「まち むら」126号掲載
ル ポ

広い視野と「事務的」運営で魅力的な体験プログラムを実現
岩手県田野畑村 NPO法人体験村・たのはたネットワーク
 北三陸の岩手県田野畑村。小さなこの村の自然や産業にふれる体験プログラムを提供する活動が、村を元気にしている。
 平成20年にNPO法人となった体験村・たのはたネットワーク(以下、NPO)の体験は、漁師のサッパ船で奇岩・断崖の景観を間近に見るツアー、豪壮な大自然のなかのトレッキングや自然観察、貝殻を使った工作体験ほか各種。震災前は20種もあったが、現在は10種ほどである。
 数字的には、16年度は400人程度だった集客数が18年度2000、19年度から6000以上をキープ、23年度は減少するものの24年度からは10000を超えている。さらには「平成25年度地域づくり総務大臣表彰」「オーライ!ニッポン大賞」(農林水産省)ほか受賞歴も多数。これらの成果はどのようにして生まれたのだろうか。


財産を活かす広い視点

 戦略のカギとなっているものが三つ考えられる。ひとつは「視点」、もうひとつは「人材」、そして「報酬」だ。
 かねてより田野畑では「住民は慣れてしまって気づかないことに、村外の人は気づく」という考えがあった。体験受け入れ組織の構築にあたり、その視点に基づき村外出身者にも要職を任せた。
 人材も多く、そのひとり、当時の村長、上机莞治さんは、日本一の海岸美と評される北山崎を訪れる観光客は多くてもほとんどが通過型である状況に危機感を持ち、いち早く「交流人口」に着目していた。そんなトップのいる行政の提案で平成15年、NPOの前身である「体験村・たのはた推進協議会」(以下、協議会)が設立される。その常勤スタッフとして白羽の矢が立ったのが現NPO副理事長の佐藤辰男さん。県内内陸部の出身だが田野畑在住歴が長く、日頃の言動から事業の推進力が見込まれていた。
 話は少し前後するが、田野畑の体験プログラムは村内最大の宿泊施設「羅賀荘」の宿泊客に「サッパ船に乗ってみませんか」と声を掛けることから始まったが、きちんとした受け入れ組織がないために発展はむずかしかった。16年からは協議会が受け入れを開始するが、最初はさしたる成果もなく、ようやく客が増えてきたのが18年。その後、外部折衝や客への対応のためにNPO法人化したという経緯がある。
 それまでに、村外出身で同様の活動の経験者や、各地を旅した経験のある現事務局長の楠田拓郎さんが関わるようになっていた。そして現在は、正職員3人のうち2人が県外出身、パートとして地元の女性たちが事務局を構成する。


情にすがらない運営がもたらすワンランク上の結果

 活動には、体験のインストラクターを務める地元住民あるいはそれに匹敵する人材も必要だ。今でこそ体験は知られているが、当初漁家や農家の人々にガイドとなる決心をしてもらうのは容易ではなかった。その背中を上手に押したのも人材たちで、ことあるごとに活動のおもしろさ、村全体のメリットなどを説明し、ときには実感できるような仕掛けもする。楠田さんも自身が客に説明している最中に、わざと漁師に漁業に関する質問を投げかけたりした。漁師の実務者ならではの話しに客は大盛り上がり、喜んでもらえたことを喜び、価値に気づいた漁師はガイドへ…という流れができるわけだ。
 事業は温かみにあふれるが、運営は冷静な判断のもとで行われ、それが継続的な活動を実現しているようだ。そのひとつは協力者への報酬。たとえば一番人気のサッパ船のプログラムでは、ガイドの漁師はサッパ船の管理から燃料、操船技術やガイド内容、客を魅了するダイナミックなコース設定、そして安全の確保など、求められるものは多岐にわたる。本業の間の空き時間とはいえ、これを十分な報酬もなく実施するのは困難であろう。
 一度、サッパ船の体験料を値上げしたことがあった。客足への影響も気になったが、ガイドのことを考えて実施に踏み切った。しかし、その後も客足は順調だ。魅力があり対価が妥当と思えば人は来る。そして、十分な報酬という形で評価され、現場においてもやりがいを得た漁師たちは、自主的にガイドとしてさらなるサービス向上に努めているという。
 任意団体等の活動において金銭の報酬は否定的に見られることが少なくない。しかし、ある程度以上のことを継続的に実施する場合、目をそらしてはいけない。活動の場で「ボランティア」ということばはよく誤解されているが、本来の意味は「自主性」であり「無償労働」ではない。報酬がすべてではないが、過剰な負担はモチベーションの低下につながる。
 一人付け加えれば、冷静な運営は、一方では厳しい側面も持つ。人気の出ないプログラムには、クオリティキープのために何らかの対処をする。そうはいっても、担当者の心情には十分な配慮をした上でだ。その二面性と思いやりに満ちた手法は見事である。


同じ方向を向いているから前に進める

 田野畑村は、早期に民泊に取り組んだ歴史もある。民泊は、平成6年に農水省の規制緩和を機に各地に広がるが、ここでは昭和50年代頃から平成の初期にかけてすでに実施していた。羅賀荘が取り組んでいた教育旅行等の受け入れに住民らが協力したものだったが、このときは受け入れ家庭に支払いもなく、活動は下火になった。
 しかし近年、同法人を軸に再び民泊が実施されている。過去の受け入れで楽しかった思い出を持つ人が多く、また当時小学生だった受け入れ家庭の子どもがPTA役員となっているなどして、住民の協力は比較的容易に得られたという。
 NPOの活動によってもたらされるメリットは、決して直接的に関わっている人たちだけのものではなく村全体の発展につながるものであるという考えは、繰り返し住民に対して伝えられてきた。実際、交流人口の増加により地元経済が活性化され、その恩恵はNPO周辺だけにとどめず、村全体に広げようとする意識が常に事務局がある。そんな閉鎖的でないスタンスがよい結果や循環をもたらしているよう思えてならない。
 東日本大震災の津波では田野畑も大きな被害を受け、NPOも多くの財産を失った。しかし、被災した市町村が教訓を伝えるという使命感と被災者への配慮の狭間で揺れ動いているときに、NPOは早々に「津波語り部ガイド」を開始した。それは、田野畑にとっては当然といっていい展開だったのかもしれない。それは、出身地がどこだとか、関係者だとかそうでないとか、そんな括りを越えて人々の間に築かれた信頼関係が盤石なことを物語っている。