「ふるさとづくり'97」掲載
<個人の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

二人三脚の人形劇・行脚
徳島県小松島市 宮本美恵子
子供たちに夢を育てる昔ばなし

「阿波には昔なぁ、狸がようけ(たくさん)住んどってなぁ、ほれで(それで)なぁ……
 今日は、その狸の話を人形劇にしたので見てくれるで。人形も衣装も、小道具も音楽も、みーんな素人の私たち夫婦の手づくりです。ほなぁ、始まり、始まり……」。
 公民館に集まった大勢の人前で、小松島市中田町に住む宮本美恵子さん(67歳)は、ぬくもりのある阿波弁で、これから始めようとする「人形劇」の前口上を行っている。舞台のソデでは、宮本さんを心配そうに見つめている一人の男性がいる。夫の茂彦さん(70歳)で、効果音楽を出すためカセットテープレコーダーの再生スイッチに指をおき、今か今かと美恵子さんのしゃべりに合わせて、スタートしようとしている。婦唱夫随の二人三脚による手作り人形劇の幕開けの一場面である。
 徳島県には、十郎兵衛(父)お弓(母)お鶴(娘)親子の情愛を演じる「傾城阿波鳴門」など、有名な演目のある「人形浄瑠璃」が受け継がれている。
 昭和30年頃までに生まれた徳島県民にとっては、幼少時に見聞きした「人形浄瑠璃」は、エネルギッシュな阿波おどりと共に、体の中にしみ込んでいる。また、1世帯に3世代の家族が住んでいた時代には、縁側で日なたぼっこをする時や一家だんらんのひとときに、祖父母から「阿波の昔ばなし」があり、子どもたちは笑ったり、驚いたり、泣いたりしながら頭のなかで場面を描きながら、耳を傾けたのである。
 近年、テレビゲームなどの普及で子供たちが毎日の生活の中で、阿波の昔ばなしを聞くこともなく、人形浄瑠璃は余程の機会がないと接することができなくなってきている。
 子供たちの夢を育てる昔ばなしなど、徳島の伝承文化を、もっとみんなに知らせられないものかと、美恵子さんは、子育てから開放されたこともあって、日々考えるようになっていた。茂彦さんが経営する阿波鏡台の製造と販売の仕事を手伝っている時も、自宅で食事の調理をしている時も同じである、昭和52年頃のことである。


阿波の民話を紙芝居に

 夫婦の生活を支えていた鏡台の製造・販売が不振になる風潮が日本列島に起きてきた。それは、鏡台の最大顧客である女性の結婚減少と、世の中の価値観の変化による鏡台離れであった。作っても売れない鏡台に困り果てた茂彦さんは、鏡台の製造販売を止め、仏壇製造に切り替えたのである。その結果、静岡県など他府県の家具店回りの必要がなくなり、ある面でゆとりの時間が生まれたのである。
 美恵子さんは、同世代の者が戦争で亡くなった痛みを体験しているだけに、1人の人間として何か社会に役立ちたいと思っていた矢先であり、好機到来とばかりにボランティア活動の第1歩を踏み出したのである。
 仏壇製造の仕事の合間を縫い、徳島市の婦人福祉ボランティアに入った美恵子さんの役割は、願ってもない大好きな紙芝居の製作であった。絵は子どもの時に描いたきりで、生活に追われ40年近く筆を持つことはなかったが、夢に見た阿波の民話の紙芝居の作画は、苦になるどころか、筆を持つ手は軽やかに動くようにさえ感じられたのである。
 絵を描きながら、阿波の民話の紙芝居に出てくる物語りに思いを馳せる時、美恵子さんは戦争の暗い時代の中、授業中に社会の先生が話してくれた、阿波の狸の昔ばなしが昨日のように思えてならなかった。


安らぎと生きる力を与えた民話化け狸

 今生きていても、戦争のためいつの間にか先に死んでいるかも知れない、また大空襲で体は怪我し、家は焼かれ、親兄弟や隣近所の人が死んでいるかも知れない、生きていても明日の食べ物がないかも知れない……かも知れないづくしの一とき一とき、いつも不安におののく少女であった美恵子さんの心は、大きな穴があいていた。
 徳島城跡近くで育った美恵子さんは、高等女学校5年生の時、戦争で働く人が少なくなった分を補うため1年早く卒業させられ働く憂き目にあっている。卒業と同時に徳島郵便局の電信係として勤めることになる。若者男子が兵隊として戦地へ行く命令の「赤紙」が、若者男子の自宅へ届いた時、本人は勤務地に住んでいるため、電信で早急に帰宅するようにと伝える。死出への旅の連絡業務は、幼さの残る少女美恵子さんには苦しく暗いものがあった。その時、心を慰めてくれたのが授業中に聞いた、阿波の民話・化け狸のお話しであった。この世にないうっとりと夢見る安らぎの時間であった。何もかも忘れ民話の世界の化ける狸が、明るさと生きる力を少女に与えてくれたのである。


夫婦で小さな人形を手づくり

 紙芝居の絵を描き続けているうちに、人形浄瑠璃の人形遣いや頭(かしら)、衣装にも興味が湧いてきたのである。丁度、徳島県教育委員会主催の「阿波人形芝居伝承教室」を受講することができた。またこの年、昭和56年末には、「徳島県婦人教育指導者研修」を修了、徳島市中央公民館主催の「1981年視聴覚教育講習会」にも参加修了している。
 恵美子さんは、「録音朗読奉仕員研修」や、「点訳奉仕員研修」に参加する時も車の運転が出来ないので、もっぱらバスか自転車で行動をしていた。
 ところが、住んでいる小松島市から約30キロある鳴門市で、人形頭の製作で有名な大江巳之助さんと直弟子による指導講座が開かれることを知ったのである。木工職人である夫の茂彦さんも興味を抱き、茂彦さんの運転する車に2人が乗り一緒に受講することになったのである。頭の彫り方や動きの具合いなど、一頭地(いっとうち)を抜く名人から懇切ていねいな指導を受けたことが、後の人形劇用の頭作りに大きく役立つことになるのである。
 ボランティアの紙芝居の作画は、1つの話に10枚から15枚位描いて仕上げていった。また描くだけでなく公演するようになった。自宅では個人用に紙芝居を作ったり、小さな人形を手作りするようになっていた。人づてに紙芝居や手作り人形のことが伝わるようになり、少しずつ個人で保育所や公民館へ行くようになってきた頃、夫の経営する木工所に落雷があり工場は全焼してしまった。昭和63年8月14日午前4時頃である。
 工場再建に東奔西走する茂彦さんに目処がついた時、茂彦さんは、自宅で金槌やノミを持ちいろいろな人形の頭をいくつも彫っていた。その人形の頭に古着を縫い着せ一人前の人形へと、美恵子さんは仕上げていったのである。思いもよらぬ落雷が、2人を人形作りへと導いてくれたのであった。
 宮本さん夫婦が、経験のない人形作りを手探りで日々行なった結果、今では100体以上になる。小さくて可愛い指人形をはじめ、体長20〜50センチの人形、阿波の木偶(でこ)式人形、目と口が動く腹話術用人形、人間が3人入って動かすオバケ人形、暗くした部屋の中で使うマホウ人形等、それぞれにアイディアが込められた作品である。木工職人だった茂彦さんの技術と美恵子さんの手作り衣装が1つになって生まれてくる人形は、阿波の民話の宝であると言っても過言ではない。


人形劇「みんみんクラブ」結成

 人形に息吹を与え、子どもたちに夢を与えながら活動する宮本さん夫婦に共鳴する仲間も1人2人と増えて、平成元年には10人で人形劇団「みんみんクラブ」を結成し活動を続けるようになった。そして、平成4年(1992年)6月に地元の小松島市に新しく生涯学習センター小松島市立図書館がオープンしてから、みんみんクラブの本格的な活動が始まったのである。
 それは、図書館から学校が休みとなる毎月第2土曜日、人形劇を上演して欲しいとの要請であった。しかも必ず徳島県の民話を題材にしたものを1つ、書き下ろしで入れて欲しいという条件であった。毎月定例で新しい出し物を上演するのは困難と思いながらも、図書館次長の熱意と誠意にかけたのである。それに応えるように図書館側は、広報紙をはじめ新聞やラジオ、テレビ局に積極的にPRを行なってくれたのである。


阿波民話の世界展

 図書館での上演が軌道に乗りかけた平成5年秋、茂彦さんは美恵子さんに「もうワシ定年にしよう」と言って仕事を止めたのである。
 美恵子さんは、渡りに舟と思い茂彦さんの車の助手席に乗り、老人ホームなどでの上演を増やすようにした。そして、上演を行った土地土地の老人たちに伝わっている民話を聞き取り、その土地ごとの昔話を色画用紙を用い書き綴り民話集としてまとめた。
 そして、平成7年4月に、阿波民話の世界を楽しんで欲しいと、これまで仕上げた徳島の昔話集105冊、民話の世界に登場する人形100体、芝居の大道具・小道具80点余り、紙芝居30点などを展示、自作のビデオも上映する「阿波民話の世界展」を徳島駅近くのヨンデンプラザギャラリーで開いた。
 さらに、民話を題材にしたものだけに止まらず、平和を願っての戦争体験や海亀の一生を綴った紙芝居なども作画し精力的に実演を行なっている。また、自分たちが井の中の蛙にならないようにと徳島県外で毎年行われる、大阪府の「箕面紙芝居大会」、長野県飯田市の「人形劇カーニバル」、香川県大内町の「レクリエーションと人形劇のカーニバル」にも出演し仲間と交流を深めながら、夫婦で研鑚を重ねている。