「まち むら」127号掲載
ル ポ

被災者と支援者の垣根が消えたとき互いに助け合える社会になっていたい
岩手県花巻市 いわてゆいっこ花巻
体裁や建て前を許さない緊迫した状況下で誕生

 時の流れというものは人間の及ばない大きな力を持っていて、辛く悲しい記憶を消してくれる一方で、忘れてはいけない記憶までも薄れさせてしまう。あの震災から3年半。発災からしばらくは「風化させてはいけない」と訴える声も多かったが、これだけ時間が経った今、その声は時々思い出したかのような頻度でしか耳にすることはなくなり、支援者数が減ってきているのも自然のなりゆきなのかもしれない。
 そんななかで、発展しながら被災者支援を続けている団体のひとつが「いわてゆいっこ花巻」(以下、ゆいっこ)である。発災後7日目、支援に立ち上がったのは花巻市在住の県議会議員、市議会議員らだった。通常であれば、政治に関係する立場の人がボランティアなどの活動に表立って取り組むことはあまり好まれない。しかし、「そんなことはいってられない」。あのときばかりは誰もがそう思ったはずである。
 支援活動は、被災地に入る人、花巻で支援物資を仕分ける人の二つのグループに分かれて始まった。花巻市内のホテルや温泉、親戚宅などへの避難者にも物資を届けたが、避難所と違って個人の動きを把握するのは困難だ。頼りにしたい行政も、非被災地とはいえ後方支援などの初めての経験に混乱を極めていたのだろう、情報の共有など思うような連携はできなかった。しかし、おそらく最大限に効果的に情報を集めることができたのは、議員の力だったといえよう。
 同じころ、ゆいっことは別に支援活動をしている人物がいた。現在のゆいっこ共同代表の一人、望月達也さんである。足しげく被災地に通っていた。仮設住宅の建設はまだ先のことながら、とりあえず雨風をしのぎ、食事や入浴など最低限のことが確保されてきた6月頃、生産年齢の人たちがガレキ撤去などの作業に出かけた後の避難所で、手持無沙汰でさびしそうにしているお年寄りたちに気がついた望月さんは、空き地で一緒に野菜づくりを始めることを思いつくが、人手が必要でゆいっこに声を掛けた。ゆいっことは立ち上げ当初から適当な距離で関わってきてはいたが、それをきっかけに関係が深まった。
 時が経ち、混乱や動揺もいくらか落ち着いてくると、立ち上げに関わっていた議員たちは、他の人たちに後を託すようにゆいっこを離れた。そして活動は、一般ボランティアたちの手へと移っていく。

友人を励ますかのような温かな活動の数々

 ゆいっこの事務所は古くからの商店街にある。空き店舗となっていたところに、事務スペースと人が集まれるテーブルと椅子、一角には被災者の一人が担当するカフェ・スペースが置かれている。現在のメンバーは、有償で常駐し事務一切を引き受ける2名の専任事務局スタッフと、自分たちの生活の合間に時間を割いて協力する無償ボランティアたち。県外からも併せて約240世帯・480人超の避難者の支援を、毎月開催する企画・運営会議に集まる40〜70代の12名で動かしている。
 活動は、今も花巻市内と被災地の両方で行われ、毎月発行されるニューズレターのカレンダーはさまざまな活動予定で3分の1近くが埋まる。花巻市内においては、被災者同士あるいは支援者と交流する食事会やお茶会、近くの温泉で昼食を囲む出身地ごとの「同郷人会」、季節の「お花見」「夕涼み会」「クリスマス会」「望年会」に、健康促進を兼ねて山に出かける「歩こう会」、借りた畑で被災者と支援者で野菜を育てる「となりの畑」、独居老人や小さい子どものいる「きがかり世帯」のサポートやその交流会など、誰もがどこかに参加しやすいようバラエティに富む上、お茶会、交流会は毎月行っているものも多い。参加も上々で、季節のイベントには100名以上が集まることもある。
 被災地に対しては望月さんを中心とする支援者のほか花巻在住の被災者も同行し、「地元」の様子を見たり友人知人に会ったりしながら支援に回る。内容は、現地の人たちと一緒に花を植えたり、お茶飲みの場の提供、温泉ツアーの企画ほか、「なんでも御用聞き」さながらの臨機応変さだ。被災地も花巻市内も、現在ではニーズが分散化し、とても全部には対応できないというが、「被災者を支援したい、孤独にさせない」という決意が伝わってくるようなゆいっこの活動を慕って、花巻市外からも行事に参加する人もいる。

決して楽観視できない被災地の深刻な状況

 まだ多くが「仮」ではあるものの、被災者の日常生活に取り立てて不自由がなくなった現在、もっとも心配しているのは「うつ」の発症。過去の大地震においても、3年目以降に急増したというデータがあるという。そこで、新たに始めたのが「かくれうつ」への注意を促し、発症そのものや悪化を防ごうとする「よりそい活動」。自らもうつ状態を経験したという被災者のひとりが担当となり、苦しみを最小限に抑えたいと懸命だ。
「今後、みなし仮設や医療費控除の制度が終了すれば、そこでまた心の負担が増えます。親しくなった被災者の人に聞いてみたところ『今は考えたくない。その時になったら考える』と言っていました」という望月さんも沈痛な面持ち。また、すでに仮設住宅を出て新しい「わが家」へと移っている人たちがいる現在、それはよろこばしいことである一方で、高台に建てられた仮設に残るお年寄りが、それまで買い物に連れて行ってくれていた近所の人や話せる知り合いがいなくなったために閉じこもりがちになるなど、新たな問題も生まれている。
「地域の祭りが復活したとか、元気だとか、いいニュースがたくさん流れているけど、被災者の実態はかなり深刻」ということばに、現実にそぐわない楽観視の風潮に対する苛立ちがにじむ。
 そんななかでのボランティアの減少。震災から3年経った今年3月には激減し、望月さんも参加する陸前高田支援連絡調整会議は当初30〜40団体が参加していたが、今ではその1割程度しか集まらないこともあるという。膨大なガレキの山がようやく片付き交通網も復旧してくると、まちは震災前とはかけ離れた姿のままであっても、なんとなく安心にも似た空気が流れたのだろうか。
 ゆいっこが活動の先に見据えているのは「いつか『支援者』と『被災者』というカテゴリーが薄まり、垣根がなくなったとき、ひとつの村のなかで困っている人がいたら助けるという普通の社会」だという。正に、「ゆいっこ(結ということばに方言で『っこ』を付けたもの)」の精神だ。現在、行われているのは被災者への支援活動にほかならないが、それは将来の「豊かな人間関係で結ばれた地域」像につながっている。