「まち むら」97号掲載
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市民の意識改革でごみを半減
東京都日野市
 私たちの家庭から出るごみの処理には、年間約2兆円もの税金が投入されている。指定袋による家庭ごみの有料化は、節約への動機からごみの減量が図られると期待されている。しかし、当初の減量効果は3年ほどで薄れ、ごみの排出量がリバンウドする傾向も見られる。東京都日野市では、2000年の有料化で半減した収集ごみの量がいまもなお減少し続けている。その背景には、ごみに対する市民の意識改革があった。


多摩地区の宿命

 東京西部に広がる多摩地域のごみ処理は、東部の23区と大きな違いがある。23区では海面への埋め立てが可能であるのに対し、多摩地域の最終処分場は陸上に求めなければならない。多摩地域では、自前の処分場をもつ4自治体を除いた25市1町が東京都三多摩地域廃棄物広域処分組合を結成。焼却灰と不燃ごみを日の出町のニツ塚広域廃棄物処分場に埋め立てている。
「多摩地域の市町村の危機意識は、23区とは違います。最終処分場の問題は多摩地域の宿命といってもいいかもしれません。もう次の最終処分場は造れない。現在の処分場の延命を図るには、ごみを減らすしかないんです」
 日野市ごみゼロ推進課長の大島康二さんはこう語り、その認識は広く多摩地域の市民に共有されていると続ける。
 処分組合では最終処分場の寿命を延ばすため、市町村に搬入配分量を割り当てている。かつて日野市は不燃ごみの量、資源化率ともにワーストワン。そのため市の搬大量は配分量を上回っていた。
 日野市民は、1970年から市内各所に設置され始めた可燃と不燃の2種類のダストボックスにごみを出していた。いつでも、何でも捨てることができ、どちらかが満杯になれば空いているほうに捨てる。この排出方法がごみのリサイクルと減量を阻んでいた。


30年ぶりのごみ改革

 2000年10月1日、日野市はすべてのダストボックスを撤去。指定袋によるごみの有料化と戸別収集を開始した。30年ぶりに街角からすべてのダストボックスが消えた光景は、市民に「ごみ改革」を強く印象づけた。
 この日のために、日野市は3年をかけて周到にごみ改革の準備を進めていた。指定袋の1世帯あたりの負担は月に500円程度になるように設定。高齢者や障害者でも出しやすく、各家庭が責任をもってごみを出す戸別収集にした。平日の夜や週末に行なわれる市民説明会には多くの職員が無給で出向き、600回を超える説明会には約3万人の市民が参加した。
 「ごみ改革」の効果はすぐに現れた。
「1年後には、可燃ごみは47%、不燃ごみは64%も減少する一方、資源ごみは280%増加しました。しかも、資源ごみを含めたごみの総量が27%減少したんです」(大島さん)
 この減少傾向は現在も変わらない。人□が増加しているにもかかわらず、日野市のごみの排出量は増えていない。なぜ日野市では有料化後のリバウンドが起こらないのかという問いに、大島さんは次のように答える。
「出たごみをリサイクルするだけではなく、最初からごみを出さないようにする発生抑制が市民のライフスタイルとして定着し、消費行動が変わったのです」


市民参加で「ごみゼロプラン」

 翌2001年には、多くの市民の参加を得て、「日野市一般廃棄物処理基本計画」(ごみゼロプラン)をまとめる。この計画では、可燃ごみで最も多い生ごみ、不燃ごみで最大のプラスチック類の削減対策を盛り込んだ。その後、策定に関わった市民は、自らが立案した計画を実行に移すための組織として、「ごみ減量推進市民会議」を発足させた。
 日野市の環境政策への市民参加には、長い歴史がある。96年、市民の直接請求によって環境基本条例が制定され、97年から2年をかけて市民参加で環境基本計画が策定されている。こうした環境意識の高い市民が、ごみの減量を課題とする市の政策を後押ししている。
 設立当初から活動を続けているごみ減量推進市民会議のメンバー、八田和之さんは、参加の動機を次のように語る。
「妻が病気に倒れたことをきっかけに、主夫としてごみに向き合ううち、これはたいへんな問題だと思い、ごみ収乗車の行方に関心をもったんです」
 市民会議のメンバーは約20人。PR部会とレジ袋・トレー削減部会があり、市の政策にも深く関与している。日野市が提唱するごみ減量の優先順位4Rも、市民会議の提言を受けて採用されたと、大島さんは語る。
「一般にごみ問題の優先順位はリデュース(発生抑制)、リユース(再使用)、リサイクル(再生利用)の3Rですが、日野市はごみ減量推進会議の提言を受けて、これらに優先するリフューズ(発生回避)を加えた4Rを提唱しています」


マイバッグ運動の展開

 ごみ減量市民会議では、「ごみゼロプラン」に盛り込まれたプラスチック容器を削減するため、マイバッグ運動を開始した。メンバーと約100人の市民ボランティアは2004年から2年間、毎月5日を全市一斉のマイバッグデーとし、市内の大手スーパーの店頭に立ち、マイバッグを持参し、レジ袋を断るよう呼びかけた。その目的を、八田さんはこう語る。
「ごみの減量と環境保全の両面から、石油製品であるレジ袋を、使い捨て製品のシンボルとして取り上げたんです」
 全国で消費されるレジ袋の量は、LL袋(9.9グラム)換算で年間約305億枚。膨大な石油を原料に製造されながら、ほとんどは一時間もたたないうちにごみになり、ごみ処理費を増大させている。日野市、そして市民会議の目的は、広範な啓発を通して、レジ袋を削減することにあった。
 メンバーが出口調査を行なうと、2年の間にレジ袋の辞退率は21%から27%に、マイバッグ持参率も36%から43%に上昇した。
「2004年にアンケート調査を行なうと、買い物はマイバッグでと考えている人は92%、そのうちマイバッグ運動によってそう思うようになった人が46%を占めることがわかり、私たちの活動が有形無形の意識改革につながったことが実感できました」(八田さん)
 しかし、意識の向上は必ずしも行動につながらないことが明らかになった。そのため、容器包装リサイクル法改正論議の中で、国が有料化の方針を打ち出すと、市民会議のメンバーは環境省と経済産業省を訪問し、有料化の要望書を提出した。日野市ではその環境が整ったと八田さんは考えている。
 市民会議では、次のターゲットをレジ袋から容器包装ごみ全般に広げようとしている。「ごみゼロ」は長く理念として提唱されながら、実現には至っていない。日野市は市民とともに、その目標に向かう確かな歩みを進めている。