「ふるさとづくり'95」掲載
<個人の部>ふるさとづくり賞 内閣官房長官賞

題材を地域生活に求め、自ら脚本を書き演出
徳島県鷲敷町 栗本茂男
 お宮の石段を上り「御神燈」「五穀豊穣」の吊り灯龍をくぐると、ぱっと目の前が明るく開ける。正面には「八幡神社奉納芸納大会」の横看板がライトアップされ、墓前の木立に囲まれた境内には老若男女がびっしりとつめかけ、墓が開くのを今や遅しと待ち構えている。周りには、おでん、たこ焼き、いか焼きのにわか屋台が並び、にぎやかにお客に対している。
 私を見つけた栗本さんが「まあ、よう来てくれた。まあおでんでも食べて。おすしがいいで?」と手を引いて席へ案内してくれる。私のように、この小仁宇地区からも今夜の宵宮を楽しみに訪れている人は多い。親戚、友人なども一緒になり、酒も入った境内は笑い声がいっぱい。夕刻より始まったカラオケ大会に引き続き、まもなく今夜のメイン「長通り座」による人情芝居が開幕されようとしているのである。
 栗本さんの夫、茂男さんは、この長通り座の座長、といっても座長も座員も、無論素人、この小仁宇の隣近所の有志で構成された劇団だ。回を重ねて8回目。すっかり定着した秋祭りの一大お楽しみ興行なのである。「やっと今年もこぎつけた。うまくいくかしらん。みんなに楽しんでもらえるだろうか」と、きっと楽屋裏では座長はじめ面々が胸を高ならせていることだろう。
 カチカチカチ……。拍子木が鳴り始めた。いよいよだ。暮が上がる。


青年団活動と演劇

 栗本さんは昭和17年生まれの52歳、小仁宇に生まれ、ずっとここで暮らしてきた。戦後の楽しみの少なかった農家の暮らしの中で、祖父母に連れていってもらった芝居は何よりの思い出である。いくつかの名場面は、心の原風景として今も心に生き続ける。
 成長して青年団活動に参加するようになると、青年団演劇に積極的に関わった。町の青年30人くらいが集まり、熱心に練習が続けられた。公演1カ月くらい前からはほとんど毎日のように練習、貧しいながらも活気に満ち、みんなの心が1つにまとまっていく醍醐味が青年たちをとりこにした。演じるばかりでなく脚本も手がけるようになり、やがて一手に引き受けるようになって、若い情熱を次々と文字にしていった。
 米の減反問題、高校生スモン病、白ろう病など、当時の社会問題に題材を求め、人間としてのあるべき生き方を問うテーマが多かった。その真実の叫びが評価を得て、郡の代表として県の舞台に立つこと数え切れず、県代表として全国大会の檜舞台にも5度立った。特に、山林労働者の職業病白ろう病を扱った「木馬道」は、全国大会で、脚本賞、舞台美術賞、そして優秀賞を授与されたほどの出来栄えだった。
「手弁当で仕事を休んでの参加だったが、演劇を通じての連帯感が、我々若者層に夢を与え、生き方を支えていたと思う。仕事の悩み、家庭のあり方など、あの集まりと活動の中でどれだけ多くを教えられたか一口にはとても語れない。郷土での暮らしの根っことしての人間関係が、あの活動から生まれたと思う」と栗本さんは当時を現在につないで語る。


PTA活動と演劇

 子どもが保育園に通うようになると、父母の会会長として園児の健全な育成のためさまざまな行事に協力をし、保育活動を支えていった。こうした教育への協力の姿勢は、4人の子どもの成長に伴いずっと貰かれ、父母の会会長9年、小学校PTA全長2年、中学校2年、高校3年と、実に16年の長きにわたって親としての支援活動を続けてきている。
 その間保育園では、人形劇の脚本・演出に力を入れ、交通安全のための劇や、優しい心育成のための劇づくりにその手腕をふるい続けた。子どもの心育ては親の心育てにつながり、劇の練習を通して親どうしが手をつなぎ、地域の横のまとまりが知らず知らずのうちに強いものとなっていったのである。
 これからの長い学校生活の出発に当たる保育園時代に、親としての連帯感が強められていったことは、鷲敷町の教育環境の基礎をなす大きな要素だったと言える。
 中学校では、「河童」と題した劇の脚本・演出を手がけ、那賀川の清流を守ろうと訴えるとともに、環境保護への問題提起を行った。那賀川はカヌーの一流コースをもつ美しい川であるが、近年その支流は、ハウス用ビニールや空き缶等の投棄のため汚れが進みつつあった。
主人公の河童が「川を美しく」と切々と訴えるこの劇の上演をきっかけに、地域懇談公等で川の清掃の相談が持ち上がり、一気に盛り上がった。親子による夏休みの川清掃はその後ずっと続けられるようになり、地域住民の意識もずいぶん高まった。この劇は、那賀川流域の他町村でも何度も上演された。1本の劇に込めた思いが、子どもたちに美しい川を残そうとの運動を起こしたのである。


秋祭りの村芝居

 子どもの卒業、就職に関わるようになって、子等に誇りうるふる里を残してやりたいとの思いはますます強まっていった。専業農家が減り、ほとんどが共働きで外へ出るようになって、合理的、近代的な暮らしに変わってきた中で、昔ながらの心の豊かさ、隣近所との温かいつながりが薄れてきたように感じられる。特に、ここ小仁宇地区には大きな工場も建ち、景観の上でも生活の経済的基盤に関しても変貌が著しかった。「昔はよかった。自然にあふれ、人情があつく……」といった懐古趣味で子等に幸せを与えることはできない。清潔でスマートに暮らしているつもりでも、このままでは住民どうしの心の隙間が深まっていくばかりだ。こう考えた栗本さんは、秋祭りの活性化を提案する。
 人が集まってくる祭りをしよう。昔のようなにぎやかな祭りを復活させ、子どもからお年寄りまでが楽しめる時間を作り出そうじやないか。そして、若者が希望をもって生活していける、もっと生き生きと動け、生きていることが実感できるような地域づくりを進めようじゃないか。栗本さんは熱意を込めて説いた。こうした提案に応え、祭りの出し物に芝居をすることが決まった。
 劇づくりは人づくり。人と人の心をつなぐために演劇がどんなに有効であるかを知っている栗本さんは、みんなの思いを必ず熱いものに膨らませ、地域活性化のマグマに成長させるんだとひそかに決意したと述懐している。
 さっそく脚本づくりにかかる。青年団のころとは目的もテーマも違い、戸惑うことも多かったが、なんとかこの小仁宇を生き生きさせたい、その思いで書き続けた。夏は農作業の最も多忙なとき、書くのは夜しかない。仕事の疲れもある。しかし、みんなの喜ぶ顔を想像すると眠気も飛んだと言う。昼間フキの出荷作業をしていても、いいアイデアが浮かぶとすぐさま書きつける。ぶつぶつ何やらつぶやいていると思ったら芝居のせりふだったと奥さんがその頃を明かしてくれる。
 こうしてやっと脚本は仕上がり、何とか役者も集まり、田舎芝居「長通り座」が発足した。小仁宇地区は、上小仁宇と下小仁宇に分かれているが、その2つの部落をつないでいるのが「長通り」という道路というわけで、この座は命名された。慣れないせいか、みんなせりふを覚えるのに一苦労。初めはにこにこしている栗本座長も、だんだん祭りの日が近づくにつれ真剣そのものになり、ときには怒声も飛び出す。互いのきずなが大くなっていく過程だ。
 舞台背景には、昔使われていた大道具、小道具を修理して使ったが、肝心の舞台が狭い。座員の大工さんを中心についに手づくりで舞台を新築してしまった。これもみんなのこの芝居にかける熱意の現れだ。
 いよいよ秋祭りの夜。汗と涙の熱演に大きな拍手が鳴り続ける。地元の店の名をアドリブで入れたり、方言まる出しで応じたりで、客席は笑いが絶えない。声がよく通るようにと、町にかけ合って10個のワイヤレスマイクのセットを購入してもらったのだが、これも首尾よく最高の出来。大成功裡に終わった第一回の祭り。「来年も頼むでよ」の声に励まされ、以後毎年公演は続き、今年で9回目を迎える。
 これまで演じた芝居は、「一本刀土俵入り」「溜に映る月、伊那賀の勘太郎」「義民宗五郎」「お役者小憎七変化」「木曽節三度笠」等、人情の機微に触れる内容ばかりである。他町村からの出演依頼もあり、経験を踏むごとに座員はもとより小仁宇地区ががっちりまとまっていくようだ。舞台衣装等のため資金繰りは苦しいが、子役など後継者の育成も順調で、何とか困難を乗り越えがんばっていこうとしている。


心のきすなづくり

「都会にないものを地域の人たちと皆で作っていくしか地域の活性化はできないと思う。心の豊かさを求め、子どもから大人まで皆で参加する手づくりの素人芝居をこれからもますます発展させていきたいと思う」
 栗本さんの芝居にかける思いはますます熟い。長通り座は今や小仁宇地区みんなの心のふるさととなった。行き交う人々のなにげないあいさつの中に流れる温かさに、年に1度の祭りにかけてきた思いが豊かに花開いているのを感じる。そればかりか、小仁宇地区以外でも栗本さんの脚本で芝居を取り入れる地域が現れ、温かいふるさとづくりがあちこちで確かな胎動を始めている。
 今年も暑い夏がやってきた。フキ、葉たばこの出荷が一段落ついたら脚本づくりだ。秋風と共に長通り座に再び熟い季節が巡る。芝居づくりは人づくり。温かい町づくりを演出する脚本づくりが栗本さんを待っている。