「ふるさとづくり'99」掲載
<個人の部>ふるさとづくり賞 内閣官房長官賞

オレンジ会を通してうるおいのあるむらづくり
徳島県鴨島町 桑田トシ江
はじめに

 昭和30年代後半から日本経済は高度成長期を迎えた。人口は大都市に集中し、過密現象を引き起こした。経済は豊かになったものの、一方では水質汚濁、大気汚染等、様々な弊害が現れた。いわゆる公害である。
 他方、人の心は萎え衰えていった。生産量の増加を企業はこぞって目標にしたため、労働者は家庭を顧みることができなくなり、なごやかな団らんの時間もとれなくなった。人びとの精神はまさに疲労困憊の状態であった。近隣の人びととのコミュニケーションなどほとんどなく、隣の住人との対話もしないということが話題になった。
 地方でも程度の差こそあれ、同じ状態がみられるようになった。このような状態を憂い、婦人の地位向上、地域の活性化をはじめとして、人びとの和を取り戻し、以前の村落共同体にみられた心の和を広げたり、現在クローズアップされている環境問題にも取り組み、見事成功して現在も様々な活動を続けているのが鴨島町森藤の桑田トシ江氏である。


鴨島町及び森藤地区の概観

 徳島県鴨島町は県の北部中央に位置し、吉野川中下流の南部にある。徳島市から西へ約20キロメートル、面積は3、376平方キロメートルであり、古くから吉野川に沿った東西交通路の拠点として栄えてきた。
 町の人口は27000人と県内では4市に次ぐ人口規模となっている。内陸型の温暖な気候に恵まれ、山間下部ではみかんや花き栽培、平野部では野菜、花き等の施設栽培が行われ、京阪神市場の生鮮食品供給基地として発展しつつある。
 森藤地区は鴨島町の中心地から南部にあり、旧森山村の西端にあたり、自治会8、戸数242戸、稲作を中心に野菜、果樹等を栽培しており、兼業農家が大部分を占めている。


村づくりの動機

 桑田氏は、若い時から農業を営んできた。昭和30年代前半頃より農村婦人の地位向上が叫ばれ、昭和40年代になると農業離れにいっそう拍車がかかった。彼女は、これではいけない、何とかしなければと何日も悩んだ。とうとう思いついたのが八朔の栽培である。これが「オレンジ会」の発足であり、この会が後に「村の活性化」や「豊かで住みよい地域づくり」へと発展していくのである。


活動の実際

・オレンジ会について
 農業離れが急速に進行している中で、手間のかかる割に収益が少ない養蚕から八朔に切り替えたのが昭和38年であった。彼女は研修会等に毎回出向き、その努力・苦労のかいあって八朔の栽培の仕方を遂に修得した。研修会等に参加したのは、女性では桑田氏だけであった。昭和48年、八朔はとぶように売れたが、昭和55年、外国からの果物の輸入、イヨカンやネーブル等の進出により八朔の売れ行きが落ちた。
 農協や農業普及員らと相談すること何十回にも及び、その結果、昭和55年7月30日、夢にまでみた「和」の広がりを求める「オレンジ会」が発足した。メンバーは森山地区19集落から参加した八朔婦人40名であった。
 オレンジ会は何回も会合をもち、研究の末、良い品質の八朔が作れるようになった。しかし、グループの会員に中には貧血や農薬障害がめだってきたので、健康管理に重点をおき、毎月学習を重ねて保健所や町役場で検査を受け、自分たちの健康状態を常に知ろうと努めた。その後、防除衣を作成した。八朔栽培の重点作業に農薬防除は欠かせない。これをグループで考え、ナイロンタフタの生地を共同購入して作成した。この防除衣は知事賞を受けた。この防除衣により、頭痛、吐き気、めまい、皮膚のかぶれ等を最小限にくい止めることができた。
 オレンジ会の活動の発展は、何といっても会員の和のつながりである。会員は、市場視察や先進地視察を積極的に行い、研究を深めた結果、味のよい八朔が作れるようになった。麻マークの主産地として名に恥じないよう力を合わせ励んでいる。また、オレンジの自由化と米の輸入拡大により、農業生産者は常におびえているが、将来のあり方を考え、話し合いや協力を基礎にして八朔栽培に夢と希望を持ち、実践活動で課題解決を図っている。

・うるおいのある村づくりについて
 豊かな風土に恵まれた森藤を維持し、発展させるためには、地域住民が一丸となって村づくりを進める必要があると考えていた。幸運にも、昭和61年、国の事業として森藤地区の活性化があげられた。そこで、森藤の将来の夢を実現させるうれしさと希望に燃え、ビジョンづくりに参加した。
 農作業のかたわら、村づくりの気運を高めるための会合をもったり、必要な予算獲得の陳情など多忙な日々が続いた。しかし、村づくりを進めていく推進会議では、女性が村づくりの将来像について発言することは大変であった。「女がえらそうなことを言うな」とか、「でしゃばるな」というようなことを言われた。女性の意を聞いてもらうために何かよい方法はないかと考えた。そこで、みんなで手作り料理を作り、食事をとりながら話し合いに参加し、男性の意識改革に成功したことが思い出に残った。何度もくじけそうになりながらも、女性差別の悩みやつらさを各機関の先生方や仲間に打ち明けては気を取り直し、女性の代表として意見を述べてきた。
 現在では、森藤村づくりの活動の中には、先進地の視察研究、ふれあい大会や共同作業等様々な活動があり、多くの女性が参加し協力している。村づくりの活動の中で女性が自主的に果たす役割は大きな原動力となっている。封建性が残っている農村での女性の地位向上に、桑田氏は大いに貢献した。
 森藤村づくりの成功は、地域の連携、とくに和があったからこそできたのであると彼女は言う。町当局、行政が支援してくれたことも大きな収穫であった。
 桑田氏の森藤村づくりの成功のポイントは次のようである。(1)地域住民の自主的活動とボランティア精神が必要不可欠であること。そのためにも遊び心を持つこと、(2)若者が進んで農村に残ることができる場を確保する、(3)女性が行政に対して意見が言えるようなリーダーの育成が必要である。
 森藤村づくりの主な取り組みは次のとおりである。(1)世代間交流、(2)高齢者とのふれあい農園、(3)村の花オレンジカラーの花の苗作りの配布、(4)婦人部のカレーライス作り、(5)ふれあい場所づくり、(6)環境整備のための溝の清掃、(7)花だんづくり、(8)森藤神社の祭り、(9)やすらぎ広場、(10)子どもの健全育成、(11)楽しい農園づくり、(12)森山小唄の普及、(13)観光農業、(14)加工食品等、数えるときりがないが、この村づくりが成功したのは、「知恵・工夫・実践」の賜物である。
 今後も森藤村づくりの運営・推進は、婦人部だけではなく、自治会、老人会、若連子ども会、地域住民、行政の連携がなければできない。各々の組織がタテヨコの役割を十分に認識すると同時に、エネルギッシュな行動力によって自分たちのものとして活動の喜びを分かち合いたいと、桑田氏は言っている。

・食用廃油を利用した石けんづくり
 現在、世界的に問題になっているのが環境問題である。桑田氏はこの問題にもチャレンジした。森藤地域には下水処理施設がなく、川は家庭で使用される食用油で汚濁されていた。このことを会員のみんなで話し合った結果、廃油で石けんを作ってはどうかという意見が出た。これは一石二鳥である。さっそく大阪府田尻町の石けんづくりを視察し、県や町の補助により機械を導入してもらった。できあがった粉石けんは石けん臭さがほとんどなく、汚れ物がよく落ちると評判を得た。町の日曜市等で町民に無料で配布したり、会員が講師となって地区の婦人会等に石けんづくりの指導をしたり、環境美化運動にも力を入れている。


おわりに

 以上、桑田トシ江氏の「うるおいのある村づくり」の概略を述べてきたが、彼女の熱意、情熱、努力には実に心をうたれた。自分の住んでいる村を豊かで、心温かく、みんなで協力してみごとな実績をあげたことは非常に素晴らしい。後世に残る業績と言っても過言ではない。これまで実践してきたことがらについて、並大抵の苦労ではないことは十分筆者にも分かる。
 今後の課題として、桑田氏は次のことを実践しようと考えている。まず第1に、今まで石けんづくりに取り組んできたが、生活学校で環境問題についてさらにその解決を図る。現在、ダイオキシンの人体に与える害が問題化している。農家は農業用ビニールをそのまま野焼きしている。これをやめることを全県下に呼びかけていく。次に、農業以外の問題解決である。今後あの阪神大震災のような災害がいつ起こるか分からないので、行政主導型ではなく、住民が自主的に防災訓練を行う。
 おわりに、地域のリーダーである桑田トシ江氏の今後のさらなるご活躍、ご健康を祈念してここにひとまず筆を置く次第である。