「まち むら」90号掲載
ル ポ

「学校の灯を消すな」を合言葉に「留学制度」を導入
徳島県由岐町・伊座利の未来を考える推進協議会
 クロ兄ちゃん、清のおっちゃん、てっちゃん、なおちゃん…。地域に住む子どもたちは大人たちを愛称で呼ぶ。
 トシフミ、ジュン、ヨシミ、サキコ…。大人たちも呼び捨てで子どもの名を呼ぶ。
 このムラを初めて訪れた人は、この全員が家族のような雰囲気の中にあることもまず驚き、心引かれる。
 徳島県の南部に位置する由岐町伊座利。大河・吉野川の河口にある徳島市から南へ車で1時間半も走れば到着する。そう遠くはない。しかし、この地は以前、陸の孤島と呼ばれていた。太平洋に面した小さな漁村。三方を山に囲まれ、1959年7月に西隣りの地区へと続く県道が開通するまで他地区とを結ぶのは道幅1メートルほどの険しい悪路しかなった。
 地域の長老は言う。「そんな土地柄だからこそ、地域の住民は何をするにも助け合った。それに漁村だから、漁船を沖に出したり、浜に上げたりするのも皆が力を合わせた。こんな中で暮らしとったら、住民同士のきずなは自然と家族のように強まるわな。その気質が今も流れている」


廃校の危機から立ち上がる住民たち

 50年代、伊座利の人口は400人近かった。しかし、その後、急速に過疎化が進む。94年には100人を割った。子どもの数も減った。同じ校舎で子どもたちが学ぶ伊座利小学校・由岐中学校伊座利分校を地域の人は「伊座利校」と呼ぶ。61年には最多の87人の児童・生徒がいたが、76〜78年にはわずか5人までに減った。
 今、伊座利校の児童・生徒数は22人まで回復した。地域の人口も120人〜130人にまで増えた。子どもが増えているため、住民の平均年齢も次第と若返っている。過疎化、高齢化に逆行する集落。驚きはさらに膨らむ。
 人口増の背景には伊座利校への留学制度がある。15年ほど前、町から地域に「5年後には児童が1人になる。学校を閉鎖しないといけない」との通告があった。「子どもの声が消えると地域はいよいよ寂れる」との思いが地域に募った。過疎化の進行に伴い、芽生えていた「何とかできんか」との思いが、この通告を機に「何とかせなあかん」へと変わった。
 行政にもいろいろと陳情、要望したが、動きは鈍かった。行政に頼れないなら、自分たちがと、地域は「学校の灯(ひ)を消すな」を合言葉に、留学生の受け入れへと立ち上がった。99年1月、初めてのイベント「おいでよ海の学校へ」を開いた。県内外の子どもたちを対象にした1日留学体験。大敷網と呼ばれる定置網漁やクルージングを楽しんでもらう。2000年4月、全住民を構成メンバーとする「伊座利の未来を考える推進協議会」を発足させ、学校と協力し、留学生の受け入れを本格的に進める体制を整えた。短期の留学組を含め、転入してきた子どもたちはこれまでに約40人に上る。


転入希望者とは、協議会、学校とで三者面談を開く

 例外もあるが、基本的に伊座利には子どもだけでなく、親も一緒に転入してもらう。「子どもは親と一緒に暮らすのが一番」との思いからだ。仕事を投げうって都市部から移り住む人もいる。父親を都会に残して、母と子で移り住む人もいる。北海道、千葉、東京、京都、大阪、そして徳島県内…。全国各地から家族が漁村に転入してきた。
 転入を希望する家族は学校で体験入学をした後、伊座利の未来を考える推進協議会、学校との三者面談に望む。住民が20人ずらっと並ぶこともある。そして、それぞれが伊座利に本当に住みたいのか、住民になる覚悟が家族にあるのかといった「親の本気度」を測る。とことん意見をぶつけ合うときも。地域の姿勢は、基本的に「来るもの拒まず」だが、三者面談は地域の一員に迎える前の大事な儀式だ。協議会の会長坂口進さん(漁業)は「地域は家族同様、子どもたちの面倒を見る。けど、仕事があるからといって、子どもをほったらかしにするような親、地域に任せっきりにするような親はあかん」と話す。あいさつをしない子どもがいれば、地域の大人がしかりつける。同様に、転入してきた親に対しても、考え方が間違っていると思えば、遠慮なく物申す。これが伊座利流だ。
 子どもたちと地域住民の深いかかわりを語るエピソードが、この地にはいくつもある。その中でも、地域にとって印象深い少女との出会いが3年前にあった。


子どもを愛せないのなら伊座利がこの子をもらう

 少女は中学1年の2学期に伊座利にやってきた。身長150センチ、しかし、体重は28キロしかなかった。摂食障害という病気と闘っていた。医師が「あと1キロやせれば命が危ない」と警告するほど、がりがりにやせていた。住民たちは真剣に少女と、そして病と向き合った。
 摂食障害という聞きなれない言葉に接し、何度も専門家を招き、勉強会を関いた。医療機関での診察を進めるだけのカウンセラーとはけんか腰でやりとりした。「それで治ってたら、この子は伊座利にきていないだろうが」。この勉強会に同席していた、ある別の地域に住む人は、こう振り返る。「他人の子どものことをよくもまあ、あそこまで親身になって考えてくれるものだと感動した」と。
 当初、少女の親は伊座利で一緒に暮らしていなかった。少女が伊座利に来て3か月。この子を治すには親の愛情が一番だと考えた地域住民は両親を伊座利に呼び、面談した。「お父さん、仕事と家族のどっちが大事なんな。子どものことを愛せないんだったら、一番大事でないんだったら、伊座利かこの子をもらう」。住民はそう話し、両親に詰め寄った。
 母親がまもなく、少女と一緒に住むようになった。3学期修了とともに、少女は伊座利を離れたが、体重は35キロ前後にまで回復していた。ふっくらとした姿を、住民は安堵の表情で見送った。地域住民は家族の愛情が少女を回復させたと考えている。少女の母は地域住民の必死の姿勢が娘に伝わったからと思っている。そして、高校生となった少女は今、「伊座利での半年が中学生時代の一番の思い出。みんな大好きだし、尊敬できる」と話す。
 地域住民がこぞって邪魔をし、ちょっとやそっとでは走りぬけられない障害物競走、大漁旗がバトン代わりのリレーなどがあるユニークな運動会、自分たちが海からとってきたイセエビがまるまる器に盛られた年に1度のイセエビ給食、磯でヒジキを刈って、日曜市に売りに行く体験学習、朝早く港に行って、頼めば漁のお供を気軽にさせてくれる漁師のおじさん…。「ハマチが2000本かかったぞ」と漁協から学校に連絡が入ると、授業を中断して徒歩5分ほどの漁港へと児童・生徒が向かう。都市部での生活に慣れた人にとって「面白い」と思う光景が日常的に伊座利にはある。そして、その一つ一つに、住民同士の濃くて強いつながりを感じさせる。現代社会から薄れゆく何かを求め、伊座利に足を向ける人が今も途絶えることはない。