「まち むら」92号掲載
エッセイ<環境>

地球を救う物質―鉄分
畠 山 重 篤(牡蠣の森を慕う会)
 今、地球規模の環境問題は何かと問われたら、温暖化現象と答える人が殆んどかと思われる。
 化石燃料の消費がその原因とされ、企業の生産活動から、個人のライフスタイルまでいかに化石燃料を減らすかが問われている。
 その道の専門家が集まったシンポジウムを傍聴したことがあるが、どうシュミレーションしてみても予想される数字は絶望的なものしか出てこない。
 中国を始め、圧倒的な大人口を抱えるインド、東南アジアの人々が、先進国と同じライフスタイルを目指している現実が数字に現れるからであろう。
 そのような中で、唯一と言っていい解決策と注目を浴びているのが海洋の植物プランクトンに二酸化炭素を吸収させるという案である。
 「鉄理論・地球生命の奇跡」(矢田浩著・講談社現代新書)は待望の書であった。
 じつは、二十年前私はこの理論を学んでいた。北海道大学教授松永勝彦先生との出会いにより教示を受けていたのである。
 鉄理論を理解するには、若干の化学の予備知識が必要である。幸いなことに、気仙沼水産高校水産製造科卒の私は、化学の基礎を学んでいたのである。
 家業が牡蠣養殖業であり、生物指向が強く化学の授業は退屈そのものであった。
 しかし、冷凍機運転技術者の国家試験受験に水産化学が必修だったのである。
 鉄分は、動物にとって生命体の維持に不可欠の成分である。血液の赤い色素であるヘモグロビンの中心元素である。酸素や栄養分を付着させて、体の隅々まで運ぶ役目をしているので、化学者は必殺運搬人などと言っているのだ。
 植物にとっても鉄は最も重要な成分である。光合成を行なう、クロロフィルの生合成に不可欠である。
 また、海では窒素は硝酸塩、燐は燐酸塩の形で水に溶けている。これらを植物が吸収する時、還元をしなければならないが還元反応には酵素が関わる。この酵素の働きを促す触媒のような物質が鉄分なのである。
 ところが海では鉄分が不足している。それは地球の歴史と関係する。誕生したばかりの地球には酸素はなかった。鉄は酸素がなければイオンの形で水に溶けている。海水中に溶けている成分で最も多かったのは鉄分と言われている。
 やがて、海中に、光合成をする生物が発生し、酸素を放出し始めたのである。そして、鉄を酸化し、酸化鉄の粒子になった。粒子は重く海底に沈んだのである。十五億年かかって鉄は海中から取り除かれてしまったのだ。
 海中に放出された酸素が飽和状態になり空中へ出てきた。そして、オゾン層が生まれ海から生物が陸に上がってきたのである。
 つまり、現在の大気組成の根源は、海の植物群の光合成の賜物なのだ。言い換えれば海にも大森林が存在していると言える。
 海の森林の栄養塩は、約二千年の時間軸で地球を一回転しているという深層大循環によって海底から湧き上がってくる。
 北洋海域が大漁場なのはそのためである。北洋海域への鉄分はどこから供給されるのだろうか。驚くなかれ、ジェット気流によって運ばれる中国大陸の黄砂なのである。
 アメリカ・モス・ランディング海洋研究所のジョン・マーチン博士は、アラスカ沿岸の表層水に栄養塩が残っているのだが、植物プランクトンの発生量が少ないことに気がついた。
 それは、鉄が含まれている中国大陸の黄砂が届かないからだったのである。そのことから海洋の植物プランクトン発生の鍵は鉄であることを発見するのである。
 世界の海洋の二割を占めている南極海も鉄が不足している海域として知られている。
 マーチン博士の計算では、三十万トン(タンカー一杯分)の鉄を南極海に散布することにより、年間に世界で排出される二酸化炭素の半分程度が吸収されるというのだ。
 二十年前に松永先生から教わった鉄理論が今現実のものとなってクローズアップされてきた。このことの理解に、退屈だった高校の化学の授業がどれ程役立っているか計り知れない。
 人生無駄なものは全くないとつくづく思い知らされている。