「ふるさとづくり'97」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

フレンドリープラザができるまで
山形県川西町 グループ「山形こまつ座」(旧名:「先知らぬ」)
 昭和52年、川西町で「ひとりごと」と「つぶやき」というミニコミ紙を作っていたグループが合体して「先知らぬこの道を」というミニコミ紙が生まれました。グループ「先知らぬ」の誕生です。
 メンバー12人で2カ月に1回、20ページ程度の紙面で発行。書き手が、500円を支払って書きたいことを書くという編集方針を取りながら、一方で、紙面を通してのふれあいを大切にしながら、地域文化の起爆剤になりたいと考えていました。そのため、紙面作りばかりではなく、イベントにも力を入れました。


ふるさとPRなどの活動

(1)おしょうしなマッチ
「ありがとう」という意味の置賜地方の古くから伝わる言葉「おしょうしな」を全国に広めようと、「おしょうしな」という言葉を紹介した「おしょうしなマッチ」を作り、ふるさとPRの場をとらえて配布、言葉自体がお礼の意味であることから、気楽なお礼の品として地元でも広く利用されました。
(2)歴史街道を歩こう
 地元に残る歴史街道、例えば幕末の会津戦争の時、会津藩が米沢藩に応援を請う使者が歩いたであろう会津〜米沢街道の100キロを歩いてみました。
(3)キャンプ
 地元キャンプ場は閑古鳥が泣いています。そこで率先して使用し、地元のキャンプ場の良さをPRしました。
(4)井上ひさし氏をふるさとへ
 作家井上ひさし氏は地元川西町の出身。メンバーの1人がある時、井上氏の「下駄の上の卵」を読んでひらめきました。「井上さんを呼ぼう」。小説の舞台は、小松町(現川西町)で、身近にある建物、駅名などが登場して、親近感を持たせてくれる作品でした。
 そんな作品を読み合いました。その結果、グループのキャンペーン企画として扱おうということになりました。井上さんの講演会を実現するための署名を集めたり、井上ひさしゼミを開いたり、そして井上氏にあててレポート用紙10枚の手紙を書きました。投函するまでに何度も書き直し、1年。
 「果たして来てもらえるだろうか?」「講演料は高くないか?」。しかし、7日後に到着した返事で心配事は解決しました。「講演は無料で引き受けます」とあったのです。


井上ひさし講演会の開催

 講演会の開催までに、井上さんから期日変更の申し入れがあったり、大あわてで準備をやり直したこともありましたが、講演会が縁となって、グループ「先知らぬ」と井上氏との交流が始まりました。
 そのうち、井上さん囲んで山形名物の芋煮会をやろうということになりました。当日、米沢の栗園のある河川敷で、グループ「先知らぬ」の呼びかけで集まった地元青年たちとの交流会が開かれました。もちろん手作りの歓迎会になりました。


「こまつ座」旗揚げへ地元から支援

 ふるさとでの講演と芋煮会がきっかけで、井上ひさし氏の望郷の念が強くなったのかもしれません。そのことが引き金として、生まれふるさとの名前をとって劇団「こまつ座」が昭和58年1月1日に誕生しました。こまつ座は、井上ひさし氏の戯曲を公演する劇団として誕生したのですが、私たちのグループもすぐに反応。「こまつ座応援会」を作り、1月15日に結成。昭和59年4月、『頭痛肩こり樋口一葉』という芝居で旗揚げ公演が始まりました。その時メンバーの1人が、井上ひさし宅へ住み込み、こまつ座誕生までの手伝いをしました。彼が東京とふるさとのつなぎ役になりました。
 新宿紀伊國屋ホールで、メンバーは芝居を見ました。井上戯曲は、笑って笑って、そしてホロッとする芝居です。この井上ひさし芝居の感動を、ふるさと置賜の人たちに伝えたい、と思いました。こまつ座の芝居を置賜で公演したいと思い始めました。
 置賜は劇場不毛の地。そこで興行師の真似事のような事をやり始めたのです。恐さ知らずという所もあったのでしょうが、「こまつ座の芝居を観てもらいたい」という気持ちがまさりました。そして、ふるさと置賜での公演活動の発火点になればという夢もありました。
 「先知らぬ」はその時から「山形こまつ座」(代表・阿部孝夫さん)の看板に模様替え、雑多な情報のミニコミ紙『先知らぬ』は、こまつ座の宣伝紙に衣替えしました。
 ふるさと置賜での初めての公演の当日、会場の米沢市民文化会館は、開場30分前から長蛇の列ができました。芝居は観客に大きな感動を与えました。「いい芝居、おしょうしな」とある中年の女性はそう言いました。
 「おもしろかった」「感動した」「涙がとまらなかった」「続けて欲しい」。感想のはがきには感動の言葉がつづられ、これを読んでいくと、1回限りでなく、コツコツと演劇を提供したい思うようになりました。井上ひさし氏のふるさとだからということで、こまつ座は毎年1〜3回の公演の予定を組んでくれました。
 これまでの公演20回。こまつ座の芝居を見た人は47,000人になります。決して劇場不毛の地ではなかったことを事実が証明しました。活動をここまで続けられたのは、あの時の女性の「おしょうしな」という言葉に支えられたからです。
 井上氏の遅筆が公演に影響する事もありました。初日が幕があがらず、公演中止ということもありました。しかし、そんな苦労も氏の作品を地元の人たちに見てもらいたいという気持ちには勝てませんでした。


地元に本格的な劇場を

 何度も公演をしていく上で、指定席の配置・配券をどうすればいいのだろうという疑問が出てきました。「年寄りなので前で観たい」という申し込みが来ます。早く申し込んだ順ばかりでは解決できないことです。また、会場によっては、中間の席に音声が届かない欠陥をもっていたり、会場使用時間が午後10時前までと利用者に厳しい所もあります。利用者にやさしい、そして見やすい劇場、専門の劇場が欲しいと切実に思うようになりました。


遅筆堂文庫ができる

 井上ひさし氏宅には本が溢れていました。捨てられる本がもったいなく、井上氏に、それらの本を利用して自分たちに小さな図書館を作らせて欲しいと申し出ました。溢れている本だけでよかったのですが、それがきっかけで、井上氏の膨大な蔵書がふるさとへ贈られることになりました。11トン車5台分の本が運ばれ、ふるさとの人たちに読んでほしいという井上氏の願いが込められた遅筆堂文庫が、昭和62年に川西町に誕生しました。
 行政のバックアップも得ることができ、町と山形こまつ座の二人三脚で、遅筆堂文庫が運営されることになりました。遅筆堂文庫はまた文化活動の拠点となり、本のある広場として使われることになりました。
 「広場があれば人が集まるし、困った時は本が解決の糸口になります。残念ながら農村には、この広場がありませんでした」。井上氏の言葉です。私たちのふるさとに「広場」ができました。


遅筆堂文庫・生活者大学校始まる

 遅筆堂文庫では、毎年1回生活者大学校を開催しています。地元はもちろん全国各地から受講者が集まります。この講座を裏から支えるのが、山形こまつ座のメンバーです。もちろん劇場公演と同様、すべてボランティアです。
 受講者がいつのまにかメンバーになっていたり、「山形こまつ座」は「先知らぬ」の12人から増え続け、35人の大所帯になりました。農業、公務員、会社員、教師、保母、営業マンとあらゆる職種のメンバーが集まっています。年齢も、いつのまにか43歳を頭に20歳代前半まで、まさに親子の年齢差になりました。
 生活者の視点で物事を考えることを目的に始めた生活者大学校ですが、全国的なネットワークもできて、地元の住むメンバーたちも全国的視野に立てるようになりました。自分たちの住む所にあるおいしい水、ご飯、食物、空気。生活者大学校を始めて、あらためてそのことに気が付きました。地元の受講者、メンバーに自信が出始めました。


川西町フレンドリープラザ誕生

 平成6年夏、本のある広場と、こまつ座の公演活動に着目した川西町の積極的な働きかけで、劇場と図書館のある建物「川西町フレンドリープラザ」が建ちました。劇場は、座席数700の本格的な劇場専門ホールです。
 今までは「舞台に釘を打つな」という演劇に理解のない会場側の言葉に、何度ももどかしい思いもしましたが、この劇場の勲章は舞台に刻まれた釘跡です。そして、遅筆堂文庫には、井上氏蔵書10万冊の本が並びました。私たちが理想とした劇場、図書館の誕生。グループが活動を開始して20年。こまつ座の演劇を呼んでから10年目のことでした。
 人口わずか2万人の町にできたこの劇場は、こまつ座の演劇を見続けてくれたお客様のパワーが生み出したものです。そして、そのパワーを見極めた川西町の手腕のおかげでした。
 井上ひさし氏との出会いが演劇との出会いになり、地域住民を巻き込んで劇場が誕生。その劇場では、こまつ座ばかりではなく、いろいろな芝居、歌、映画が公演、上演されています。