「まち むら」86号掲載
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「安寿と厨子王」ゆかりの地を生かした青少年育成活動
福島県いわき市・金山自治会/金山の昔を伝える会
 コミュニティの崩壊の危機が叫ばれて久しいが、核家族化・少子高齢化現象がそれを加速化させ、次代を担う子どもたちに何を残し、何を伝えていくべきなのかが深刻な課題となっている。
 そのような時代にあって、地域の子どもたちの心の醸成に地域ぐるみで取り組んでいる自治会がある。それは、福島県いわき市「金山自治会」と、同自治会を母体とした「金山の昔を伝える会」の活動である。
 福島県いわき市「金山地区」は、小名浜港から少し西に行った国道6号線沿いの丘陵地にある。この地は、大正初期までは無人の原野と化し、太平洋戦時中、金山地区の居住世帯はわずか4戸であったという。終戦直後、戦災者・引揚者救済のための住宅開発を行なったことから、金山地区は急速に膨張した。しかし、丘陵地に無秩序に住宅が建てられたため、生活道路の不備を始め、防犯・安全上の問題など様々な問題が発生するようになってきた。そこで、住民有志が集い、昭和40年10月、「金山自治会」が発足した。金山自治会は現在、約1400戸が加入するいわき市内でも有数の自治会へと成長している。


忘れられた「安寿姫・厨子王」の母子像

 住民一丸となった金山自治会の精力的な活動によって、地区内の生活道路が整い、防犯灯も設置された。集会所や体育館などの公共施設も整備されて、地域住民の連帯意識が生まれ、本来のコミュニティが醸成されてきた。また、多くの住民が暮らすようになってきた金山地区には、次代を担う子どもたちが生まれ、地域での子どもたちの育成も課題となってきた。
 そのような折、金山町に伝わる「安寿と厨子王」の伝説に着目した人たちがいる。今から1000年前、磐城地方(現在のいわき市)を治めていた安寿と厨子王の父・平正道が、義兄村岡重頼の陰謀によって、姥ケ丘(現在の金山町)で殺害されてしまう。幼い姉弟と母は難を逃れ、朝廷に訴えようと京都へ向かう。旅の途中、人買いにだまされ、姉弟は山椒太夫の奴隷となる。安寿は自ら犠牲となって厨子王を逃す。やがて、立派に成人した厨子王は父の仇を討ち、盲目となった母と再会を果たす。これが、金山町に伝わる「安寿と厨子王」の伝説のあらましである。
 この「安寿と厨子王」の物語は、大正になって、森鴎外が『山椒大夫』として著したことから国民的な物語となった。
 金山自治会の有志は、親子愛・姉弟愛を広く次の世代へ継承していこうと考え、昭和48(1973)年2月に、「安寿姫・厨子王丸遺跡顕彰会」を発足させ、ゆかりの地である金山町の小高い丘に、「安寿姫・厨子王の母子像」というブロンズ像を建立した。顕彰会発足後、わずか1年余りの間に賛同者から約1000万円の寄付金を募り、昭和49(1974)年7月に、この母子像を完成させたのである。
 しかし、時が経つにつれ、この母子像は人々から忘れられた存在となっていく。母子像がある一帯は市の緑地公園となっており、親子連れや子どもたちが多く訪れる。その人たちから、「この像は何? どうしてここにあるの?」と聞かれることが多くなった。しかも、その疑問に地元でも答えられない人が増えてきたのである。金山自治会会長の横山英司さんは、「先輩たちの偉業を無にするようなことをしてはならない、といった声が自治会の間であがるようになりました。親子愛・兄弟愛の大切さを安寿と厨子王物語を通して子どもたちに伝えていこうと、自治会内に『金山の昔を伝える会』を平成11年10月に発足させ、活動を開始したのです」という。


全国の「ゆかりの地」との交流も始まる

 金山の昔を伝える会では発足後、平成16年度までの6か年計画を立てた。それは、安寿と厨子王ゆかりの地としての史的調査・研究を始め、母子像周辺の整備、全国のゆかりの地との交流、「金山の歴史」の刊行など遠大な計画であった。「安寿と厨子王の里づくり」と銘打ったこの計画に対しては行政も共感して、支援に乗り出すようになってきた。その結果、母子橡の脇にゆかりの説明とゆかりの地分布図を書いた大きな案内板の設置をはじめ、物語説明板、母子像までの案内標識などが設置された。
 ゆかりの地との交流も具体化した。平成12年8月、同会のメンバーは安寿と厨子王の母親の故郷とされる福島市渡利地区を訪れ、交流を深めた。これが一つの契機となり、全国に伝わる「安寿と厨子王」ゆかりの地との相互交流が始まった。ゆかりの地である福島県三春町や広野町などとの相互交流の輪が広がり、今年9月には、上越市を訪ねる予定である。
 初代会長の遠藤祐二さん(現在は同会の顧問)は、平成13年から15年にかけて、北は青森から南の福岡まで全国にある安寿と厨子王のゆかりの地・20数か所の現地調査を行なった。この調査は、平成15年に『安寿と厨子王 ゆかりの地を訪ねて』(遠藤祐二著)という出版物にまとめられている。この本は現在、安寿と厨子王物語を後世に語り継ぐ貴重な資料として活用されている。
 3代目会長の菅沼次雄さんは、「ゆかりの地同士の連携を図ることによって、安寿と厨子王の現代的意義を全国に発信できることになります。ひいては、地域活性化にもつながると思います」と、さらに活動の輪を広げていきたいという。


広がりを見せる「安寿と厨子王」の親子愛・兄弟愛の心

 金山の昔を伝える会では、ゆかりの地としての金山町を市民に広く知ってもらおうと、平成12年から毎年、「ゆかりの地ウオーキング」を開催している。このイベントには、地元住民だけではなく、福島県内外から多くの人たちが参加するようなり、現在では200名以上が参加する一大事業に発展している。
 いわき市教育委員会では、このような活動に共感して、小学校の総合学習の一環として、子どもたちを母子像に連れて行き学習したり、「金山の昔を伝える会」のメンバーを講師に招いての学習を行なうようになっている。
 このような活動の輪は着実な広がりをみせ、地元のお菓子屋さんが「安寿と厨子王」と銘打った和菓子を売り出すなど、地域活性化にも大きな役割を果たすようになってきている。
 また、金山自治会と金山の昔を伝える会では毎年5月に、母子像のある広場で「安寿と厨子王祭」を開催、大勢の子どもたちが集うようになってきた。
 現在、母子像を建立した安寿姫・厨子王丸遺跡顕彰会の関係者のほとんどは、他界している。しかし、その遺志は着実に次代へ受け継がれている。金山自治会を中心とした「安寿と厨子王の里づくり」が、心の醸成へと花開くことを期待したい。