「まち むら」105号掲載 |
ル ポ |
市民の元気がまちを変える |
大分県別府市 別府八湯ウォーク連絡協議会 |
高速道路料金が全国一律1000円に値下げされたゴールデンウィークには、各地の観光地がにぎわいをみせた。大分県別府市の宿泊数も、前年比103%の4万人を突破した。なかには、家族4人で、東京から17時間をかけて運転し続けて来たという人もいた。 国の登録有形文化財に指定されている市営竹瓦温泉にも、連日1000人以上の長い行列ができた。近所に住む平野芳弘さんはおりをみては足を運び、床に坐って辛抱強く順番を待つ人々に「まち歩きマップ」を配布し、別府の魅力を伝えた。大分県職員の平野さんは、まち歩きの仕掛け人として知られる。 全国有数の温泉資源 いまやまちづくりと一体化した観光振興の手法として全国に普及したまち歩きは、別府市の竹瓦地区で生まれた。「まち歩き」とは、点在する観光スポットだけに立ち寄る従来の観光とは異なり、地域の生活空間をそぞろ歩きするウォーキングツアー。ガイドはプロではなく、誰よりも地域を知り尽くした地域住民だ。 「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と称される別府には全国の1割を占める2447の源泉があり、質・量ともに日本最大の温泉資源を有する。主要な八つの温泉郷は別府八湯と呼ばれ、それぞれに独自の温泉文化を開花させてきた。観光地としての別府は、1871(明治4)年の別府港開港とともに発展した。戦前は陸・海軍の保養地、戦後は連合軍の駐留地となり、高度経済成期の76年には宿泊客が613万人に達した。 しかし、成長路線を走り続けてきた別府は、旅行の形態が団体旅行から個人旅行に変わる時代の波に乗り遅れ、バブル経済の破綻にも見舞われる。往時の活況が消えるにつれ、市民は住み慣れた土地への愛着と誇りを失っていった。 「別府に来た人をどこに連れていく?」 竹瓦地区に住む女性たちと定期的に開催していた勉強会で、平野さんが発した問いに、「湯布院」と答える人さえいた。まず市民自らが自分のまちを知ろうと平野さんが呼びかけたのは、そんな沈鬱な空気が別府を覆っていたときである。 変化は市民の心のなかから 大学時代を福岡県で過ごした平野さんは、帰省するたびに古い建物が消えていくことに心を痛めた。昭和初期から長い歳月をかけて整備された碁盤の目をなす街路に、風格のある建物が並び、路地にも趣のある木造住宅が軒を連ねる。戦災を免れた貴重な景観は、時代遅れとしか見られない時代を迎えていた。 そんな時代のうねりに逆らうように、平野さんは古い写真や資料を収集し始める。どの資料にも、自分の人生の舞台をよりよくしようと懸命に生きた先人の努力が映し出されていた。30年を経て、蒐集した資料が4000点を超えると、自宅の1階を改装して私設「平野資料館」を開館。膨大な資料を無料公開し始めた。 次いで、3人の仲間とともにまち歩きを開始する。目的は観光振興ではなく、まちづくりにあったと平野さんは語る。 「まちづくりの第一歩は、自分のまちを知ることから始まる、それにはまず地域を歩いてみようと呼びかけたんです」 仲間たちは当初、歳月をかけて培われ、磨かれた生活文化こそが別府の魅力だと、どんなに平野さんが力説しても耳を貸さなかった。だが、古い資料に学んだ豊かな知識を披露する平野さんに先導されて歩き始めると、地域の魅力に開眼していく。心の目を開かれた人たちに、見なれた風景のどれもが新鮮で愛おしいものに変わっていった。こうして竹瓦地区は、人の心のなかから変わり始めた。当時を振り返って、平野さんはこう話す。 「年間1100万人が訪れる別府に、最も欠けていたのは、市民の元気でした。まち歩きを通して地域の魅力を再発見し、多くの人との交流を通して市民が元気になってから、別府が変わり始めたのです」 まち歩きからまちづくりへ 自信を取り戻した竹瓦地区の人々は、やがて様々なまちづくり運動を展開するようになる。岸川多恵子さんと水口民子さんは、そんな市民の代表格だ。 ともに竹瓦地区で喫茶店を営む2人は、乞われて「湯の町ママさんガイド」になった。ガイドたちは、1928(昭和3)年、全国で初めて別府に誕生した女性バスガイドの七五調の節回しを再現した案内で人気を呼ぶようになる。 2人の店は市民の交流の場になり、様々なまちづくり運動の拠点と化した。やがて2人は、別府八湯のひとつ、亀川温泉にある市営浜田温泉の修復・保存活動の中心的存在となる。広範な運動は市を動かし、解体された浜田温泉は復元され、博物館として保存されることになった。さらに、大正時代に日本初のアーケードとして造られ、産業遺産に認定された竹瓦小路の木造アーケードの修復保存をめざし、募金活動に乗り出している。 夜の繁華街を彩っていた流しのコンビも復活した。平野さんはカラオケとともに姿を消した流しの再来を願い、関係者を探していた。あきらめかけたころ、平野さんの思いが天に届いたように、かつて流しをしていた上野初さんが偶然、平野資料館を訪れたのだ。 ギターをつまびく「はっちゃん」こと上野さんは、アコーディオンを奏でる50年来の相棒、「ぶんちゃん」こと日浦文明さんとコンビを再結成。2人が演奏しながら案内する「夜の露地裏散歩」という新しいまち歩きメニューが誕生した。70代と80代の2人はいま、後継者を育てながら第二の青春を楽しみ、安全な夜のまちづくりに貢献している。 まち歩きが全国に広がる まち歩きの活動が地元紙で報道されると、観光客から参加の問い合わせが寄せられ、平野さんたちは観光客の受け入れを始める。「別府八湯竹瓦倶楽部」が主催する「竹瓦かいわい路地裏散策」は、まちづくりと一体になった観光プログラムとして人気を博するようになった。 すると、八湯のひとつ、鉄輪(かんなわ)温泉でもやってほしいという依頼が舞い込む。平野さんは地域の人自らが行なうよう説得し、それまで蓄積したノウハウを惜しみなく伝授した。こうしてまち歩きは市内全域に広がり、いまでは11団体、14コースに増加。04年には、相互の交流と研鑽を目的に「別府八湯ウォーク連絡協議会」が結成され、平野さんが事務局長に就任した。 まち歩きの手法は06年、日本初のまち歩き博覧会として開催された「長崎さるく展」(さるくは歩くの意)に採用され、別府で研修を受けた多くの長崎市民が活躍。大成功を収めた。協議会ではその後も全国の観光地やまちづくり団体の視察や研修を受け入れ、各地の活性化を促している。こうした活動が評価され、別府八湯ウォーク連絡協議会は08年、国土交通省の地域づくり表彰で国土交通大臣賞を受賞した。 眠っていた地域資源とともに、眠っていた市民の可能性をも引き出すまち歩きは、別府だけでなく、全国の多くの地域を再生させている。 |