「ふるさとづくり'97」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

地域住民を巻き込んで商店街活性化
長崎県島原市 森岳まちづくりの会
サビレタ商店街に雲仙普賢岳噴火災害

 島原市の中央に位置する島原城は旧称を森岳城という。森岳城のすぐふもとには、私鉄の島原鉄道の島原駅があって、そこに広がる森岳商店街は昭和30年頃までは島原半島一の繁華街として栄華を極めたそうである。車社会へと変化していく時代の流れの中で、森岳商店街もまた全国によくあるサビレゆく駅前商店街の運命をたどり始めたのであった。
 「このままじゃいかん!何とかせねば!」と商店街の会長は、若手後継者を招集して一席を設け「青年部」を結成した。皆おおいに盛り上がり、危機感を持って「このままじゃいかん!何とかしよう!」と思った。とにかく、三日坊主にならぬよう、毎月3日には寄ろうということになった。平成3年5月のことだった。
 記念すべき第1回の青年部の会合は6月3日。忘れもしないあの大火砕流の大惨事に重なってしまい、それから悪夢のような日々が続いた。会合どころか、何人もの市民が逃げ出し、消費者は買い控え、ただでさえ景気の悪かった森岳商店街の各店にとって、厳しい試練が待っていた。今までの倍働いて、稼ぎは今までに追いつかない。直接の被災ではないから、援助はない。疲れた体にムチ打って降灰を取り除く、やっときれいにしたと思ったら又灰が降る。また水をまく。文字通り泥沼の日々、悪戦苦闘の毎日が続いた。


本物の危機感

 半年後、死線を乗り越えてきた森岳商店街青年部は、再び集結した。「このままじゃいかん!何とかせねば!」言葉は同じだが、その重みは十倍も百倍も違っている。それから私たちは、連日深夜まで議論を重ねた。金銭的にも時間的にも精神的にも、ゆとりは無かったが、かえってアルコール無しでもいきなりみんなで本音で話し合えた。危機感があったから、皆、個々でやらねばならないこと、一緒になってやらねばならぬことの区別が良くわかっていた。午後8時の会合時間に遅れて来る者がいても、誰も彼を攻めなかった。彼が晩御飯も食べずに仕事をかたずけて、駆けつけてきたことを知っていたからだ。
 当時私たちが描き出した構想は、『やがて噴火が収まれば、全国から観光客が溶岩ドームや火砕流のあとを一目見ようとどっと押しかけてくる島原城近辺にも観光客が来るだろう、その観光客を捕まえよう、歴史と文化の香りを漂わせ、観光客も受け入れられる商店街になろう!』というものだった。それからの私たちの活動は一気呵成であった。


先進地の視察研修

 毎月3日の夜の例会日を中心に議論を重ね、まず「視察に行こう」ということになった。観光といえば大分県の湯布院がすごいらしいと、森岳商店街青年部は、視察先に湯布院を選んだ。事前に、電話や手紙などで連絡を取り、3人の現地講師を手配して、旅のしおり(資料)を作成した。何を聞こうかとさんざん議論し、箇条書きの質問状を先方に郵送した。単なる物見遊山にしないぞという強い意志がそこに働いていた。そして3台の車に分乗し初めての視察旅行(1泊2日)に出発した。
 湯布院のまちづくりの先輩たちは私たちの熱意に応えて、たくさんの重要なことを教えてくれた。莫大な資本をかけるでもなく、何人かの地域を愛する人たちの情熱で、湯布院の街は動いていた。自分たちも頑張れば出来るかもしれないという手ごたえを感じて凱旋した。分厚い報告書も作った。
 必ず事前調査をし、先方で実際に頑張っている人に話を聞く、報告書を作る。このやり方で、その後も毎年視察を継続している。翌平成5年:熊本新町、平成6年:大分県日田市豆田町、平成7年:滋賀県彦根長浜、いずれも私たちの森岳地区の参考になる場所をと選んでいる。


森岳青空文化祭

 「子供たちに伝えたい昔あそび」をテーマに、小さなイベントを実施した。サビレゆく商店街の青年部が初めて世に問うた小さなイベントは、私たちの結束を強め、楽しくやって行けるという感触を与えてくれた大きな1歩となった。
 タケとんぼ作りに、子供たちの歓声が青空にこだまし、継続する噴火災害の降灰の合間の明るい話題として、地域の人たちに受け入れられた。


観光イラストマップが活動の資金源に

 私たちは、休むまもなく温めていた次ぎなる企画に乗り出した。観光おみやげ用イラストマップの製作と販売である。島原の歴史的文化遺産松平文庫に所蔵されている「寛政の島原大変図」に似せて、この度の雲仙岳災害を記録した「平成島原大変の図」。島原の観光名所をガイドするイラストマップ「うれっさたのっさ島原道中」の2種。
 この計画は観光客にも喜ばれ、活動資金も捻出できる一石二鳥のすぐれものだった。
 みんなで手分けして、調査をし、慣れない古文書を読み、仕上げは地元出身のプロのイラストレーターにお願いした。地元テレビ局も取材に来てくれて、30分の番組として放映された(ウイラブ九州)。このTV出演を契機に、私たちの森岳の劣等意識は逆に誇りに転化していったのである。この企画によって、私たちは地域の皆さんの支持と、地図の販売による幾ばくかの活動資金を手に入れることができたからである。


シニアアドバイザー派遣助成制度の活用

 商工会議所の経営指導員の方から、「熱心に勉強しているようだね、いい制度があるから使ってみれば……」と紹介があって、私たちはすぐに飛びついた。
 東京からいらっしゃったアドバイザーの方は、私たちの話をじっくり聞いて、島原の私たちの森岳地区に即してアドバイスをしていただいた。「地域の人たちを巻き込んで、活動をしなさい」というものだった。商店街という狭い範囲の発展にこだわっていた私たちは目からウロコが落ちた。
 2年目の視察地、熊本の新町は、まさに市民(一新まちづくりの会)と商店街が一体になって活動を進めていた。商店街の中に市民(お年寄り)が休憩できるバンコ(縁台)が並んでいるのである。商店街といえば、何かと消費に結びつく企画が多い中で心暖まるものであった。私たちはさっそく街なかにバンコを並べた。


阿波踊りがやってきた

 秋祭りに合わせて、本場徳島県阿南市から、踊り連の一行が島原を元気付けにやって来てくれた。無理にお願いして、青空文化祭の会場でも踊りを披露してもらうよう手配した。
 阿南の踊り連の一行は、早朝からいくつかの老人ホームなどを慰問して踊りを披露し、昼からの祭りパレードでも踊りまくり、さらに各商店街を訪問してくれた。私たちの会場に着いたころは、へとへとになっていらっしゃった。会場に持ち寄っていた例のバンコをかき集めてまず腰かけてもらって、用意した飲食物を提供した。(あとで聞いた話で、1日中立ちっぱなしで、特に女性は地べたに座り込むわけにもいかず、どこも歓迎して酒を振る舞ってくれたけど……森岳だけが座れる場所を提供してくれて本当に有難かったとのこと)一休みした一行は、夕暮れていく青空文化祭の会場で、この日1番の踊りを披露してくれた。私の胸に熱いものがこみ上げてきた。見ると仲間の頬にも光るものが流れていた。そのあと会場の全員が参加して総踊りになり、フィナーレとなった。


島原城に武者のぼりを上げよう!−「森岳まちづくりの会」誕生

 平成6年になっても雲仙普賢岳の噴火活動はおさまらず、私たちの地域の上流部にまで被害が及び、島原はいよいよ元気をなくしていた。しかし、もう私たちは前に進むしかなかった。「灰が降るからといって何もしなければ何も生まれない。とにかくやろう!」
 島原の元気印を全国にアピールしようと、島原城にコイのぼりを泳がせ、勇壮な武者のぼりを林立させよう!ということになった。既に商店街の枠を超えて、森岳地区を愛する何人かの市民が参加していた。役所に公有地(島原城)の使用許可を届けるに当たって、初めて「森岳まちづくりの会」の名前をつけた次第である。
 武者ノボリが島原城にマッチして、このイベントは大きな反響を呼び、噴火でくじけそうになっていた地域の人たちを勇気づけた。その後毎年回を重ね、今年3回目はさらにノボリの数が増え、参加者も会員以外のボランティア参加が多く一大市民イベントとして定着しつつある。


観光道案内運動と町並みウォッチング

 「気軽に道を尋ねてください」のステッカーを貼り出して、観光客に道案内を買ってでた。考えてみると自分たちの地域のことなのに、意外に知らないことが多い。そこで「島原ぶらりさる記」と称して街並みウォッチングを定期的に実施。自信と誇りを持って取り組むから、知れば知るほどますます島原のよさが再発見され、私たちの島原に対する愛着は並みのものではなくなっている。特に島原は[水]が素晴らしく、会を挙げて「水」の大切さを訴える様々な活動を展開している。


誇れるまちの誇れる仲間たち

 少ない紙面で、私たちの仲間の素晴らしさを伝え切れないことが残念である。1人ひとりが自分のできる範囲で、自分の特技を生かし、相当量の仕事をこなしている。家族の理解はもらっても、家庭サービスができないことを責められながら、苦笑いしながら笑顔でイベントや、会合に参加してくる。私は仲間たちからしばしば1人ではけして味わうことの出来ない感動を与えてもらう。こんな仲間たちを私は心底誇りに思っている。