「まち むら」109号掲載
ル ポ

コミュニティ・ビジネスで守る3基の水車
岩手県葛巻町 江刈川地区
 かつて日本では、水の流れるいたる場所に水車が設置されていた。1942(昭和17)年の調査では、精米や製粉の動力水車だけで7万8000基が存在していたとの記録がある。しかし、日々の暮らしを支えただけでなく、各地の地場産業にも欠かせなかった水車は、次第に姿を消していった。岩手県葛巻町の江刈川地区では、いまも3基の水車が回り続けている。


おいしいそばのために

 山間にある江刈川地区の冷涼な気候は、そばをはじめとするさまざまな雑穀の栽培に適している。その脱穀や製粉に欠かせない水車が導入されるのは大正時代。それまでは、屋外には水の力で搗く「バッタ」を、屋内には足踏みの「唐臼」を設置して米を搗き、雑穀を挽いていた。
「だから、みんなでお金を出し合って水車組合を結成し、水車を造ることは、当時としては大革命だったんです。この葛巻町には、どこの集落にもそんな共有水車がありました」
 やがて地区ぐるみで水車を生かした起業を提案する高家(こうけ)卓範さんと章子さん夫妻はこう語る。
 しかし、ハイテクだった水車はいつしか時代遅れとみなされるようになり、町内の共有水車を使う人がいなくなった。3基あった江刈川地区の水車も1基は使われなくなったが、高家領水車と下車(しもぐるま)の2基は水車組合に参加する家庭がずっと使い続けてきた。建て替え費用を負担し、粉挽きの手間を惜しまなかった理由を、章子さんが明快に言い切る。
「それは、この江刈川の人たちは、水車挽きの粉が、どんな粉よりおいしいことを知っていたからです」
 おいしいそばを味わうために、在来種のそばを栽培し、水車で粉に挽き、手打ちすることを厭わない。極上の味を守り続けてきた意思が、この地区の未来を切り拓く。


水車そばで起業を

 水車で粉に挽く。言葉にするのは簡単だが、15年に一度、水輪を建て替え、石臼の目立てを欠かさず、水車を使いこなし、そばを打つ――そのすべてが融合して伝統のそばに結晶する。ふるさとのすべてを愛し、未来に引き継ぎたいと考えていた高家さん夫妻は、江刈川に伝わる水車そばの店を出そうと提案する。
「お金とアイデアは私たちが出しますから、おかあさんたちのそば打ちの技だけを出してください」
 2人はそう言って家々を回った。しかし、田舎の家庭料理にお金を払う人がいるとは、誰にも思えない。東京の有名デパートに招かれてそばをふるまい、自信を得た女性たちが、夫妻の提案に応じたのは10年後のことだった。ようやく1992年に「高家領水車母さんの会」を結成すると、補助金を受けず、高家さん一家の旧宅を改装して、「森のそば屋」を開業する。
 運営が軌道に乗り始め、そば屋で働く女性たちは収入を得て生き生きし始めた。すると、私も働きたいという女性たちが高家さん夫妻のもとを訪れるようになる。しかし、家族に反対されながら「母さんの会」に参加した女性たちの結束が薄れ、収入が減ることは避けたかった。
 そこで、97年に「みち草の会」という新しいグループをつくり、農産物直売所を兼ねた農村レストラン「みち草の驛」を開店させる。2つの店が競合しないよう、メニューも差別化したことで、そば屋だけでは紹介し切れなかった豊かな郷土料理が、地区全体でつくり続けられるようになった。


地区の宝を守ろう

 2001年には、みち草の驛で使うそば粉を挽くため、会の女性たちが中心になって水車組合を結成し、物置きになっていた江刈川水車を復活させた。こうして地区には、再び3基の水車が回るようになった。
 時が移り、世代が代われば、江刈川でもいつかは水車を使い、そばを打つ技が失われたかもしれない。しかし、そば屋と農村レストランというコミュニティ・ビジネスによって地区全体が水車を必要とするようになり、使いこなす技術が伝承されるようになった。地域の宝となった水車の建て替えの日には、もう次の水車造りを議論していると卓範さんは笑う。
「水車が完成した日の夜には、酒を飲み交わしながら、次の水車のたいこ(水輪)は誰の山の松を使おう、芯棒には誰の山の楢がいいと、15年後の建て替えの話で盛り上がるんですよ」
 2006年10月、江刈川地区は集中豪雨による水害に見舞われた。3日間降り続いた雨量は、1年分の降雨量に匹敵する。夜の間に勢いを増した濁流は元町川を氾濫させ、水路はもちろん、2基の水車を土砂で埋め、水車小屋にまで泥水を流入させた。翌朝、地区の女性たちはまず上流の高家領水車に集まり、土砂を掻き出し、水洗いをした。そのときの様子を、章子さんは次のように振り返る。
「自分の家も被害を受けて、そのかたづけもしないといけないのに、みんなが水車小屋に集まってくれた。みんなの力を合わせて、翌日には粉が挽けるまでに復旧させたんです」


周回遅れのトップランナー

 雑穀とひとくくりにされる穀物それぞれの特性を生かした伝統料理の種類は多い。ただ空腹を満たすためだけになら、これほどたくさんの料理が考案されることはなかっただろう。江刈川の女性たちが生み出し、受け継いできた郷土料理を求めて、名のある観光名所もないこの地区に、1年に約2万人もの人が訪れるようになった。
 毎朝、盛岡市に向かう産直の車にも江刈川の野菜や手作りのふるさと菓子が満載され、その日に行く商店街の売り上げ全体を押し上げると引っ張りだこの人気だ。その人気の秘密を、卓範さんはこう分析する。
「日本中が水車を顧みなくなった時代にも、ここでは使い続けてきましたが、スローフードが求められる時代になって再評価されました。周回遅れのランナーが、いつの間にかトップを走っていたような感じですね」
 2店の売り上げは、超えそうで超えられなかった1億円の壁を、2年前に突破した。それでも、利益は出ていない。売り上げはすべて、2つの店で働く人たちや、農家から購入するそばや野菜などの購入費として地区に還元されている。利益を出すためではなく、地区内の人たちが支え合い、地区内の宝を未来に受け継ぐために、2つの店はある。