています。何かを起こす場合、学習を抜きにして進めることは不可能です。地域に公民館があることは、これら、地域の住民の活動を支援することが出来ます。

 また、公民館には地域のいろいろな問題が持ち込まれます。解決を求める人たちにとっては、なくてはならないコミュニティの場になっています。公民館の中には、幼児の教室が開かれたり、子どもの活動も取り組まれているところがあります。中・高校生の参加する公民館も多く、子どもたちにおける居場所・空間にもなりえます。

 <5>保育園

 数年前までは「保育に欠ける子」を対象とした措置施設として機能していましたが、現在では、地域の子育て支援の拠点としてのその役割が強くなってきました。少子化や母親の就労の増加で、保育園の地域社会で果たす役割は大きなのもがあります。また、母親の育児不安などが原因で幼児の虐待も増えており、保育園が子育てにおける内容や方法などを母親に伝達することは、情報の氾濫した社会にあって価値のあることです。乳幼児と母親の生活空間として、今後も大きな位置をしめるものです。

 <6>幼稚園

 幼稚園は、教育の目的や対象年齢・保育時間などで保育園と異なっていますが、戦後日本の幼児教育の中心的位置を占めてきました。現在、幼稚園は、幼児の遊びや文化・生活に深く関わっていますが、保護者においても多くの人との出会いを生み出す、活動拠点になります。少子化の影響を受け、ここ数年全国で毎年10ヶ所近くが廃園しています。しかし、全国に15,000ヶ所あり、180万人が通う施設は、子どもたちと親の一大拠点です。さらに、平成10年に幼稚園教育要領が改訂され、幼稚園に地域の子育て支援の機能が付加されました。幼稚園が、子育て地域ネットワークの核になることが期待されています。

 <7>障害児関連施設

 児童福祉法には、肢体不自由施設など18歳未満の心身障害児の施設が10種規定されています。地域的には多くありませんが、障害をもつ子どものケア施設として重要な役割を果たしています。施設に直接関係がない場合は、かかわりは少ないかも知れませんが、障害をもつ子どもたちが地域社会と接点をもつ上で拠点になります。また、障害をもつことで外部との隔たりがあるだけに、施設との交流、関係作りは地域にとって大きな課題といえます。

 <8>養護施設

 様々な理由で親と一緒に生活できない子どもたちや虐待を受けた子どもたちが生活しています。24時間の体制で養護にあたるため、職員には専門的な技術が要求されています。最近では、トワイライトスティ事業*(注1)やショートスティ事業*(注2)など子育て支援のためのサービスも開始しています。子どもが集団で同じところに生活することは、人間関係のかかわりが弱い時代だけに、ひとつの拠点と言えます。

*(注1)トワイライトスティ事業とは、残業等で保護者の帰宅が遅い場合、児童福祉施設等で夜10時頃まで子どもを預かる制度。

*(注2)ショートスティ事業とは、保護者が病気等で、子どもの面倒を見ることが出来ない場合、児童福祉施設等で7日間程度、子どもを預かる制度。

 以上、子どもにかかわる公的施設を紹介してきました。子どもたちの空間づくりを進めるためには、施設の活性化と有効な連携が求められています。一つの施設だけでは、子どもや住民のニーズを実現することが出来ないからです。これからは、施設どうしを有効に結び付けるネットワーク化が必要です。


(3)既存の地域組織の活性化

 公的な施設とは別に、地域には固有の目的を持った団体・組織・グループがあり、それぞれの活動を行なっています。これらは、先ほどの施設と同じように単発の目的のため、十分、自分たちの要求を実現できないこともあります。これら既存する地域組織の活性化や連携も一つの大きな課題でしょう。

 そこでいくつかの既存の組織について考えて見ましょう。

 <1>自治会・町会

 町の基本的単位になっていますが、住民の多くは帰属意識が強くありません。防災・防犯などに関係する以外、あまり存在を感じないからかもしれません。しかし、ほとんどの住民が加入している組織です。地域の連帯や地域の助け合いのベースになるところです。地域の問題の解決には、紆余曲折が考えられますが、活発な意見交換や役員の人事交代などで組織の活性化が求められています。

 <2>青少年対策(育成)委員会等健全育成団体

 地域には青少年の健全育成を目指した地域団体が活動しています。熱心な学習を重ねながら、現在の青少年問題に真剣に取り組んでいるところもありますが、多くの組織で、人事や活動内容、地域との結び付きなどの面で問題を抱えています。現実に進行している問題に対応できないところもあります。この組織は、地域全体で青少年の健全育成を追求している組織だけに、子どもの遊び空間や居場所についての情報を持っており、活性化が望まれます。

 <3>子ども会

 少子化や担い手の問題で、地域の子ども会が減少しています。本来、もっとも地域に根ざした組織で、子どもたちは地域レベルで活動が可能でした。異年齢のかかわりもあり、顔見知りですから、大人同士のつながりも生まれ、基礎的な単位でした。地域での子ども組織の再生が必要です。 


(4)地域おこしと地域イベント・行事の開催

 地域での子どもの空間作りを進める場合、これまでにある施設や組織の活用、連携は重要ですが、同時に様々な動き、活動を地域社会に起こしていくことも大切です。きっかけや活動の内容はそれぞれで、そこの地域の環境や住民のニーズにより異なるでしょう。

 たとえば、ある地域では、子どもたちの問題を話し合う中で、子どもたちの生活体験のことが話題となり、近隣に残された畑を活用して、作物作りに取り組み、子どもの活動する空間を作りだしています。また、ある組織では、児童館の主催する川の調査に、協力者として参加し、大きな成果を収めています。児童館だけでは、地域の広範な理解を得られませんが、地域で活動する人たちの協力を得ることによって、活動が広がり、相互においてメリットがあったということです。組織が、施設や機関と連携することは、活動を身内だけのものから、より一般性や社会性を持ったものにすることができます。

 さらに、地域のイベントに参加したり、自分の住む地域でイベントや小行事を企画したりすることは、エネルギーを使うことですが、新しい創造的発見も得られます。その際、地域の組織・団体だけでなく、地域を管轄する行政とのかかわりを作ることも重要です。行政は様々な情報や権限を持っています。協働すれば、生み出すものも大きいでしょう。地域には、子どもの問題をはじめ、高齢者や障害、国際交流やジェンダーまで多くの課題があります。地域の状況にあった問題に取り組むことです。


(5)地域活性化を進めるための主体の形成

 活動を進めていく上で、組織の主体を絶えず形成していかなければ、活動が停滞してしまいます。特に、子どもとの関係における活動はアクティヴなものが多く、活動量も要求されます。発想や行動力が新しい動きを作っていくことになります。

長年にわたり培った経験と知恵と若い行動力が結合することが、新鮮で地域や住民のニーズにあった活動を生み出していくと思います。そこで、最も子どもの遊びや仲間、生活にかかわっている若い母親たちや父親たちの登場を考えることが必要だと思います。現在、仕事の他に地域や学校で活動の参加を期待している住民も増えてきました。出番をどれだけ用意するかが、知恵の出しどころでしょう。一般的な呼びかけでは、人間関係の希薄な現在、活動に加わることは少ないと思います。やむにやまれずという方法とか、イベントや地域の取り組みを通じて、活動の参加を高めることもよいかも知れません。

 子どもたちの地域における空間づくりは、様々な障害とのぶつかり合いの末に得られるものだと思います。多くの若い人の力や、経験をヘた年配の知恵を集めることにより、事態が好転していくと思われます。

4 生活学校の役割
(1)生活者の視点で

 生活学校は専門家集団ではありません。生活者の視点で間題を見つけ、調べ、専門家の知識や意見を取り入れながら話し合い、事業者や行政を動かして、解決を図っていく活動組織です。あくまでも、生活に根付いた視点が不可欠です。

 前述でもわかるように、自然保護や青少年育成、子育て支援施策などの観点から、現在、行政や住民組織などの種々の取り組みが行われています。図書館や児童館、学童クラブ、保育園なども、かつてとは比べものにならないほど、建物も利用方法も改善されているといってよいでしょう。でも、全体的に見た場合、必ずしも、生活者、特に子どもにとって、有効に機能しているとはいえないのです。

 私たちはついつい、日常の忙しさと目先の変化に追われて、足元の状況を忘れがちです。この足元の間題をすくい上げるのが、生活学校の視点です。

(2)橋渡し役として

 よく「縦割り行政」といわれますが、小さな子どもや青少年に対する施策も実際、縦割りであることが少なくありません。例えば、保育園と幼稚園は、それぞれ厚生省(現在厚生労働省)と文部省(同文部科学省)に管轄が分かれるため、殆ど交流がありません。同じ地域の子どもなのに、互いに接触が殆どない実情です。むしろ、地域の中で対立する雰囲気すらあることが、気になります。

 また、家庭自体も、子どもの出生数が平均2・21人(1997年)と減っており、きょうだいを通しての地域での人間関係の輸が狭く、層の薄いものになっています。以前、当たり前だった、いわば“蜘珠の巣’状の人々のつながりが,親にも子にもなくなっている状態です。だから、密室的ないじめが深く進行しがちだともいえましょう。生活学校の役割は、こうした縦割り行政の壁を崩したり、小さい人間関係同士をつなげて大きくするところにあるのではないでしょうか。早くいえば、問題解決に向けて、地域の橋渡し役になることです。

(3)『店先学校』の代役として

 駄菓子屋はじめ、地域の商店が、『店先学校』として、一つの教育機能を担っていたことに、こうした商店が減少、場所によっては姿を消して、はじめて分かったといえるでしょう。でも、元に復活するのは現実的ではありません。これに代るものを見つけ出さなければなりません。学校と名がついても、学校ではない。しかも、子育て最中、あるい子育てを卒業した生活学校のメンバーたちは、その気になれば、『店先学校』の代役も勤められる存在であるはずです。自分の子どもだけでなく、地域の子どもも育てるという役割は素晴らしいではありませんか。