「まち むら」87号掲載 |
ル ポ |
新たな湯治文化の中心に「湯の町」を守る心意気 |
青森県黒石市・温湯町会 |
城下町・黒石市の中心部から東南約八キロの浅瀬石川右岸に位置する温湯(ぬるゆ)地区。市誕生前、旧山形村の中心をなした地区であり、黒石温泉郷を代表する「鶴の名湯」温湯温泉として、また、津軽一円の湯治場として古くから栄えてきた。現在、約百八十世帯。歴史は、約四百五十年前にさかのぼる。 ケガをした鶴が傷を癒しているところを村人が見て温泉を発見したといわれ、かつての呼び名が「鶴泉」「鶴羽立」。天正十九年(一五九一)、浴舎がつくられてから繁盛し、寛永年間(一六二四−四四)、花山院忠長が遊んで以来、「温湯」の地名が生まれた。 泉質は、ナトリウム塩化物泉で、神経痛、関節炎、婦人病などに効果があるとされる。明治十八年には、内務省の温泉分析で日本名湯の一つにも挙げられた。「ぬぐだまる(温まる)温湯の湯っコ」と人気は高く、市街地から一日二回の入浴のために通う夫婦もいるなど熱烈なファンは多い。 その温泉で、中心的な施設となっているのが「温湯温泉浴場」だ。浴場の周りには、湯治客が宿泊する客舎や旅館が軒を連ね、いまも湯の町情緒を色濃く伝える。 記録によると、明治四十五年に新湯浴槽改良工事が行なわれ、大正六年に浴場がつくられた。昭和三十四年には、四百六十三万円の工事費で改築された浴場が完成、長らく親しまれてきた。 浴場は代々、自治組織が経営してきた。「昔は、温泉がどこにでもあるというものではなく、現在と比べられないほど価値があった。客は来るし、町も発展する。住民が直接的な恩恵をこうむる共有財産だったので、代々、自治組織が経営してきたのではないか」と元温湯町会長の飯塚重一さんは推測する。 浴場新築にあたり町会法人化と全会員入浴料無料化 浴場も築後四十年以上が経過し、老朽化が目立ってきた。平成八年ごろから、新築の話題が持ち上がる。八年から十年にかけ、町会の主催で住民を対象に八回にわたり開かれた「温湯を語る会」でも「黒石温泉郷のなかで、温湯が取り残されないか心配」「温泉の効能をPRするためにも、浴場の新築か改築を」などの声が出された。九年からは、アドバイザーを交えた話し合いを重ね、「温泉を生かしだ町づくり」の模索が始まる。 そして、十一年一月の町会定時総会の席上、浴場新築が打ち出された。湯治客より日帰り客が主流になるなど客層が変化している実態を踏まえ「湯治の文化を残しながらも、現代のニーズに合った設備を備えた新たな大浴場を」「外観は、昔ながらの風情を感じさせるものに」とコンセプトも固まり、各地の温泉浴場を精力的に視察。一方で、浴場に「ご意見箱」を置き、入浴客の意見や要望を求めた。「泉質が良く、入浴料の安いのが魅力」「休憩所がほしい」「障害者や高齢者に配慮を」など貴重な声が数多く寄せられた。 新築に当たり、解決しなければいけない問題があった。町会の会員でも、浴場を無料で利用できる人と有料の会員がいるということだ。有料会員の間では、かねてから不公平感が強かった。 明治二十年ごろ、地区には約六十世帯あり、直系の子孫が代々「湯の権利」を受け継ぎながら、分家や移住してきた人などに権利取得の機会を与えてきた。内湯の分湯供給事業開始までに温泉権利者は約百三十世帯になったが、約五十世帯の家庭では有料で浴場を利用するしかなかった。 「温湯に住む人たちが、心一つに温泉の発展に協力しよう」と、十一年一月の総会では全会員入浴無料化と町会の法人化取得を提案し、承認。全会員無料化は、温泉権利者会の総会でも承認された。 十二年三月には、「温湯町会」が法人の認可を受け、同年十二月の設計管理委託契約締結、十三年五月の本体工事・設備工事契約締結を経て、いよいよ五月十三日、旧浴場が取り壊された現地で建設工事の安全祈願祭が行なわれた。 バリアフリー、町並みにも配慮 新浴場の建築費約一億六千万円は、温泉収益の積立金と金融機関からの借入金で捻出した。新築後の入浴料を返済に充てるべく、市リゾート観光施設整備資金を導入、借入金の利子一・四%を市から五年間補給してもらうことにした。完成した新浴場は総面積四百三十三平方メートルの鉄骨平屋建て。旧浴場の約一・五倍の規模となり、男子浴場、女子浴場のほか、ロビーや多目的トイレなどを完備、床の段差をなくし、浴槽に手すりをつけるなどバリアフリーにも配慮した。 湯の町情緒にあふれた町並みにも合うよう、外観にも工夫をこらした。白壁仕上げで、建物の腰回りにはヒバ材を使用、外壁の戸袋部分には温泉の象徴である鶴の絵のレリーフをはめ込んだ。レリーフは、傷を癒して元気に飛び立つ鶴の姿を五枚の物語にしている。 待望の修祓式・落成祝賀会が行なわれた十一月七日は、温泉の将来を祝福するかのような小春日和に恵まれた。温湯消防部が纏振りを披露し、浴場玄関前で当時の町会長・佐藤覚治さんをはじめ関係者がテープカット。会場を津軽伝承工芸館に移して祝賀会を開いた。 あいさつで佐藤会長は「歴史に支えられた温泉の新たな発展を目指す施設として、また、湯治場再生の夢を込め全国に温湯温泉を発信する施設として、新しい浴場を町づくりに活かしたい」と期待を込めた。この日は、招待された地元の小学生らが一番風呂を楽しみ、落成を祝った。 湯の町包む熱気と活気伝統の「丑湯祭り」 浴場の朝は早い。午前四時の開場を侍って、一番風呂を浴びに続々と朝湯ファンが訪れる。朝のあいさつとともに、賑やかな世間話が始まるのもこのころ。 午後十時の営業終了まで客足が途絶えることはなく、毎日の入浴客は市内中心部や周辺の市町村からマイカーやバスで通ってくる常連客らを合わせ約七百人に上る。健康増進、病後の回復などで通年利用する人に配慮し、現在も入浴料は大人百八十円、子ども百円と格安。年中無休。 管理・運営は、町会役員八人でつくる温泉担当委員が当たる。受付女性四人、清掃・管理男性四人の従業員は、いずれも町内の住民。「百%天然温泉のかけ流し」にこだわり、四十九度の源泉を冷やして温度を調整、男女それぞれの浴場には四十二度前後の「温め」と四十四度前後の「熱め」の二つの浴槽があり、好みで利用できる。 毎年夏の土用のころ、年一回の祭りとして町会の主催で行なわれているのが伝統の「丑湯祭り」だ。町内には、黄檗宗の薬師寺という寺院があり、境内のお堂に薬の神さまである薬師如来がまつられているが、丑は薬師如来の化身とされ、毎年、土用の丑の日に祭りが続けられてきたのである。湯治客の減少もあり、近年は土用に入ってから最初の土・日曜に開催日を決め、祭りを続けている。前夜祭の民謡・歌謡ショー、本祭の丑のご神体を乗せた山車の運行、丑の入湯式などで賑わしながら、日ごろは物静かな湯の町を祭りの熱気と活気で包む。 いまの町会長・飯塚豊さんは話す。「確かに、ひところに比べ人出は減った。でも丑湯は、無病息災を祈る湯の祭りだから、止めるわけにはいかない。祭りがまた、住民の地域づくりの原動力になっている」。 今年も七月二十四、二十五日に丑湯祭りが行なわれ、炎天を吹き飛ばせとばかり「エンヤー」「温湯の湯っコ、エエ湯っコ」と子どもたちが元気いっぱいのかけ声を響かせ、丑のご神体を乗せた山車が練り歩いた。(津軽新報社・伊藤香奈子) |