「まち むら」98号掲載
ル ポ

支え手のいなくなった町家を再生し街並みを守る
広島県福山市・NPO法人鞆まちづくり工房
「潮待ちの港」として栄えた鞆の浦

 広島県東部にある人□約47万人の中核市・福山市。日本三大絣(かすり)の一つとされる「備後絣」などの繊維産業で栄え、近年は街のあちこちから見える巨大製鉄所が経済を牽引する<ものづくり>の都市。その中心部から30分程度バスに揺られると、思いがけない街並みが広がる。
 迷路のような細く入り組んだ路地と、その両側に並び立つ江戸時代の風情を残す町家。それも、ただの観光資源ではなく、その一軒一軒で昔ながらの商売が営まれており、道行く人の郷愁を誘っている。街並みは、漁師の生活がそのまま残った砂浜と美しい弧を描く円形港湾につながり、港の中心にそびえる江戸時代の灯台「常夜灯」から海を眺めていると、ゆったりとした時間が流れていく。
 万葉集に詠まれ、瀬戸内海を行き交う船の「潮待ちの港」として栄えた景勝地・鞆の浦。今、この風光明媚な港町が『危機』に瀕している。NPO法人「鞆まちづくり工房」(松居秀子代表)は「鞆を知り、そして守っていこう」と2003三年、この場所で活動を始めた。


街並みがなくなるという危機から

 『危機』の話から始めよう。
 広島県などによると、鞆の浦のある同市鞆町の人口は約5000人。これは、30年前と比べて半減しており、小学生の数にいたっては約2割に減った。一方、65歳以上の高齢者は人口の40パーセント近くを占め、市平均の約2倍に達している。深刻な数字だ。
 その結果、昔ながらの街並みの<支え手>がいなくなり、空き家などが増加。2002年、鞆港周辺(8.6ヘクタール)には江戸期から戦前までの建物が約280棟残っていたが、今や約50棟が壊されたり、使われなくなったりしているという。
 5月のある休日、鞆町を歩いてみた。観光客で賑わう往来の中で、今にも瓦の重みに耐えかねて崩れそうな町家や、廃虚のようになったかつての商家が目に止まった。足を延ばすと、町家以外にも、港のシンボルだったという稲荷は崩れ、鍛冶屋が寄進したとされる社は風雨で倒壊寸前まで傾いていた。地元の郷土史家は、「このままでは、鞆の町並みは、その歴史ごとなくなってしまう」と警告する。
 「鞆まちづくり工房」は、この街並みの再生に取り組み、4年間で14軒を商店などに甦らせたのだ。


竜馬ゆかりの「旧魚屋万蔵宅」を再生

 「鞆まちづくり工房」は、鞆町で喫茶店「友光軒」を経営しながら鞆に残る歴史遺産の調査活動を行なってきた松居さんを代表に、2003年1月に設立。同年6月に法人としての認証を受けた。その活動が大きな注目を集めたきっかけが、「坂本竜馬ゆかりの町家」の再生だ。
 法人認証を受け、「鞆まちづくり工房」が動き始めたばかりの2003年6月、松居さんは、自宅からほど近い一軒家のシャッターに「売り家」と書かれた貼り紙があるのを見つけた。その家こそ、幕末に竜馬が乗っていた船が近くで紀州藩の船と衝突した「いろは丸事件」で、賠償の直談判をした「旧魚屋万蔵宅」であった。
 「貴重な歴史遺産が、取り壊されるかもしれない」。松居さんらは危機感を覚え、行動を開始した。費用は60坪で約1100万円。<よちよち歩き>のNPO法人が、ボンと用意できる額ではない。しかし、立ち上げに協力したNPO法人「ピースウィンズ・ジャパン」統括責任者の大西健丞さんの助力で資金を調達。地元建設会社「平和建設」(岡田吉弘社長)が改修に名乗りを上げてくれたことで、プロジェクトは動き出した。「多くの人が、わがままを聞いてくれた。ただ、あの角地が駐車場にでもなっていたら、街並みはどうなっていたことか…」
 「竜馬ゆかりの町家」は今、外装などの工事をほぼ終えたところ。秋には、往時をしのぶ旅館「御舟宿いろは」としてオープン出来るという。


宮崎駿監督の「鞆」に対する想い

 「竜馬ゆかりの町家」以後、いくつもの町家再生に携わった。しかし、その間も容赦なく町並みの<崩壊>は進んだ。「もっと広く支援を呼びかけ、多くの人の手で守らなくては」。松居さんは、大西さん、岡田さんらとともに2006年10月、賛同者の寄付で運営する街並み保存基金「鞆・町家エイド」の準備会発足を発表した。この計画の大きな力となったのが、鞆に関心を持ち、呼びかけ人に名を連ねた文化人や著名人たち。その一人が、アニメ映画の巨匠・宮崎駿監督である。
 宮崎監督は2004年11月、スタジオジブリのスタッフらとともに社員旅行で鞆を訪問。その案内役を務めたのが松居さんら「鞆まちづくり工房」のメンバーだった。「鞆らしく迎えたい」と、町家への宿泊を計画。ゼミ合宿で滞在していた学生と一緒に、手作業で障子や畳を張り替えるなどして町家3軒を急造の宿屋に<再生>した。宮崎監督は「伝統が息づく街。大切に残してほしい」などと感謝し、以後、幾度も鞆に逗留。作品の構想を練るなどしたという。
 松居さんが、2枚のスケッチ画を見せてくれた。宮崎監督が鞆滞在時に、「竜馬ゆかりの町家」の修復終了後をイメージして描いたという、完成した「御舟宿いろは」での1コマだ。
 風情漂う玄関には「いろは」と「鞆潮待」の文字。温かい木造建築の奥からは、割烹着姿の女性が柔和な表情で出迎えてくれる。中庭では、手ぬぐいを片手にくつろいだ様子の男性に、2階から少女が身を乗り出し、屈託のない笑顔で語りかける――そんな、心温まる情景が、生き生きと描かれている。
「私たちは石を投げる。その波紋が広がり、多くの人が共感してくれれば。鞆は愛されるだけの素質を持っている。いい物やいい環境を、子どもたちに伝えていきたい」。松居さんの言葉には、決意が漲っていた。


「港湾埋め立て・架橋」の危機も

 実は、鞆にはもう一つ、松居さんらにとっての『危機』が迫っている。
 それは、前述の『危機』を生んだ「少子高齢化」への<処方箋>が基となった開発計画「港湾埋め立て・架橋事業」だ。
 鞆町を横切る県道は、車のすれ違いが困難なほど狭い。県は1983年、渋滞緩和や防災強化の目的で、港を横切るバイパス道路を通すために橋を架け、港湾の一部を埋め立てる計画を策定した。都市基盤整備と町内活性化を狙ったものだったが、計画によって「歴史的な港湾施設や景観が破壊される」と反対の声が上がり、住民を巻き込んだ議論が、24年間も続いた。
 今年5月23日、県と市は、水面に関する権利者全員の同意を得ないまま、埋め立て免許を出願。一方、松居さんや同じく鞆町のまちづくりを考えてきた「鞆を愛する会」の大井幹雄・代表幹事らは、4月24日、免許の事前差し止めを求めて提訴。対立は決定的となってしまった。
 松居さんは言う。「なぜ橋なのか。なぜ埋め立てなのか。行政には、その前にやるべきことがあるはずだ。このままでは、世界中の笑い物になってしまう」。
 裁判の先行きは長く、町並み保存も一朝一夕には出来ない。「鞆まちづくり工房」の戦いは、これからが正念場だ。