「まち むら」103号掲載
ル ポ

伝統産業を未来産業に
福岡県八女市 馬場水車場を応援する会
 洋の東西を問わず、人は太古の昔から香木を焚いて心を清め、神との対話を試みたという。日本では、その行為を香道という芸術にまで高めた。江戸時代に線香の製造技術が伝わると、香りを楽しむ習慣は広く普及する。先端に火を点けてひとすじの香煙を立ち上げ、すがすがしい香りをかぐ。仏事だけでなく、リラクゼーションにも使われる線香は、心の用を満たす伝統工芸品として生活に欠かせない。だが、その原料がスギやタブの葉であることはあまり知られていない。


全国一の水車の集積地

 福岡県南西部にある八女地方は、日本を代表するお茶の産地として知られる。八女地方はまた、線香の原料となるスギやタブ粉の産地としての顔ももつ。製粉のエネルギー源には伝統的な水車が使われていたため、この地はまた全国一の水車の集積地でもあった。それを可能にしたのは、豊かな森林と水、熟練の水車大工という人材――、これらの地域資源すべてを融合させる英知である。
 この地方では、川に堰を設け、石積みの水路を引き、水車とその付属機器を兼ね備えた工場を「水車場」と呼ぶ。八女地方の水軍場は最盛期には40軒を超え、地元はもとより、全国の線香会社に線香粉を供給していた。
 しかし、昭和50年代に入り、東南アジアから安価な木粉の輸入が始まると、7軒にまで減少。そのうえ残った樹葉製粉業者もエネルギー源を水車から電力に転換したため、水車場は2軒を数えるだけとなった。そのひとつ、馬場水車場を営む馬場猛(60)さんは、同業者が次々と水車を放棄してもなお水車を使い続けてきた理由を次のように話す。
「石油資源に依存しない、自然エネルギーである水車が見直されたのは、1973年の第1次石油危機のときでした。そのとき、せめて私だけでも水車を使い続けよう、そう決意したのです」
 還暦を控えた馬場さんは、完成から20年近くたち、老朽化した水車の再建を決意。杉葉の採取を通して知り尽くした山々を巡り、水車の材料となる適木を探した。そして、3年の歳月をかけて満足のいく木材をそろえ、昨年10月に再建の日を迎えた。


山里の恵みを生かす伝統産業

 線香水車の建造と修復を担っていたのは、水車大工として初めて「現代の名工」に選ばれた広川町の故中村忠幸さんだった。馬場家の水車は、その中村さんの最後の作品だ。1987年に竣工した水車は、21年間、休むことなく回り続け、馬場家の線香粉づくりを支えてきた。
 多くの人が思い浮かべるのどかな精米水車とは異なり、線香水車は直径5.5メートル、幅1.2メートルの巨大な工業用水車だ。早朝に乾燥させた杉葉1トンを投入すると、重さ60キロの杵15本をリズミカルに上下させ、翌朝までに細かなパウダー状の杉粉に搗き上げる。
 毎朝7時、馬場さんは妻の千恵子さん(58)とともに杉葉の香りが漂う自宅横の水車場に入り、一昼夜かけて完成した杉粉をふるい機に送り、袋に詰める。そして、空になった臼にふたたび杉葉を入れる。さらに、新しい杉葉を裁断して乾燥させておき、翌朝の作業に備える。
 そして、午後には、千恵子さんと二人で杉葉を取りに山へと向かう。上陽町の自然は、原料となる杉葉や水車を動かす水力エネルギーだけでなく、春には山菜を、夏には川魚を、冬にはイノシシをも与えてくれると、山里暮らしの愉しみを語る馬場さんの熱弁は尽きない。馬場さんの線香粉づくりは、そうした山の恵みとの交流のなかで営まれている。


伝統の水車に創意を加える

 水車の再建は、中村さんの最後の弟子、野瀬秀拓さん(57)と息子の翔平くん(24)に託された。建築大工だった野瀬さんは、中村さんの作品を見て水車に魅了され、弟子入りを志願。10年以上にわたる厳しい修行の末、すべての水車の形板と図面を受け継いだ。
 しかし、観光用の水車の、いわゆる「見る水車」が増加する一方で、線香水車のような「働く水車」は減少の一途をたどる。馬場水車場の水車は数少ない働く水車のひとつだ。再建の依頼を受けた野瀬さんは、師匠の最後の作品をていねいに解体し、忠実に再現することにした。その過程は、時空を超えて師匠と対話することでもあった。
「師匠が何を思い、どうやって水車の馬力を増そうと悩んだのか、その思いをたどることで、杵の先端まで心を行き渡らせていたということがわかりました」
 そう語る野瀬さんは、新しい工夫にも挑んだ。4.5センチあった水車と円槽(導水路)の隙間を1.5センチに縮め、水車により多くの水力エネルギーが加わるようにしたのだ。わずか3センチとはいえ、幅1.2メートルの水車が受ける水量は1秒間にドラム缶1本ほど増えたことになる。操業を再開した馬場さんは、その効果を実感している。
「おかげで馬力が1〜2割ほど増しました。この力強い水車に負けないよう、これからもがんばって働きますよ」


地域との連携が始まる

 作業が進むにつれ、次第に新しいが姿を現わした。作業の安全上、この水車もこれまでと同じように、トタンで囲われる予定だった。だが、その堅牢な姿を目にした八女市民のなかから、水車をトタンではなく強化ガラスで囲って「見える化」し、多くの人に力強く回転する水車を体感してもらうことが、水車場を未来に継承することになるのではないかという声が上がった。馬場さんの同意を得た有志は、材料費と建設費の約100万円をまかなうため、「馬場水車場を応援する会」を結成。募金活動を開始した。
 さらに、それまで線香会社に杉粉を販売していた馬場さんが、水車の再建を機にオリジナル線香の製造を開始すると、その販売を支援し始めた。同会事務局の高橋康太郎さんは次のように語る。
「自然に寄り添う馬場さんの暮らしと、水車を使って線香がつくられることを一人でも多くの人に知ってもらい、広く線香を売ることによって守っていきたい」
 馬場水車場は、大正7(1918)年、八重谷集落の人々が資金を出し合い、建設したことに始まる。自給的な暮らしを営んでいた大正時代の八重谷の人々が、できるかぎり出費を抑えようと、自ら横山川に堰を設け、130メートルに及ぶ石積みの水路を築いたことは想像にかたくない。それでも、集落の出費は2630円に及んだ。現在の約6000万円に相当する。人々は集落の未来を賭けて、線香粉生産というコミュニティ・ビジネスに乗り出したのだ。
 この水車場が馬場家に受け継がれたのは、1961年のことだった。個人所有となった水車場を支援する地域の活動は、こうしたコミュニティ・ビジネスの復興ともいえる。再生可能な地域資源を持続可能な方法で利用する八女の伝統産業は、多くの市民の応援を受けて未来に受け継がれていくことだろう。