「まち むら」136号掲載
ル ポ

レジリエンスなコミュニティ
子どもと高齢者の笑顔のあるまちづくり
岩手県陸前高田市 一般社団法人長洞元気村
 陸前高田市広田町長洞地区応急仮設住宅団地を長洞元気村(19世帯、26戸、79人)と呼んでいる。東日本大震災後、長洞集落(60世帯、約200人)のコミュニティを維持させたいとの思いから被災者自ら地権者を説得し、行政に要望してできた稀有な仮設団地である。「被災地近接・コミュニティ丸ごと・被災者主体」を実現し、住民主体の自治会運営と好齢ビジネス(女性と高齢者の雇用創出事業)を展開、携帯電話を活用したネットワークを構築(IT革命と呼んでいる)、ブログやフェイスブックで村の様子を全国に情報発信する、活力に満ちた仮設団地である。
 長洞地域の未来を見据え、一人ひとりが豊かで幸せな生き方、働き方を持続し、地域全体が次世代で取り組む環境を創造していくことを目的として、高齢者が好齢者となる生きがいづくり、農業・漁業・防災体験による交流、地域の産物を利用した加工食品の製造販売活動を行い、コミュニティ丸ごとの高台移転に取り組んでいる。(レジリエンスとは、困難な状況にもかかわらず、しなやかに適応して生き延びる力の意)

 テレビ、エアコン・冷蔵庫など生活必需品の支援を受け風呂付で水洗トイレの仮設住宅の暮らしが始まった。戦中戦後を生き抜いた高齢者にとっては便利で衛生的な住環境であり、満たされた暮らしであるはずなのだが、家屋家財を失った喪失感・先の見えない暮らしづくりへの不安感、例えようのない鬱とした思いが心の奥底に沈んでいた。そんな思いを払拭させたくて仮設住宅快適化工事を提案、仮設市街地研究会の後押しもあり、仮設長屋の玄関先に2間ほどの庇を設置し、4〜5世帯の隣近所が雨天でも傘を差さずに行き来できる空問づくりに取り組んだのである。集会所の周りも2〜3間ほどの庇を設置、いつでも集まれるスペースを何か所も設置した。効果はてき面でがれきを集めて造った6坪ほどのウッドデッキとともに憩いの場所として活用されたのだった。
 しかし、被災したという事実と狭い住空間は、決して快適と言えるような環境ではない。それぞれが感じる劣悪な環境を口にすればするほど、自分がみじめに思えてしまうのが嫌で、仮設暮らしの中の便利さを探し、懸命に自分の心に「いいこともあるじゃないか」と言い聞かせ、自分の出番を探していたように思う。高齢女性の方々も「なでしこ会」を結成して、水産加工品や伝統菓子「柚餅子」の製造販売を行う好齢ビジネス事業を展開、被災地体験ツアーの案内や体験交流事業を開発し、首都圏の小中高校生・大学生・国内の企業や市民団体はもとより、コートジボワールの行政官、台湾高雄市の六亀中高等学校の団体を有料で受け入れ時給500円の収入を得ている。そこに暮らす被災者ひとり一人が「前を向くしかない」と自分に言い聞かせながら、励ましあい慰めあってお互いを支え、持続可能な地域づくりと暮らしづくりを考えていたのである。支援物資が全国から届くたびに「これで凌げる。これで生き抜く」と思うのである。

 行政からの支援もあり住宅再建が進む。防災集団移転用地も被災住民が話し合いを持ち、地権者の了解を取り付けて防災集団移転事業による宅地造成を要望、合わせて集落内に戸建ての災害公営住宅の建設を要望したのだった。コミュニティ丸ごとの仮設住宅建設が実現し本設の住宅再建も「コミュニティ丸ごと」が仮設住宅団地の合言葉になっていったのである。
 2011年7月に19世帯26戸で出発した私たちの仮設住宅団地は、2015年2月の明け渡し3月解体となり、自治会としての「長洞元気村」も2015年3月の解散となった。仮設住宅団地自治会のワークショップでは「新しい長洞づくり」の長洞元気村の活動は続けたいとの声が多く寄せられ、その活動は一般社団法人長洞元気村として続けることが確認されたのである。

 仮設後の活動を考えて、2013年5月から長洞元気村の活動拠点「なでしこ工房&番屋」建設の資金確保と建設工事を同時並行で取り組んだ。資金確保できた分の自力建設である。約2年間の取り組みで仮稼働できるまでに至ったのである。千代田化工建設や富士通システムズをはじめとする企業やボランティア団体・個人の方々からの支援を受けての取り組みである。
 防災集団移転事業による住宅再建は、建設用地は行政で準備し住宅建築は被災者自ら行うこととなる。長洞地区での用地の引き渡しは2014年の7月に行われ、準備の整ったところから着工となった。陸前高田市としては戸建ての災害公営住宅建設は行わない方針である旨の通知を受け取ったのもこの頃である。工務店等の都合もあり住宅再建は思うようには進まず、仮設から仮設(広水・財当)に移らざるを得なかった世帯が7世帯あったが、利用していた仮設用地に住宅再建を検討している地権者もあることから納得しての引き渡しであった。
 防災集団移転事業による高台移転10世帯が完了したのは2015年の秋である。ちょうどそのころ、長洞仮設から広木仮設に移った高齢女性が夜になると「長洞に帰りたい」と騒ぐようになり「隣近所に迷惑をかけるから…」との理由で「県立病院に入院させた」との連絡を受けた。心配していた高齢者の孤立・うつ病罹患が現実となってしまったのである。高齢女性の一刻も早い長洞集落での暮らしを創ることが長洞元気村の重要課題となった。
 長洞元気村の代表から、2015年11月11日、一般社団法人岩手県医師会会長石川育成様あてに「陸前高田市立第一中学校敷地にあるトレーラーハウスの払い下げ願い」の次のような文書が送付された。
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 秋冷の候、貴職にはますますご清栄のことと存じます。また、被災地陸前高田市の医療充実にご尽力いただいていることに心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます。
 さて、私たちは陸前高田市広田町長洞地区応急仮設住宅団地自治会を長洞元気村と呼んでいます。東日本大震災後に「被災地近接」「コミュニティ丸ごと」「被災者主体」の仮設住宅団地を実現した稀有で元気な仮設住宅団地です。震災前の地域コミュニティを大事にした、支えあいのできた仮設団地でした。
 防災集団移転事業や自主再建が進み平成27年2月に明け渡し、3月には解体された住宅団地なのですが、資金計画や工事計画が整わず仮設住宅から近隣の仮設住宅に移らざるを得ない世帯もありました。
 今般の払い下げのお願いは、長洞集落から離れて住んだ高齢者が夜中に「長洞に帰りたい」などと大声を出すようになり、県立大船渡病院の精神科に入院(10月下旬)したとの情報を得て、そのご家族と話し合い、長洞元気村役員会で協議・確認したお願いになります。80歳を超えたご夫婦と知的障害のある50代の息子(次男)さんの3人暮らしの世帯なのですが、高台の用地は確保できているものの資金計画が立てられず、時限入居で災害公営住宅に入ることも考えているとのことでした。トレーラーハウスをいただいてとりあえず長洞地域で暮らす環境整備をすすめ、入院している家族をまずは長洞に呼ぶのはどうかとの提案に、そういうことができるのであればお願いしたいということでした。長洞元気村役員会で協議した結果、住宅再建が進んでトレーラーハウスが住宅として使われなくなったら長洞元気村の集会所として活用することも決めています。そうした話し合いの中で陸前高田市立第一中学校にある岩手県医師会のトレーラーハウスの払い下げをお願いすることとなった次第です。
 岩手県医師会のご意向もあるかと思いますが、事情ご理解の上払い下げいただきたくお願い申し上げます。
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 2〜3日後に医師会から理事会での決定が必要になるが、希望に添えるように医師会としても協力したい。との心温まる返事が返ってくるのである。
 住宅建設資金確保には連帯保証人がほしい。浜一番の漁をしたことを誇らしげに語ったこともある元漁師への金融機関の助言は、二重ローンを抱えることとなる高齢者世帯には重くのしかかる。それでなくても前のローンの取り立てが連帯保証人に及びはしないか不安なのである。「これ以上実家や親せきに迷惑をかける訳にはいかない」トレーラーハウスの払い下げが決まったことを報告に行った私に、元漁師が見せた衿持である。一人では生きてゆけない現実とそれでも示したい自立の道である。「借金はしない。誰からも資金援助を受けない。その条件で、住宅再建が完了したときに支給される450万円の補助金は使わせてくれないか」との私からの提案に困惑しながらも了承してくれたのだった。
「長洞さ足向けて寝られないな」と元漁師。「長洞さ来ればどっち向きに寝ても長洞さ足を向けるのス」と私。漫才のような会話で要件を済ませ、高齢者世帯が入ったばかりの災害公営住宅を後にした。
 ひとり一人にそれぞれの人生ドラマがある。幸せか不幸かもそれぞれの感じ方であろう。人と人とのつながりのその深さ広さもそれぞれである。自分には何ができるか、できると思うことを愚直にすすむ、そんな覚悟が過疎地域のコミュニティに求められている。誰かに何かをしてもらうのではなく、みんなのために誰かのために何かできるのか。子どもと高齢者の笑顔のための私の出番がそこにあったのである。