「ふるさとづくり'96」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり賞 内閣官房長官賞 |
地場産業を生かした国際交流 |
愛知県常滑市 とこなめ国際やきものホームステイ実行委員会 |
「そんなことが本当にやれるか」「経験もないのに無理だワ」 小さな石油ストーブを囲んで、堂々めぐりの話し合いが数時間も続けられた。 ことの発端は、青年会議所が公開例会で発表した提案のひとつに始まる。その提案の中に常滑の代表的な地場産業である焼き物を生かして国際交流をやってみよう、という計画があった。焼き物に関心を持つ外国人を常滑に招き、1ヵ月間のホームステイを通して異文化交流をするという内容であった。 公開例会の席でも注目を集めた提案となり、一般参加者からも次々と質間が投げかけられた。しかし、練り上げられた提案ではなかったために、面白そうだけど現実味に欠けるという評価になった。 それから1ヵ月程経ったとき、青年会議所のメンバーからの呼びかけで、11人が集められ冒頭の会議となったのである。 提出された基本計画案によると、実施時期は来年の夏休み、会場は市内の小学校、参加者は全員市民の家にホームステイさせる、参加費は8万円程度といった内容であった。 常滑の名前を世界に売り出す 「とにかく、やるだけやってみよう」「常滑の名前を世界に広めよう」「国際交流をやろう」。熱心な推進派に押しきられた形で、とこなめ国際やきものホームステイ準備会がとりあえず発足した。 資金については11人が1万円ずつ出し合い、メンバーの1人が結婚資金として貯えていた貯金を流用し、予算を組んだ。1984年の晩秋であった。 まず、英語のできるスタッフが欲しい。クリスマス前には海外へ募集案内を送りたい。そこで、中学・高校の英語教師を半ば無理矢理に引っ張り込み、募集要項が作られた。 つぎは、どこへ発送するかである。英語圏の美術系大学と海外の陶芸家の組織を県立図書館でリストアップした。 実行委員会が組織され、発送作業も終わった頃、「本当に外人さんが来てくれるの?」という誠に素朴な疑問が出てきた。準備に夢中になり、参加者が得られるかどうかなど頭の中になかった。不意に皆の間に不安が広がった。これだけ大騒ぎして、1人も参加者がなかったらどうしよう。実行委員会は何のために頑張ってきたのか、不安はつのるばかりであった。 アメリカ女性参加申し込み第1号 1985年4月上旬、1通の手紙がアメリカから届いた。待ちに待った参加申し込み第1号であった。アメリカ女性で美術の教師をしている陶芸家、しかも写真を見る限りなかなかの美人である。実行委員会も急に元気を取り戻した。「1人でも来てくれる人がいたら、その人のためにやるぞ」という意気ごみで準備が進められた。 結果的には、アメリカ、イギリス、オーストラリア、ジンバブエの4ヵ国から8人の参加者を得ることができた。 第1回のワークショップ 十分な準備もできないまま、第1回のワークショップが始まった。外国からの参加者たちは、日本の焼き物に対して我々が考えていた以上の思い人れや憧れがあった。土、釉薬、焼成方法など専門的な内容の質問に加え、我々が準備していた作業場や道具では自分の仕事はできないと言い出す者まで出てきた。 実行委員会としては、外国人のための陶芸教室ぐらいにしか考えていなかったのではないか。しかし、実際参加してきたのは1人の初心者を除いては、相当のキャリアと自信を持った陶芸家であった。 常滑の焼き物は、900年以上の歴史と伝統があり、知識も技術も人材もそろっている。ただ無かったのは、国際交流の経験と綿密な計画であった。何がやりたいか、何を見たいかどんな事を学びたいかなど、参加者の意見を聞いた。そして実行委員会は、できるだけその要望に応えるべく、早朝から深夜まで走り回る結果となった。市内の陶芸家を始めとして、窯業関係者、各種団体の方たちの全面的な協力で、少しずつワークショップらしい形ができあがっていった。 カルチャーショックから交流へ 突然に外国人たちが町の中を自転車で走り回り始めた。いなか町のことだから当然のごとく話題にのぼり、マスコミは連日のように取材に訪れた。子どもたちは珍しそうに指を差し「ガイジン、ガイジン」とはやしたてた。喫茶店のウェイトレスは外国人の客から目をそらし、カウンターの陰に隠れていた。外国人とつき合う者は、ごく限られた一部の人たちという意識が強かった。実行委員ですら、できるだけ目を合わせないように忙しそうな振る舞いをしている者が多かった。 しかし、2年、3年と経つうちに変化が表れ始めた。まず、子どもたちが大きく変わって、道や校庭で外国人とすれ違った時、笑顔で自然にあいさつを交わすようになった。作品製作会場を訪れ、身振り手振りで熱心に会話をしているし、もう「ガイジン、ガイジン」とはやしたてる光景は見なくて済むようになった。 タバコ屋のおばあちやんは、毎日立ち寄ってくれる外国人と世間話ができるようになったし、焼き鳥屋のおじさんは、知人の協力を得て英語バージョンのメニューを作り大好評を得た。スーパーのレジでも、銀行の窓口でも、喫茶店でも、もうおどおどした態度をすることは無くなった。 少しづつではあったが、自分たちの周囲が変わり、活動の輪が広がって、自然に外国人とつき合うようになってきた。陶芸家、ホストファミリー、実行委員から地域の中へ水が浸み渡るように交流が広がっていった。40日間程の滞在期間中に、参加者たちはどれほど多くの人たちとふれあっているだろうか。 厳しい真夏の気候の中で、作陶活動のかたわら疲れも見せず精力的に動き回り、いろんなものを吸収しようとする参加者たちには、目的がある。日本の陶芸を見、日本の生活文化を知ろうという旺盛な向学心がある。その結果が、想像以上の交流の広がりとなった。そして外国人の作陶活動への真剣な取り組み、考え方、まじめで質素な生活態度に触れた時、我々実行委員会も含めて、何人の人々が自己反省させられたことだろうか。 夏の終わり、常滑駅で大きな荷物を抱えて帰国しようとする参加者に、人目もはばからず抱きつき、涙を流しながら再会を約束し合っている姿は、短い期間だが中身の濃い、深い交流ができたことを物語っていると思う。 交流のカギは地域文化の認識 もうひとつ、国際交流にとって大切なものがあった。それは、自分たちの住む地域の文化を十分に認識し理解しておかなければならないということである。外国人から見た我々の暮らしぶりや歴史、伝統、習慣などは全てといっていい程、興味深いものに映っているのであろう。常に、日本の文化に対して学び取り、体験したいという意欲でいっぱいである。その表れとして、見るもの聞くもの次々に質問してくる、その質問に的確に答えるためには、自分たちの身の回りのことだけでも相当に勉強しておかなければならない。 アイルランドから来ていた若い女性に「どうして日本は伝統を重んじないのか」といわれたことがあった。周囲の同世代の日本人に能について詰をしたが、全く話が通じなかったというのである、日本ヘ行けば、自分が最も興味を持っている日本の古典芸能について日常的に接する事ができ、話を聞くことができると思っていたらしい。彼女に言わせれば、古典芸能だけに限らず、伝統行事や習慣などの質問にも満足な回答は得られなかったというのである。これは、彼女だけの感想ではないと思われる。さまざまな場面で質問責めに合っている光景を目にし、はたして、外国人の質問に対して我々はきちんと答えているのだろうか。 異文化交流の面白さは、違う文化であることを認識した上で、理解していこうとするところにあると思う。互いに理解するためには、「なぜ?」「どうして?」という疑問に正しく分かりやすく答えなければならない。胸を張って堂々と、誇りを持って交流するためには、少なくとも自分の住む地域に関しての知識だけでも、しっかりと身につけておきたいと思っている。 交流のネットワークづくり 1994年夏、10回目の「とこなめ国際やきものホームステイ」が開かれた。アメリカ、イギリス、フィンランド、イスラエル、マレーシアなど10ヵ国から16人が参加した。多少のトラブルはあったものの、無事に5週間のスケジュールを終了、実行委員も手慣れた感じで事業内客をこなしていった。 この10年間で多くのものを体験しながら学んできた。国際交流はどんなものか、市民のネットワークがいかに大事か、ひとつの目標に向かって協力し合うことの素晴らしさや、やり終えた後の充実感や一体感など。 反面、マンネリ化に伴うもの足りなさも出てきている。地道な活動であることは理解しているものの、立ち上がり当時の震えるような緊張感や新鮮味が無くなったことが何となく淋しい。外国人の参加者は毎年変わっていくのだからそれでいいと言う考えもあるが、迎え入れる側にとっては、新しい出会いだけでは満足できないものがある。自分たちの活動が高い評価を得、確実に輪が広がっている実感もある。しかし、何かもの足りない。 そんな時、10年目を迎えたのを機会に、過去の参加者を中心にネットワークを張りめぐらそうという案が出されてきた。10年間で22ヵ国156人の参加者を得ることができた。世界中に広がった参加者をキイステーションにして、人、モノ、情報の交流をさらに推進していく、強力なネットワークを作れないものかという案である。現在、実行委員会では特別検討チームが設けられ、具体的な内容の研究が進められている。 国際交流という意味も十分にわからず、ただ精一杯汗を流して取り組んだ活動であった。それを、ボランティアだと言ってくれた人がいた。しかし、それは少し違うような気がする。ただ自分たちの住む地域を、もっと生き生きとした清気あふれるまちにしたい。世界中の人々に自分たちのまちを知って欲しい、と言う思いからスタートした活動である。つまり、誰のためにやっていることでもなく、自分たちのためにやっていることである。多くの人と知り合い、世界中に友達が増えていくことも、自分たちの財産である。これからもきっと自然体で常滑らしい国際交流を続けていくことになると思う。 1995年初夏、第11回に向けての取り組みが山場を迎えている。今年はどんな人たちと出会い、どんな話ができるだろうか。 |