「まち むら」93号掲載
ル ポ

厄介もんの雪を活かした地域つくり
新潟県小千谷市・池ケ原地区
「雪掘り」という言葉を聞いたことがありますか?

 新潟県魚沼地方では、除雪作業を雪掘りと言う。屋根の雪おろしも「屋根の雪掘り」で、「雪はき」とはスケールの違う除雪作業。この言葉にはこの地方の豪雪のすざまじさが感じられる。
 1月、訪れた魚沼地方の一角、小千谷市池ケ原地区もこの冬、すでに6回目の屋根の雪掘りをしていた。後述する「雪蔵」は3メートルの雪にすっぽり包まれ、入り□だけがのぞいていた。集落は、2年続きの大雪にひっそりとしている。
 池ケ原地区は、小千谷市の中心部から南へ7キロの信濃川高位段丘上にある世帯数107。人口460の集落。市中心部よりも積雪量も多く、雪消えも遅い。しかし、100ヘクタールほどの水田からは、良質な魚沼産コシヒカリを産出し、ソバや野菜も豊かに実る。一昨年の中越地震では、震度6強にみまわれ、100戸あまりの全戸が、ほぽ半壊の被害を受けた。
 この地に、この豪雪にくじけず、雪を活用した地域づくりが進められている。


雪を「恵み」に変えたい

 平成4年、30代から70代までの、公務員、建設業、農業などに携わる9人が、まちおこし集団「ライフワーク池ケ原(代表・丸山公重さん)」を発足させた。9人の共通の想いは、雪を「嫌な奴、厄介もん」として扱うのではなく、楽しく地域の活性化につながる「恵み」として活かせないかということだった。何度か話し合った末、みんなの意見は、「真夏の雪祭り」にたどりついた。「雪祭りはどこでも、冬にやっている。冬にやるのは芸がないではないか」「どうせやるなら真夏の日盛りのなかでやってみよう」「子どもはきっと喜ぶに違いない」と。行動は早かった。メンバーの一人ひとりが、そのツテを活かし、地区の人たちから、市役所、建設会社、地方新聞社へと祭りの開催に動いた。実施は、翌年の7月末の日曜日と決まった。


「たまげた!」1000人もの人が参加

 平成5年早春、作業は雪を保存することから始まった。重機で雪を積み上げ、断熱のため銀色のシートで覆った。夏までの雪の保存状態がメンバーにとっては一番の気がかりだった。
 6月になると、口コミは口コミを呼びどんどん協力者が現れた。スーパーがポスターを掲示してくれ、地元の新聞社も祭りの予告記事を掲載してくれた。
 祭りの当日、30℃を超える炎天下のなか、会場となった池ケ原小学校のグラウンドに、ダンプカー30台分の雪が、運び込まれた。親子や友だち同士でのかまくらづくり、雪スベリ台や雪だるまもつくられた。子どもたちは、真夏のなか、雪と思い切り遊んだ。生まれてはじめての雪祭りだった。
 夜は大人の部。ライトアップした雪のステージで、昔の雪国衣装である藁帽子とすっぽん(藁の雪靴)を身にまとってのカラオケ大会。25組が競い合った。景品には、テレビも出され盛り上がった。この日グランドに集まったのは1000人を超え、地区住民の2倍以上の人が参加したことになる。人びとは真夏の雪祭りに燃えた。大成功だった。
 雪祭りの費用は、発起人の9人が賄うつもりで、積み立てをしてきた。しかし、当日の参加者の中から思わぬ寄付が寄せられ、それで賄うことができ、地域の人々の支援と信頼を得た瞬間だった。と同時に今後への熱い期待をも感じた。平成6年、前年以上の成果をあげようと意気込んで準備が始まった。ところが当日、突然の激しい雨に見舞われ、雪質は悪化し、中止せざるを得なかった。真夏の雪祭りの難しさを味わったという。翌7年も、さらに8年も雨に襲われた。一時は「やめようか」という弱音の声もメンバーから聞かれたという。もう一つの問題点も浮上した。夏までにいかに雪を保存するかで悩んだメンバーは、断無効果を保つために、銀色のシートに加え、もみ殼で雪を覆った。それが逆に仇になった。もみ殼の混ざった雪はなかなか溶けない。祭りが終わったあとも溶けず、体育の授業などに支障をきたしたのだ。そこで、平成9年には、祭りの会場を雪蔵のある場所に移し開催、この祭りは現在も続いている。


農産物の付加価値を高める雪蔵づくり

 雪祭りの開催とあわせて、ライフワーク池ケ原では、夏の間などに農産物を貯蔵する「雪蔵」づくりにも取り組み始めた。雪の中で保存することにより、野菜はその鮮度が保たれ、糖度は増す。日本酒やワインもその熟成に適しているということがいわれている。池ケ原の特産物の安定供給と付加価値を高めるために「雪蔵」づくりに着手したのだ。雪蔵は、雪の重みに耐えうる強度と物を貯蔵し採算をあげるだけの収容能力が求められる。はじめは、半円形の鋼板を用いたがうまくいかず、次に鉄骨づくりにしたが、雪の重みに耐えられなかった。試行錯誤の末、輸送用のコンテナにいきついた。そのコンテナの上に、銀のシートともみ
殼を混ぜた雪で覆った。コンテナにたどり着くまでに4年の歳月を要していた。雪蔵を運営するために、平成12年秋、ライフワーク池ケ原が母体となって、地域の人たちの参加を募り、「組合スノーランド池ケ原」が立ち上げられた。その出資金に加え、県、市の補助金を仰いで、雪蔵が完成した。その収蔵能力は、米にして3000俵。民間の団体でこれだけの規模を待つ雪蔵は新潟県内でもここ池ケ原だけだと言う。
 翌年、魚沼産のコシヒカリを貯蔵し、さらなる付加価値をつけて販売できると期待に胸を膨らませた。しかし、ここで難関が立ちはだかった。魚沼産コシヒカリが、ブランド米に指定されたのだ。このことにより、「雪蔵で保存したコシヒカリ」という謳い文句は、あまり意昧のないものになってしまったのだ。価格も変わらないという。もくろみは崩れた。しかし、丸山さんたちはめげなかった。米の代わりに、主力をニンジンやジャガイモに変えた。とくにニンジンは、雪蔵に保存することにより、糖度がアップし、加エジュースとしてすこぶる評判が良かった。また、メンバーたちが作っている日本酒やワインも貯蔵し、さらにその効果の研究を進めている。


蕎麦屋「雪蔵の里」をオープン

 高地にある池ケ原地区は、ソバの産地でもある。このソバをもっと広めたい。これもメンバーの夢だった。そんなとき、地元産の杉でモデルハウスを造りたいという話が舞い込んだ。渡りに船。「このモデルハウスを蕎麦屋にし、池ケ原のソバを広めよう」。雪蔵と同様に、出資者を募り、蕎麦屋「雪蔵の里」は、平成15年にオープンした。ソバはもちろんのこと、薬味のネギ、さらには日本酒などすべて地元産の食材を使っている。店長には丸山さんが就いた。4人の地域の人が店を切り盛りしている。たとえ4人とはいえ、雇用の促進という面でも効果をもたらしたといえる。また、「雪蔵」で貯蔵された野菜はここでも販売されている。


中越地震にも遺憾なく力を発揮

 雪蔵の里が軌道にのった一昨年10月、突然襲ったのが中越地震。冒頭に紹介したように、ここでは震度6強を記録した。全世帯の家屋が半壊し、水田に水を供給するパイプラインが壊滅的な打撃を受けた。さらに冬には、19年ぶりの豪雪が追い討ちをかけた。しかしライフワーク池ケ原が核となり雪祭りや雪蔵の活動のなかで培ってきた地域の連帯の力で見事乗り切った。地震直後は、避難所に指定されていた小学校体育館の天井が落下し、使用できなくなったため、急濾ビニールハウスを避難所にし、難をしのいだ。そして、炊き出し、トイレづくりに、さらには、家々の修復、パイプラインの復旧にも、住民のつながりの強さは最大限発揮された。地震後、この地区を離れた家は一軒もないということが、その強さを物語っている。
「厄介もんの雪を少しは恵みの雪にしたかな。これからが勝負ですよ」と、丸山さんは、窓から見える雪山を見上げながら呟いた。