「まち むら」87号掲載
エッセイ<地域>

東北文学のはじまり
赤 坂 憲 雄(東北芸術工科大学東北文化研究センター所長)
 最近、とても嬉しいことがあった。熊谷達也さんが直木賞を受賞したのである。
 じつは、熊谷さんは志をともにする仲間である。わたしはこの十年ほど、東北学という、東北を拠りどころとした新しい知の運動(=地域学)をさまざまに組繊してきたが、そのなかで熊谷さんと出会った。かれがまだ小説家としてデヴューして間もない頃のことだ。それ以来、熊谷さんの姿はいつでも身近なところにあった。
 ことに、『別冊東北学』という雑誌の編集拠点を仙台に置いていたから、仙台の街なかで会うことが多かった。こちらはまるで気軽に、原稿や対談などを依頼し、熊谷さんもまったく気軽に引き受けてくれる。『別冊東北学』には何と、『荒蝦夷』という小説まで連載してもらってきた。それはこの十一月に、平凡社から、直木賞受賞第一作として刊行されることになっている。
 思えば、わたしたちの東北学は、ほんとうにたくさんの人々に支えられてきたが、熊谷さんはまさに、そんなサポーターの重要な一人であった。古めかしい言葉かもしれないが、同志といってもいい。とにかく、大切な仲間である。
 受賞作は『邂逅の森』(文藝春秋刊)である。東北の山あいの村々には、マタギと呼ばれる狩猟の民が暮らしているが、そのマタギを主人公とした小説である。とてもいい作品だ。人物がみな生き生きとしている。泣かされてしまった。骨太な筆遣いで繰りひろげられる作品世界のなかには、物語の快楽がずっしり詰まっている。選考会では満場一致で選ばれたと聞くが、深く納得されるところだ。
 ところで、わたしはある新聞社からコメントを求められて、「これは新しい東北文学のはじまりである」といったことを話した。大袈裟に聞こえるかもしれないが、わたしにはその予感がたしかにある。どこから、その予感はやって来るのか。
 ひとつは、これまでの熊谷作品がどれも、東北の大地にしっかり根を降ろしながら創造されていることだ。たとえば、『邂逅の森』ではマタギの世界が描かれている が、ここまでその懐深くにゆったりと分け入って、マタギという存在が表現されたことはなかったのではないか。戸川幸夫など、これまでの「マタギ小説」の大方にとって、マタギの村はまさしく秘境ではなかったか。しかし、これははるかな秘境の物語ではない。民俗学者の眼から見ても、驚きに値する。やわな研究では太刀打ちできない。じつは、その背後には、一人の同世代の民俗学者・田口洋美さんの仕事が見え隠れしているのだが、かれもまた、われわれの共通の仲間なのである。いずれであれ、これはマタギの村がみずから、能谷達也という作家の筆を借りて産み落とした物語といえるかもしれない。そこに、「新しい東北文学のはじまり」を認めたいと思う。
 いまひとつは、近年、熊谷さんのほかにも高橋克彦さんを大御所として、若手では伊坂幸太郎・玄侑宗久・斎藤純・佐藤賢一など、驚くほどたくさんの東北出身の作家たちが登場しており、しかも、かれらの多くは東北在住というスタイルを選び取っているのである。かれらはつまり、能谷さんが仙台を拠点としているように、東北のどこか都市や村に暮らしながら、作家としての活動を行なっている。もはや、東京に出なければ、何かにつけてまともに仕事ができないといった時代ではないことを、それは露骨に示唆しているのである。すベての文化が東京から発信される時代は、急速に遠ざかろうとしている。かれらの群れとしての出現そのものが、それを鮮やかに暗示している。とりわけ色濃く、東北の大地を背負った作家・熊谷達也の登場は、ここでも「新しい東北文学のはじまり」を告知するものではないか、と思う。
 これまでの東京一極集中のシステムが、政治や経済のみならず、どうやら文化や芸術の領城でも壊れはじめているようだ。いま、地域の時代が幕を開けようとしている。それぞれの地域を拠点として、すぐれた文化や芸術が創造され、それがリアル・タイムで日本全国に向けて、さらにはアジアや世界に向けて発信される。それが可能な時代となった。そんな地域の時代が、熊谷達也という作家の出現をもたらし、祝福している気がする。