「まち むら」128号掲載
ル ポ

労働者のまち「釜ヶ崎」で、人と人とが出会い、表現する
大阪府大阪市西成区 NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)
アートを通じて人をつなぐ

 JR新今宮駅の改札を出て南に向かうと、ほかのまちとはまったく表情の違うまちが広がっている。「ロッカー」と大書された看板の店、昼間でもカラオケの音が漏れてくる小さな居酒屋。作業着姿の男性たちが自転車で行き交う。日本最大の労働者のまち、釜ヶ崎。地元の人々はさまざまな思いをこめて「釜」と呼ぶ。
 釜の端っこに位置する動物園前商店街に「ココルーム」はある。正式な名前は「NPO法人こえとことばとこころの部屋」といい、アートを通じて人や情報をつなぐ活動をしている。カフェの営業やバザーの収益、カンパなどで人件費など運営資金を捻出し、企業や行政の助成金でさまざまな事業を行う。地域のさまざまな団体や施設を巻き込む一方、谷川俊太郎さんや森村泰昌さんなど世界的に活躍する人たちに直接交渉し、「アートて何や?」というおっちゃんたちとの交流を実現させてきた。その斬新な企画への注目度は年々高まり、海外も含めた各地からの視察が絶えない。 
 一方で、最大の課題は慢性的な財政難だ。「安いお給料で、スタッフのみんなに申し訳なくて」と代表の上田假奈代さんは話す。しかし実情を知ってもなお「ココルームで働きたい」と全国から若い人が訪ねてくるという。多くの人を惹きつけるココルームとは、いったいどんな「場」なのだろうか。

「毎日が演劇です」

 沖田都さんは北九州市に生まれ育ち、地元の劇団で芝居漬けの日々を送っていた。しかし劇団の運営や俳優としてのあり方に悩み、精神的に行き詰まってしまった。沖田さんの感性を知る劇作家が見かねて、ココルームで働くことを勧めてくれた。「迷いましたが、自分を変えたいという願望も強かったので一か八かで生まれて初めて北九州を出ました」。ココルームでは昼食や夕食をみんなで食べる。畳を敷いた店の一角で、お客さんも交えて、ちゃぶ台を囲む。「最初はガチガチになって食べていました」と笑う。けれど女性スタッフたちの温かな気遣いや柔らかな言葉のやりとりのなかで少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。
「ここには“おかあさん”がいっぱいいました。子どももおじさんもやって来て、気負いなくいろんな話をして一緒にごはんを食べる。想像しては素敵だなあと思っていたものが目の前にありました」
 心がほぐれていくと体が整い、少し体重が増えた。「健康的でいいなあと思う。そう思える自分がうれしいです」と話す沖田さんは、演劇への思いも取り戻した。
「ココルームで働くことは俳優として生きることと同じだと思うんです。釜ヶ崎というまち全体が高度経済成長のためにつくられた人工的な場所。世界から旅行者が来る一方で高齢化が進む。そのなかにあるココルームは濃い演劇体験ができる劇場なんです。自分の部屋は楽屋で、毎朝扉を開けた瞬間に芝居が始まる。毎日が演劇です」

啓発や代弁はしない

 遠藤智昭さんの本業はカメラマンである。社会問題を切り取るようなドキュメンタリー写真を撮ってきた。客として出入りするうちにココルームの活動に興味をもち、手伝いを申し出たのをきっかけにどんどんはまっていった。
「とにかく毎日何かが起こる。たまに“今日は何もなかったなあ”と思っていると、夜遅くに知らないおじさんがフラフラ入ってきて好き放題言った挙げ句に“火をつけてやろうかと思ってたけど応援するわ”なんて言い出したり(笑)」
 カメラマンになる前は研究者だったという理論派の遠藤さんにとって、スタッフが会議もせずに大きなプロジェクトを次々進めていくのは驚きだった。「サッカーにたとえると、それぞれポジションはあるが常に臨機応変に動く。守備の人がシュートしてもいいし、攻撃する人がほかの人のサポートに回ることもある。それを言葉で確認せずに配慮と勘でやっているのが見えてきた時、驚くと同時に“面白い!”と心底感心しました」
 自分の撮影プロジェクトへの協力を打診した時、上田さんから返ってきた言葉も心に残っている。「“ここは啓発や代弁をする場所ではありません。私たちは支援団体でも運動団体でもないんです。遠藤さんの仕事に共感はするけど一緒にはできません”とはっきり言われましたね」
 実は遠藤さんの自宅は神奈川県にある。目的の撮影は終わったが、ココルームが面白くて帰れずにいる。

指示も禁止もない職場

 山口諒子さんはカフェの厨房を担当する。3人の子を育てるお母さんでもある。当初は「みんなが何をやっているのかよくわからなかった」と話す。厨房に入るようになって、スタッフ一人ひとりの動きが見えてきた。取材を受け、視察の対応をし、持ち込まれてくるあらゆる相談をきく。事業の記録や報告書の作成、助成金の申請などパソコンでの仕事も際限がない。「こんなにいろいろな仕事があるんだなあと理解できた時、私もスタッフの一員になれたんだと実感しました」
 以前は障がい者施設で働いていたが、規則に縛られるしんどさから退職した。ココルームでは指示も禁止事項もないことに逆にとまどった。今は足りないことや自分にできることを察知して動ける。スタッフがそうやって自然体で補い合う空気が心地よいと感じている。「もうひとつわかったのは、ココルームが実はすごく有名なこと(笑)。ココルームがテレビに映っているのを見た時はビックリしました。でも私にとってここは日常であり働く場。これからも淡々と自分の仕事をしていきたいです」
 多くの人がココルームのスタッフとして働くなかで次の道を見つけ、巣立っていった。上田さんは「見送るのが私の役目」と笑う。「ぎくしゃくして離れていった人もいるけど、数年後に再びつながることも多いんですよ」
 スタッフのありようは「アートと社会の接続点、人々のつながりをつくる場所」という理念を掲げるココルームそのものを体現しているようだ。今も“釜のおっちゃん”たちとアートを通じて学び合う「釜ヶ崎芸術大学」をはじめ、いくつものプロジェクトが進む。ゆるやかに、しかしぶれずに。ココルームの道のりは続く。