「まち むら」114号掲載
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市民の「恩返し」の思いをつないで支援活動
宮城県栗原市 栗原おんがえし隊
 6月11日で東日本大震災の発生から3カ月になった。6月6日現在、全国で1万5373人が亡くなり、8198人もの方が行方不明のままだ。犠牲者数は阪神・淡路大震災の6400人余の4倍近くにも上る。沿岸部の行政、警察、消防、病院の建物や職員も多数被災したため社会機能がまひし、混乱はいまも続いている。そんな中、世界中から駆け付けたボランティアが発生当初から現在まで、そして多分、今後も長きにわたり重要な役割を担っていくのは間違いない。
 筆者は仙台市に本社を置く東北のブロック紙・河北新報記者としてだけでなく、一ボランティアとしても被災地を訪れた。行政の混乱を尻目に豊富な経験、何よりも高いモチベーションと情熱を持ったボランティアの活躍ぶりに感動と感謝の念、頼もしさを感じずにはいられなかった。
 宮城県内陸北西部にある栗原市のさまざまな団体、市民もその一翼を担っている。中でも栗原市築館の商工会、農協、NPO、農家、地方議員、各種女性団体で結成した「栗原おんがえし隊」(代表・渡辺一正栗原南部商工会長)はユニークな存在だ。発足の底流にあるのは2008年6月14日に国内最大級の山間地災害を引き起こした岩手・宮城内陸地震だ。最大震度6強を観測した栗原市は死者13人、行方不明者6人の人的被害に加え、のべ5283人が避難生活をし、61世帯163人(2008年7月29日時点)が長期間、仮設住宅暮らしを強いられた。その間、義援金、支援物資、慰問活動、ボランティア派遣など全国からさまざまな支援をいただいた。おんがえし隊は「郷土の危機」に加え、文字通り、「恩返し」が出発点にあった。


恩返しの気持ちが凝縮された支援物資の数々

 設立のきっかけは、筆者が現地を訪れた医師から「現場は衛生状態が悪化し、末端の避難所には食料も水も燃料も十分届いていない」という話を聞いたことだった。当時、筆者は急病を発症し、パソコンもカメラも使えず取材活動ができない状態。居ても立ってもいられない思いから3月20日、知人に相談すると、翌日21日には地元の商工会、農協、党派を超えた地方議員ら各種団体の関係者が集まり、その場でおんがえし隊結成が決まった。
 会議では翌日22日付け河北新報朝刊の生活関連情報欄にカップ麺など食料を中心とした支援物資の募集記事を依頼することを決定。同時に募集ビラも作成し、22日未明にはみんなで新聞に折り込み、栗原市中心部に配った。22日は必要な物資を調べるため宮城県南三陸町や気仙沼市にメンバーを派遣した。
 反響は予想をはるかに上回った。備蓄場所とした空き店舗には、物資や義援金を持ち寄る市民が押し寄せた。募集は2回に分け数日間行なったが、食料のほか灯油ストーブ、電池、カイロ、眼鏡、衣類など600人以上から段ボール箱で1000個を超える物資が寄せられた。 当時、深刻な物資不足が続き自分の生活さえ厳しいのに、なけなしの物資が数多く寄せられた背景には「いまこそ内陸地震の恩返しを」「おらが古里の危機」という栗原市民の気持ちが凝縮されていた。


手の行き届かない小さな避難所を回り支援

 初の被災地入りとなる24日は早朝から商工会女性部や築館生活学校など大勢の女性が参加し、梅干し入りのおにぎり3500個を作った。昼ごろ、南三陸町災害対策本部があり同町内最大の避難所でもある町総合体育館に支援物資とともに運んだ。「具入りの温かいおにぎりは被災後、初めて」と避難者の喜ぶ姿が印象的だったが、その半面、体育館に選別されないまま山積みされていた支援物資には疑問を感じた。午後は小さな避難所をできるだけ多く視察。その結果、物資の支給に明らかな格差があることが分かった。小さな避難所で灯油も電気もなく厳しい寒さに被災者が震えているのに体育館に山積みされた簡易カイロの箱は、いまも目に焼き付いている。
 おんがえし隊は行政の手が行き届かない分野を支援するのが基本方針だ。被災者のニーズは1日単位、集落ごとに変化するため被災者自身から要望を聞くことを心掛けている。現地は停電、断水が続き、車も店舗も流され、物資自体が手に入らない状態が続く。タンパク質やビタミンが不足していると聞き栗原産の野菜と肉が入った豚汁の炊き出しを行ない、生卵、納豆、牛乳、野菜をトラックに積んで避難所回りもした。避難者と地元住民とでバーベキュー交流会も開いた。渡辺代表(56)は「内陸地震の被災経験を生かし息の長い活動をしていく。親族や自宅、財産、職を失いつらい思いを抱え込んでいる被災者は多い。心のサポートにも力を入れたい」と話す。
 隊の構成団体や個人は隊全体の活動と並行して独自の活動を積極的に行なっている。ある建設会社や栗原市築館各種女性団体連絡協議会(各女連)は現地の災害ボランティアセンターに登録し、がれきの撤去や物資の仕分け作業に参加。NPO法人アズマーレは神戸市のNPO法人「ひまわりの夢企画」と共同で被災者に食器を無料配布する活動を行なっている。商工会青年部有志は同じ栗原市のボランティア「災害支援はなやま会」の風呂修理活動や物資搬送をサポートしている。
 築館生活学校はアズマーレの協力で「避難生活者が買い物を楽しめるように」と支援物資を活用したフリーマーケット(避難者には無料券配布)を開催した。各女連会長でもある築館生活学校の久我節子委員長(76)は「会員は中高年の女性が多いが、内容に応じてほかの団体と連携することで活動の幅が広がる」と利点を強調する。まさに隊自体が各種団体や個人を結ぶゆるやなかネットワーク組織になりつつある。構成メンバー同士で個々の自主活動を尊重しながら、必要に応じて協力し合うという理想的な形が自然とでき上がった。


自分たちの命を自分たちで守る意識が必要

 今回、現場で痛感したのが災害規模が大きくなればなるほど行政には頼れないということだ。「自助、共助、公助」という言葉の通り、今回のように行政自体も被災した場合、自分たちの命を守るのは自分たちだという自立した意識が必要だ。大部分の避難所では住民らは食料や燃料、毛布を供出し合って生き抜いた。行方不明者の捜索や分断された道路の復旧を住民だけで行なった集落もある。事実、行政よりも早く、ボランティアが駆け付けた現実も目の当たりにした。周囲とコミュニケーションを取り、てきぱきと行動するボランティアとは逆に、国の出先機関や県から派遣された職員が手持ちぶさたに立っていた姿はあまりに対照的だった。
 「公平性」「前例主義」は緊急時には命取りになる。避難所で飢えて凍えている人がいるのに、「全員分の数がないと受け取れない」と支援物資を断った職員がいたと何回か聞き、あぜんとさせられた。民間ボランティアは「全員に行き渡らなくても1人でも救いたい」と柔軟に行動していた。「われわれは経済大国日本のボートピープルだ。いつになったら難民生活から脱せられるのか」。元教員の被災者がわたしに言った言葉はいまも忘れられない。


現地に行き懸命に生きる姿を見てほしい

 この大型連休に大勢のボランティアが駆け付けてくれた。過去にない規模の支援が世界中で広がっていることが、残酷で無惨な被災地で唯一の救いにも思える。自衛隊、消防、警察、医療、福祉、NPOなどの関係者、名も無き市民が不衛生で食料も水も手に入らない劣悪な環境下でいまも活動を続ける。復興への歩みは10年でも難しいだろう。どうか、被災地に関心を持ち続けていただきたい。人々の関心が薄れてきたときが正念場だ。家族も自宅も財産も職も失った被災者の境遇を「想像」し続けてほしい。
 だれでも息長くできる支援がきっとある。日常生活で東北の商品を買う、東北の観光地に足を運ぶ、義援金や物資を送る、ふるさと納税を行なう…。大型連休後、ボランティア不足が深刻化している。できれば現地に足を運んでほしい。がれき撤去、家の片付けなど多様な仕事があり誰でも貢献できる。被災地では助け合いながら懸命に生きる人々の姿を目にするだろう。あなたにきっと何かを与えてくれるはずだ。