「私たちの生活学校」156号掲載 |
いつも子どもをまん中に、地域で育てる、地域を育てる活動 |
大分県佐伯市・つるおか子どもの家 |
はじめに そこは、まさしく「家」であった。建物の玄関を入ると土間があり、その先の一段上がったところに和室がある。昔ながらの家の造りに似ていた。「ただいまー!」「おかえりー!」という声が響き、「地域のおばちゃん」が子どもを出迎えた。子どもたちは靴を脱いで2階に駆け上がり、手作りのおやつを食べ、思い思いに遊びまわっていた。 ここは、「つるおか子どもの家」(以下、「子どもの家」とする)だ。開設されて約13年。今では「子どもの家」といえばこの地域ではだいたい通じるほど、地域住民にはよく知られ、愛され続けている施設である。いったい、なぜ、「子どもの家」がこの地域でこれほどまでに親しまれているのか。その秘訣はどこにあるのか。以下では、その理由を探っていくこととする。 ここでは、大分県佐伯市「つるおか子どもの家」にて、2006年1月16日・17日に、代表の冨高国子さんに対して行ったインタビュー調査と当日の観察の結果を用いる。また補足的に、「子どもの家」で配布しているプリントや佐伯市のエンゼルプラン等の資料、2006年1月17日に佐伯市保健福祉部子育て支援課児童家庭係長・今泉真理子さんに対するインタビュー調査の結果も用いることとする。 「つるおか子どもの家」の概要 (1)地域特性 「つるおか子どもの家」のある佐伯市は、大分県の南東部に位置している。宮崎県に隣する城下町として発展し、現在では県南地域の中核都市となっている。平成17年3月に5町3村と合併し、九州で最も広い面積を持つ市になった。市域の9割近くを林野が占めており、自然が多く残る街である。市内を流れる川沿いの平野に市街地が拓け、「子どもの家」もその中に所在する。 昭和60年頃にピークを迎えた人口は年々減少を続けており、合併前の旧佐伯市の人口は約5万人であった。少子化の波は例外なく佐伯市にも訪れ、14歳以下の年少人口比率は低下しはじめている(佐伯市、2003)。3世代家族が減少する一方で、核家族やひとり親家族が増加している。平均世帯人員数も減少し、平成12年では1世帯あたり2・6人となっている。 「つるおか子どもの家」がある鶴岡地域の小学校は、児童数約650人と市内で2番目に大きい。この地域には市営および県営住宅があり、若い世帯の転出入が多い地域である。共働き家庭が比較的多く、小学校で7割(幼稚園で6割)の子に「カギっ子」になる時間が存在すると言われている。 (2)活動の経緯 今から15〜16年前,母親クラブで活動していた冨高さんたち母親らが、地域に子どもたちの遊び場を求めて運動を起こしたのが、「子どもの家」の活動の始まりである。その頃、この地域は人口が急増したにもかかわらず児童公園がひとつもなく、子どもたちの遊び場は国道沿いのパチンコ店やスーパーの駐車場しかなかった。そのような状況に問題を感じた若い母親らは、子どもたちが自由に安心して遊べる公園の設置を市に要望したのである。しかし、手探りで行政の仕組みなどを調べて頼みに行った市役所では、「公園を設置する場所も予定も、今後何十年もない」と認められなかった。 そこで、「母親らが交替で子どもたちを迎え、遊んだりする、子どもたちのための施設」の要望に変更し、再度行政に働きかけた。しかしやはり、認められることはなかった。だが、子どもたちのために、との思いをより強くした母親らは、そこでくじけることはなく、次の手を考えたのである。それは、いわゆる「地域のお偉いさん」の力を借りることであった。 早速母親らは、地域の区長、老人クラブの会長、民生委員などに頼みに行った。しかし、普段、家の中で子育てをしているため、近所の人と顔を合わせる機会が少ない若い母親らが、急に頭を下げてみたところで力になってもらえるわけはなかった。ましてや、「子どものため」と言った途端、「子どものことは親が責任を持て」と叱られるばかりであった。 そのような経験をするうちに冨高さんらが気づいたのは、そもそも母親たち自身が、地域の人を知らなかった、地域とつながっていなかった、ということであった。今、大人同士が手をつないでおかなかったら、いくら子どもたちのための施設ができたとしても、結局は親と子の関係だけにとどまってしまう。彼女たちが望んでいたのは、そのようなものではなかった。地域でこんな子が遊んでいる、育っているということを地域の人々に知ってもらい、地域の人々に気軽に声をかけてもらえる子どもを育てたかったのである。 そこで母親らは、自ら一つずつ、目の前に立ちはだかる壁を崩していった。まず、臼と杵を使う昔ながらの餅つきに、老人クラブの力を借りたいと申し出た。その年は、ただ一つの老人クラブが手を貸してくれただけであった。しかし、この行事で子どもと触れ合う時間を持った高齢者たちが、大変喜んでくれたのである。次の年の餅つきには、地域にある五つの老人クラブすべてが参加してくれるようになった。そのほかにも、凧揚げや人形劇などお年寄りと子どもが一緒に活動する行事を企画し、子どもが高齢者に抱っこしてもらうゲームなどを取り入れ、触れ合いを増やしていった。 最初の働きかけから3年目、冨高さんは区長会の集まりでこのように話したという。「私たちが本当に望んでいるのは、子どもたちのための施設をつくることではありません。最終的には、子どもたちが育ったり暮らしたりして楽しい地域、誰もが住みやすい地域になることです。子どもでもお年寄りでも、誰でも遊びに来てくれるような地域福祉の拠点ができれば、子育てをする若い世帯が地域に定着するでしょう。そのために私たち母親ができることとして、お手伝いしたいのです」と。その言葉と、これまで3年間に培ってきた子どもたちと高齢者との触れ合いの経験は、区長や老人クラブの会長らを動かすのに十分であった。 地域の有力者たちと母親らとの思いが一つになったところで、そろって行政に働きかけた。その結果、とり壊す予定だった、地域の古い公民館を無償で借りて活動を行う許可を得た。当時、幽霊屋敷のようになっていた公民館に、老人クラブや区長会、青年団など多くの地域住民が掃除に来てくれたという。物をそろえるだけの資金はなかったが、年度始めから活動ができるよう、地域の人々が家から物品を持ち寄ってくれた。こうして、紛れもなく地域の人々による手作りの、「つるおか子どもの家」の活動が始まった。1993年のことである。 「子どもの家」が開設されて13年が経つ。「子どもの家」の評判を聞きつけて、市内の他地区から、あえてこの地域に転居してくる家庭が多いという。おかげで少子化のもとでも、この地域の小学校では学級数の減少に歯止めがかかっている。冨高さんらが構想していたとおり、「子どもの家」の活動は、人が寄ってきてくれる地域づくりに貢献しているのである。 (3)「子どもの家」の活動内容 「子どもの家」の立ち上げのときから、地域の母親らは「赤ちゃんから大学生まで地域の子どもである」と考え、「子どもの家」を子どもだけではなく、地域の人々が集える場所にしたいと思っていた。その思いに基づいて、現在「子どもの家」では11人の指導員を擁し、主に次のような活動を行っている。 @放課後児童クラブ(以下、「児童クラブ」とする) 平日、「子どもの家」は17時半まで開所して、幼稚園・小学校の放課後に児童が遊ぶ場を提供している。登録している児童の定員は約90名である。対象は、隣接する幼稚園の園児と、さらに隣りあう小学校の児童(1〜6年生)である(注)。「子どもの家」の評判がよいために、毎年、定員を大幅に超える応募があり、家庭の事情などを考慮して登録の可否を判断せざるを得ないという。しかし、登録をしていない子どもの来館を拒否するものではなく、登録の有無にかかわらず、子どもたちが自由に遊べる場所として開いている。 自由遊びを基本としているが、毎月、お誕生日会や季節の行事、川遊び、ドッヂボール大会、おにぎり遠足など、お楽しみの行事も企画している。 A乳幼児の集い「トトロの広場」 火曜日の午前中には、就園前の乳幼児とその保護者を対象に「トトロの広場」を開いている(左写真)。リズム体操、読み聞かせ、紙芝居などを行い、最後におやつを食べながら他の親子と交流をはかる時間である。 「子どもの家」では「トトロの広場」を、あえて「育児サークル」とはせずに「子育て応援の場」と位置づけたという。なぜなら、子育て真っ最中の同じ年代の母親だけで集まることよりも、自分の子育てが一段落した「地域のおばちゃん」も含めたいろいろな世代の人が集まって、一緒に子育てをすることが大切だと考えているからである。筆者らが「トトロの広場」の聞き取り調査に訪れたときには、地域で運営委員会の会長をしている女性が立ち寄り、若い母親らに優しく声をかけていた。また、進行役の指導員らも、親子の輪の中に入って母親や子どもに声をかけたりしているが、「指導」するわけではなかった。こういった、「地域のおばちゃん」たちがそっと寄り添うことが日常的に行われていることで、母親らは安心感を得られているように見受けられた。 Bその他の活動 「子どもの家」を利用するのは、子どもに限らない。高齢者のための「いきいきサロン」や、「子どもの家」の発足時から続く「シルバーと子どものつどい」など、高齢者が利用できる活動を企画している。また、ここに地区社会福祉協議会(地区社協)の事務局が置かれていることもあり、様々な行事の準備が行われたり、民生委員の学習会に利用されたりしている。まさに「子どもの家」は、子どもを中心に地域の人が集う場所となっているのである。 (4)運営方法 「子どもの家」運営委員会の委員には、地区社協の会長や老人クラブ連合会長、区長会長、民生委員、PTA会長らが名を連ねている。「子どもの家」の活動のうち「児童クラブ」に属する事業は、「単に子どもを預かる場としてではなく、地域活動の機会として、地域のニーズに応じたやり方で運営すべき」として、佐伯市から運営委員会に委託されている。 実質的な毎日の活動に関しては、指導員の話し合いで決められていく。指導員は、「子どもの家」の立ち上げの時に一緒に活動した母親クラブのメンバーらで始め、今でもその半数が残っているという。現在は20歳代から60歳代までの、子どもと一緒に過ごすのが大好きな「地域のおばちゃん、お姉ちゃん」が集まっている。青年ボランティアとして関わっていた会社員の女性が勤めを辞めてまで指導員になったケースもあると聞く。必ずしも全員が教員免許や保育士の資格を持っているわけではないが、研修を受けて児童厚生員の免許を取得したり、栄養士の資格に挑戦したりするなど、研鑽を積んでいる。 主な収入源は、「放課後児童クラブ事業」に基づく年間300万円の補助金や寄付金などである。その他、登録児童の家庭から月会費(小学生:月5000円、幼稚園児:月8000円)と入会費を徴収しているが、ほとんどがおやつ代や光熱費、印刷費や折り紙等の材料費に消えてしまうという。ちなみに指導員の給料は、現在、月7万円である。この額は、朝からおやつ作りなどをして、夕方遅くまで子どもと体当たりしている指導員の仕事を鑑みれば、薄給といえよう。しかし、「子どもの家」は「職場」ではなく、本当に子どもが好きで一緒に活動したい「おばちゃん」たちが集まっている場所なのである。調査の際に筆者らが見聞きした指導員の話や行動からは、子どもの笑顔や成長が何よりの「報酬」であるように感じられた。 「つるおか子どもの家」の子育て支援を支える思い 「子どもの家」で行われる子育て支援は、15〜16年前に若い母親らが格闘した当時の強い思いによって支えられている。今も綿々と続くその「思い」のいくつかを紹介したい。 (1)地域の子どもを育てること 「子どもの家」のスタッフは、子どもがここにいることがいいことだとは思っていない。子どもたちが、地域で過ごす場所があるのなら、それが一番望ましいと思っているのである。そのとき、近所の人に挨拶できたり、他所のお年寄りを見たときに気遣えたりすることが、子どもたちが地域の中で生活するために必要なことだと考えている。そのための人間関係の作り方を少しでも伝えられたら、という思いで「子どもの家」を開いているのである。 また、子どもを「地域の子ども」にさせるために、「子どもの家」で考えていることがある。それは、その土地でしか食べられないものを食べて味を覚えてもらい、その味を好きになってもらうことである。地域の食材の味が好きだと思う子は、絶対にその地域も好きになるし、その土地の人も好きになるはずである、という期待からである。そのため、「児童クラブ」で提供するおやつは基本的に手作りで、地元の郷土料理を多く取り入れているほか、毎日、市特産のいりこを一人1匹ずつ出し、「佐伯の味を知って欲しい」と考えている。 (2)いろいろな人と一緒に暮らすこと 地域にはいろいろな人が住んでいることを知り、そうした人々と友だちになるために、との思いから、「子どもの家」では障害がある子どもや地域の人との交流を積極的に行っている。現在、児童クラブには、ダウン症、発達障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)などの障害児が3名登録しており、障害のある子もない子も一緒に遊んでいる。金曜日には「みんなで学ぼう私たちの福祉」と題して、地域に住んでいる、手話、点字、車椅子、盲導犬などを利用する障害のある方を招き、子どもたちとの交流を深める活動を行っている。 地域には、高齢者のみの世帯、核家族世帯、単親家庭、一人っ子の家庭などいろいろな背景を持つ家庭がある。自分の家で足りない部分は、地域の中で、他にできる人が補えばいいのではないか、と冨高さんらは考えている。だからこそ、積極的に地域のいろいろな人との交流を図っている。たとえば、赤ちゃんたちの運動会では、普段、付き合いの少ない高齢者との触れ合いを取り入れている。夏のキャンプでは、子どもたちと中・高校生のボランティアが遊んでいる姿を、保護者に見てもらっている。こうした活動を通じて、地域がまるで「大きな家族」のようになり、「地域の子ども」を育てることに貢献しているのだといえよう。 (3)保育サービスではない子育て支援 冨高さんら「子どもの家」のスタッフが最も心がけているのは、「子どもがまんなか」であることである。であるからこそ、「児童クラブ」への入所や子どもの帰宅方法(親が迎えに来るまで待たせるか、子どもだけで帰らせるか)について、子どもがそれを望んでいるかどうかを家庭でじっくりと話し合ってもらうことを勧めている。 またスタッフらは、何でも「子育て支援」や「保育サービス」として先回りして手を出したり、保護者がそれを「〜してもらえて当然」と思いがちになってしまったりする現在の風潮を警戒している。先に述べたとおり、彼女たちは「子どもの家さえあれば十分」という活動ではなく、地域が子どもにとって、ひいては住民みんなにとって楽しい地域、安全な地域になることを願っているからである。子どもや子育て中の親にとって不便なことがあったとしたら、それをどうしたら解決することができるのか、お互いに声を掛け合い、工夫したり知恵を出し合ったりすることが大切だと考えているのである。そしてそのなかで、他人に対する思いやりや優しさも生まれると考えているのである。もとより、そのような関係が持てる地域でなければならないと考え、活動を展開しているのである。 そのような思いから、全国的に閉所時間を延長する傾向のある放課後児童クラブ事業に対し、「子どもの家」では17時半という比較的早い時間に閉所時刻を設定している。その時間に親の帰宅が間に合わない場合には、親子で話し合い、子どもにとって最も良い方法を選んでもらいたいからである。そのときに、必要があれば、近所の人に子どもの世話を頼むことができるような地域になってほしいとの考えもあるからである。 (4)地域の力を育てること 「子どもの家」の活動に特徴的なのは、多くのボランティアがその活動を支えていることである。現在、中学生から大学生、OLなど48名の登録ボランティアがおり、毎月、手伝ってくれている。そうしたボランティアの支援に対し、冨高さんらは必ず、毎月の「お便り」(右写真)でそのことを報告したり、お礼の手紙を家庭に送ったりしているという。ボランティアの生徒が在籍している中学・高校にも、毎月お礼に訪れている。このようなつながりを持つことで、今では逆に、「子どもの家」が高校の保育実習やボランティア実習などに利用されている。冨高さんは「そういう絆を持つまでが大変だった」と振り返る。 このようなボランティアの多くは、自主的に口コミで集まるという。そして、活動が長続きする者も少なくなく、大学進学などで九州を離れても、ボランティアで関わり続けるために帰省する若者さえいるという。なぜ、彼らはそこまで「子どもの家」のボランティアを続けるのであろうか。ボランティアをする子ども自身が活動を楽しんでいることもあるが、それ以上に、活動の中で彼らが責任感を持っていくことが理由ではないかと思われる。それは、この地域で育つ後輩たちを自分たちが守らなければ、という感覚である。これを象徴するものに、「児童クラブ」の入会式に行われる、中・高・大学生のボランティアによる「ボランティア宣言」がある。ボランティアたちが親や子、地域住民たちを前に、「今年度も命がけで子どもたちを守ります!」と宣言するのである。「若いお兄ちゃんには気をつけて」と言わざるを得ないこのご時世には考えにくいほど、その姿は頼もしいものであるという。このような若者の姿を見て、「この地域も、若者も、捨てたものじゃない」と見直す大人が多いという。このような、自らが楽しく地域の活動に関わりつつ、地域の子どもを守ろうとする頼もしい若者が育っていく地域は、「誰にとっても楽しく住みやすい地域になる」と冨高さんは笑顔で語った。その一端を、「子どもの家」ではボランティアの育成を通じて担っているといえよう。 ボランティアの支援に加え、「子どもの家」では毎月誰かから必ず、いろいろな差し入れを受けることが開設以来続いているという。物をもらうことが嬉しいのではない。地域の人が「子どもの家」を気にかけてくれ、何らかの形でつながっていることが嬉しいのである。冨高さんは、毎月来てくれるボランティアと、毎月の差し入れの二つの支援を、月のお便りで紹介できることが「子どもの家」の自慢なのだと語っていた。 もう一つ、「子どもの家」では、地域でのいい関係を育てるささやかな試みを行っている。それは、夏のキャンプで親子をあえて離し、親同士でグループを作らせることである。このことによって、親同士が子ども抜きで関係を築くことができる。冨高さんらが立ち上げのときに感じた、「まずは大人同士が地域でいい関係を築くこと」、それを実践しているのである。 「子どもの家」の活動は、それを通して、地域での人と人とのつながりを育て、ひいては地域の力を育てているといえるであろう。 「子どもの家」における人間関係の基本 ところで「子どもの家」における人間関係はどのように築かれているのであろうか。そのヒントとして、「子どもの家」が人間関係を築くうえで大切にしていることをあげてみたい。 (1)誰もが「地域の大人」であること 「子どもの家」では、子どもたちに指導員のことを「先生」とは呼ばせていない。「おばちゃん」や「お姉ちゃん」である。冨高さんらは、「ここは学校でも塾でもないので、先生はいないから」と話すが、それだけが理由ではない。誰もが「地域の大人」になり、一緒に子育ての当事者となるためなのである。であるから、市長が視察に訪れたときも「佐伯の大きなお父さんだよ」と子どもたちに紹介するし、どんなに偉い人でも「地域のおじちゃん」であり、「地域のおばちゃん、お兄ちゃん、お姉ちゃん」と呼ぶのである。子どもたちにとって重要なのは、相手の肩書きではなく、誰もが「地域の大人」として関わりを持つことだと考えているのである。 (2)名前を知ること、名前を呼ぶこと 子どもに対しても、大人に対しても、その人の名前を知ること、そしてその名前を愛着を込めて呼んだりすること、ここに「子どもの家」の活動の基本があるように見受けられた。これは、15〜16年前の立ち上げのときに、冨高さんらが区長や老人クラブの会長らと関わりを持つようになって気づいたことでもある。 それは、たとえば次のようなところに表れている。先に述べたように、毎月のお便りには、おやつや遊び道具などを寄付してくださった方の名前をフルネームで必ず載せている。ボランティアとして関わってくれた人のことも、このお便りでフルネームで紹介している。差し入れのおやつを子どもたちに出すときには、「今日のおやつは、○○さんからいただきました」と言い伝え、感謝の気持ちを表すようにしている。こうして、地域で関わってくれる人の名前を、事あるごとに紹介し、子どもたちに身近に感じてもらうのである。もちろん、「児童クラブ」の新年度には、90人もの子どもとその親の名前を指導員全員が3・4日で覚えるようにしているなど、人の名前を覚えることを人間関係づくりの基本としている。 他人と関わるとき、肩書きや「おじいちゃん」など一括りにした呼び方ではなく、その人の名前を知り、その名前を呼ぶことが、相手の存在を認め、相手を大切に思うことの表れではないだろうか。「子どもの家」ではこのようにして、地域で支えてくれる人を具体的に想起し、感謝することを、日々の実践のなかで、子どもたちとともに行っているのである。 おわりに 「子どもの家」での取り組みを話すとき、冨高さんはいつもきわめて明るく、「この人と友だちになってみよう、という気持ちがあれば、どこの地域でも、誰にでもできることだと思います」と言う。たしかに「地域や行政の理解がない」と憤り、不満を口にすることは誰にでもできる。しかし、「努力が足りないのは、私たちのほう」と自らを省み、地域に歩み寄り、3年間という決して短くない期間、母親たちとともに地道に人間関係を築き上げていったその努力は、一言で表せるようなものではない。その険しい道のりを経て、今の「子どもの家」やそれを支える地域が存在するのである。15〜16年前には子育て支援に対して腰の重かった行政も、「子どもの家」の活動を目の当たりにして、今では真剣に子育て支援に取り組んでいるという。市のエンゼルプランの題名は『いつも子どもがまんなか』である。「子どもの家」で目標とする言葉と同じである。 全国を見回すと、転出入が激しい地域や、新たに開発されて出来上がったりした地域も多く存在する。そのような場合、「つるおか子どもの家」と同じような取り組みが可能であるだろうか。まずは、その地域の大人同士でいい関係を築くことができるような取り組みから始めていきたいものである。 <注>「放課後児童クラブ事業」は小学校1〜3年生が対象であるが、「それに準ずる」児童も受け入れの対象になっている。この地域では、就学前の子どもは「みんなが幼稚園に行くもの」という意識が強く、保護者が就労している子どもでもほとんどが幼稚園に通っている。そのため、「放課後児童クラブ」を必要とする幼稚園児の受け入れも行っている。 <引用文献> 大分県佐伯市『いつも子どもがまんなか―さいきエンゼルプラン―』2003年。 |