「まち むら」71号掲載
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旧城下町の町並を未来に残す
鳥取県米子市 旧加茂川・寺町周辺のまちづくりを進める会
町並み保存のため高層マンション建設に反対

「マンションの建設反対運動が、こんな活動に発展するとは、最初は思いもしませんでした」
 鳥取県米子市の市民団体「旧加茂川・寺町周辺のまちづくりを進める会」の創立メンバーたちは、この10年の歩みを振り返りながら口々にそう語る。
 鳥取市、松江市と並ぶ山陰の三大都市の一つである米子市は、かつては米子港を中心に海運業で栄えた。江戸時代の初め、藩主が若くして亡くなったことから御家断絶となり、以後「殿様のいない城下町」として、自由闊達な風土を築いてきた町でもある。鉄道の発達やモータリゼーションに伴い、港町としての機能は失われたが、現在も再開発などによって商都としての役割に変わりはない。
 そんな米子市ではいま昔の町並みがどんどん失われつつあるが、そうしたなか、なおも江戸時代の区画を残し、往時を偲ばせる町がある。それが米子市の下町、旧加茂川・寺町周辺だ。
 かつて船が往来した加茂川沿いには、なまこ壁の土蔵や連子窓の家など、旧商家の家並みが続く。古い威厳をとどめる江戸時代の豪商・後藤家は、国の重要文化財にも指定された。隣接する寺町には道の片側に九つの山門が立ち並び、これは全国でも3例しかない珍しいものだ。
 この古い町に異変が起こったのは、平成2年のことだ。後藤家にほど近い加茂川沿いの空き地に、11階建てマンションの建設計画が持ち上がったのだ。米子市は旧城下町である一方、中国地方の最高峰・大山が見える町としても知られる。高層マンションが建てば、歴史的景観を壊すばかりか、大山の眺望すら損ねてしまう。
 これを見過ごすわけにはいかないと、マンション予定地近くの住民8人が集まり、「加茂川地区景観と環境を守る会」を結成した。同年末には周辺自治会とともに、米子市長らに建設会社に対する行政指導や、景観と環境保全条例の制定などを要望、翌3年には建設会社に対する協力要請書も提出した。
 その後も地道な反対運動を続け、ようやく決着がついたのが、平成8年のことだ。市が「守る会」の要望に応えるかたちで、マンション予定地を買収することになったのである。完全な勝利だ。


先進地への視察活動で住民の意識を高める

 これを契機にメンバーは、さらに積極的な町並みの整備・保存活動に取り組みだす。「旧加茂川・寺町周辺まちづくり委員会」と改称し、まずは岡山県新庄村や津山市など、近在にあるまちづくり先進地への視察を始めた。「町並みを見るだけでなく、町長から話を聞いたりすることで、ずいぶん意識が高まりました」
 メンバーの1人、藤原辯雄氏は視察の効用をそう語る。帰りのバスの中で感想を言い合ったり、ときには喧々囂々のディスカッションを行うこともあり、これがまたいい刺激になったようだ。
 その後も、滋賀県長浜市や山口県柳井市などへの視察を行っているが、最近は、町並み保存に興味のない若い人や婦人会にも参加を呼びかけているという。
 家でも隣りの家が立派だと、自分の家も立派にしたくなる。同じように立派な町並みを見ると、自分の町もきれいにしたくなる。理屈よりもまずは、先進地を見てもらおうというわけだ。実際、一度参加したことがきっかけで、興味を持つ人も増えたしている。
 そうしたなか米子市では、平成10年10月に景観形成条例を策定した。景観資源が多く、町並み保存に対する住民の熱意が高い地域を対象に、技術面・経済面での支援を行おうというものだ。言ってみればメンバーたちの熱意が、市に新しい条例を作らせたのである。
 ただし条例の対象となるには地域住民の同意が必要で、そのためには約900人いる住民から3分の2以上の署名を得なければならない。メンバーたちはさっそく整備後のイメージ画を見せたり、指定を受ける効用などを説明して回るが、署名は簡単には集まらなかった。
 市の指定を受けると、自宅を少し改築するだけでも許可申請を出さなければならない。「そんな面倒はいやだ」と考える人が少なくなかったのだ。住民たちの意識は、思いのほか低かったのだ。


課題は予算の確保と後継者づくり

 それでもメンバーは、粘り強く説得活動を続けた。署名が集められない自治会長に対しては、反対者のところへ何度も何度も足を運んでもらったという。
 ようやく必要数の署名が集まったのが、平成12年4月である。平成11年11月から始めて、足掛け6か月かかった。この署名簿を持って翌5月に当局へ認定を申請、同時に組織名を「旧加茂川・寺町周辺のまちづくりを進める会」と改称した。4日後には正式に認定の通知を受けたが、これですべてがうまくいくというわけにはいかなかった。「進める会」が第一に要望していたのは、いまは市有地となっている旧マンション予定地に、活動の拠点となる会館をつくることだ。ここでイベントや大茶会を開いたり、住民や外来者との交流を行い、会の活性化を図る。
 ところが市から返ってきた返答は、「財政上の都合で、平成17年度まで待ってほしい」というものだった。石畳の整備や電線の地中化など、その他の要望についても同様の返答である。
 だが5年も先では、町並みの保存・整備は難しくなる一方だ。過疎・過疎化が進むこの地域では、この20年で130世帯から40世帯にまで減っている。これをくい止めるためにも、早急に行う必要がある。要望の早期実現へ向けて、いまもメンバーたちは当局へ足を運んでいる。
 その一方で、新しい活動も着々と進めている。平成12年6月には写生・写真撮影会を開催し、10名の参加を得た。今後も四季折々にこうしたイベントを開き、定例行事を増やす予定だ。また4月からは1か月に約1度のペースで、会報「まちづくり」の発行を始めた。活動状況や視察の模様、町のいま昔などを折り込み、住民の関心を高めていくという。
 今後の最大の課題は、後継者の育成だろう。マンション建設反対を始めたときの中心メンバーは全員60歳代、それがいまや70歳代になった。若い世代も加えなければ、会の存続は難しい。
 一刻も早く若い人を増やしたいが、いまはまだ交流を深める段階のようだ。地域の祭りなどを通じて若い人たちとお酒を酌み交わし、そこから町の未来を語り合う。そうして若い人たちの意識が高まるのを待ちたいという。
 また最近は古い町並みに興味を持ち、市外からカメラを片手に訪れる観光客が増えてきた。この様子を見て若い人たちが、この町に誇りや愛着を持ってくれればという期待もあるようだ。
 若い人が中心となって整備・保存に取り組む日を目指して、70歳代のメンバーたちは、まだまだ現役活動を続ける。