「まち むら」101号掲載
ル ポ

飲み会の一言から始まった「マイロード」作戦
岩手県滝沢村・姥屋敷いきいき21推進委員会
 岩手県の北西に位置する滝沢村はスイカやリンゴ、イワナなどの特産品で知られ、53000人を超す人口日本一の村でもある。県都盛岡市に隣接する地区は近年住宅地が目立つ一方で、北には秀峰岩手山がそびえ豊かな景観が広がる。姥屋敷地区はこの岩手山の懐に広がる酪農や農業が盛んな約200世帯ほどの小さな集落だ。
 地域力の低下が叫ばれる中、村では住民自らが考える住みよい地域の実現に向けて2002年に村内10地域にまちづくり推進委員会を発足させた。姥屋敷地区の住民で組織する「姥屋敷いきいき21推進委員会」は、地域の特産品をつくるためにヤマブドウの共同栽培に取り組むなど村内でもっとも元気のあるまちづくり推進委員会の一つ。


「陳情」から「自ら取り組む」

 小雪が降りしきる中、重い側溝のふたを運び、砂利敷きの路面をならす重機の音が杉木立に響く。2005年から始まった滝沢村の村道洞畑鬼越線の道路拡幅工事は2006年冬、住民自らの手によって完了した。1.4キロにおよぶ「マイロード」は、姥屋敷で暮らしてきた住民の団結力こそが成し得た事業だった。
 姥屋敷いきいき21推進委員会が2005、2006年に行なった村道洞畑鬼越線拡幅事業。山間にある姥屋敷地区の住民にとって役場などがある鵜飼地区へつながる回線は、欠かすことのできない生活道路の一つ。山麓の豊かな自然環境がある同地区では、仕事柄、大型のトラックが頻繁に通行していたが、これまでは普通車同士でも待避所以外ではすれ違うのに苦労するほど回線の幅員は狭かった。
「何とか道路の拡幅を実現してほしい」。住民はこれまで何度も村に陳情してきた。議会でも取り上げられ、1993年には計画も立てられたが、法律の関係上、現在の傾斜角度などでは行政による工事は難しく、概略ルートでの設計にも莫大な予算がかかることから実現には至らなかった。
 住民が自ら工事を始めるきっかけとなったのが、前村長と飲んでいる席での一言だった。酪農や農業に従事する住民が多いことから重機の扱いにも慣れていることをよく知る前村長は「これくらいのこと自分たちでできるのではないか」と住民に問いかけた。一日でも早い拡幅を望んでいた住民側は「やれと言われればやってやろう」と地域おこしにもなるのではという思いもあり、事業に意欲を見せた。
 こうして2005年に村道の拡幅工事が始まった。当時、村としては異例の村側が資機材の提供、道路使用許可、埋蔵文化財関係の事務手続きを行ない、実質的に住民が工事のほとんどを担当する「マイロード事業」という形になった。工事の費用は概算で650万円。同じ内容で業者に発注した場合の設計額と対比しても半分以下に抑えられた。


地権者との用地交渉も住民が

 完成までには多くの障壁があった。一番の問題は拡幅部分の土地の地権者との用地交渉だった。公共事業でも容易にはいかない用地交渉を、住民が行なうことは考えられない。しかし、当時の住民たちにはなんとしても拡幅させたいという強い意思があった。
 平均で3メートル前後の拡幅工事。道の両側の地権者は村内ばかりでなく隣接する盛岡市などにもおよび、自治会長をはじめ住民が昼夜を問わず一軒一軒了承を得るために回った。理解を得るために二度三度と足を運ぶことも珍しくなかった。その結果、住民の熱い思いに心を動かされた地権者の協力により、全区間で上地の無償提供を受けることができた。
 自治会長で姥屋敷いきいき21推進委員会の委員長でもある佐久間康徳さんは「地権者の1人でも駄目と言われれば実現できなかった。本当に地権者には感謝している」と当時を振り返り、改めて地権者の協力があってこそできた道路だということを何度も強調した。
 測量から始まり、本の伐採、地ならし、砂利敷き、のり面の整備、側溝の設置と作業は進んだ。掘削機械、トラクターショベル、グレーダーと機械を使った作業も多かったが、耕作などで普段から機械を扱っている住民が多くいる同地区の特徴がここでも生きた。
 普段はそれぞれ仕事を抱える住民が工事に費やすことができる時間も限られた。必然的に工期は農閑期となる11月から積雪するまでの約1か月間となった。工事はほぼ毎日、酪農家の搾乳時間が終わる午前9時ころから午後4時ころまで行なわれた。
 自分たちの生活路を少しでも良くしようとの思いは地区民の共通だったこともあり、平日は仕事で参加できない人も休日には現場で共に汗を流した。地元の花平酪農農業協同組合なども住民を陰で支えた。作業に携わった住民は2年で延べ500人近くに上った。
「何とかなるかなとやったが、どうにもこうにも天変だった」と作業の苦労を語るのは現場責任者の太田豊さん。酪農の仕事の合間を縫ってほぼ毎日現場に通った。「忙しい中、みんな集まってきてくれた」と地域が一体となった取り組みを振り返る。
 2006年12月ついに全長1.4キロの村道拡張が終了した。舗装はされていないものの大型車でも安全にすれ違うことができる立派な村道の姿がそこにはあった。「先人たちからの念願が叶った。子孫に対する一つのプレゼントにもなる」。ある世代以上の住民は開拓期に米を担ぎ、徒歩で上り下りした道。回線にはさまざまな思いが詰まっているだけに住民の喜びも一塩だった。


住民の強い絆

 大規模な拡幅工事が住民の手によってできた背景には、古くから築き上げられてきた姥屋敷という地区の強い結束力がある。戦前からこの地で農業を営んできた14戸の住民と1947年に満州から入植した開拓者が手を携えて築いてきた歴史を持つ同地区。
 自らも開拓で入植した佐久間さんは「ここはみんな一つ。ほかと離れているので、昔は特に自分たちで協力しないと生きていけないところだった。どの人も皆兄弟と同様に生活している」と話す。
 地区唯一の学校である姥屋敷小中学校の校歌に「おおしき岩手山のふところを苦難に堪えて拓ききし郷土ゆたかに築くべく力あわせて励みなん」と刻まれているように、開拓者を受け入れ、地域全体で畑をおこし、何十年もの歳月と苦労をかけて集落が形成された。村道洞畑鬼遠縁拡幅事業などから垣間見える住民の姿は、そこから醸成された地区の力強さを物語っている。
 現在、同地区では生活を少しでも豊かなものにしようと姥屋敷いきいき21推進委員会が中心となり、ヤマブドウの栽培にも力を入れている。5年前から始まった栽培は、約20戸が取り組む。昨年には村からの補助で加工用の機械も導入し、ジュースやジャムの加工を行なっている。住民の生活は少しずつ変わってきているが、小さいながら固い絆で結ばれた姥屋敷の姿はこれからも変わることはない。