「ふるさとづくり'95」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

カラクリ水車が30数基
富山県城端町 城端水車の会
 例のごとく熟年仲間4人が地区内にある居酒屋で酒を酌み交わしていた…が、いつもと雰囲気が違い真剣に、というより、端から見ればいい年をして何をくだらんことを、という感じであったかも知れないが、口角泡をとばした議論が白熱していた。
 「なにかやらんまいか」。この場合の「なにか」とは有意義なことを、という意味である。「そんなら昔あった水車を復活したらどうか、いまさら脱穀でもあるまいしカラクリ水車をやらんまいか…」。
 当理休地区は、城端市街地に隣接する田園地帯である。昭和初期まで脱穀等の動力源として数多くの水車が回っていた。4人はその頃少年期であった。当時の農村風景はしっかり胸に焼きついている。地区の地形は南から北へ約1・5キロにわたりゆるやかな傾斜地となっており、用水の流れは当時から絶えたことがない。この自然条件を生かし、お年寄りには昔懐かしい風景を、子どもたちには自然の力を利用した遊びを提供しようというもっともらしい理屈をつけたが、実は当人たち自身の、ほんの遊び心から始まったのである。時に平成3年3月、城端町のシンボル「袴腰山」は、まだ、白雪に覆われていた。


回る水車に涙した

 いいことは即実行。口より先に体が動く。これが4人に共通した美点である。直ちに実行委員会が結成された。役割分担は自ずと決まり、代表というか総括というかこれは私にお鉢が回った。技術担当は中嶋庄信さん、広報担当は川嶋茂さん、その他諸々担当は中嶋実さんという布陣でその第一歩がスタートしたのである。
 第1号は意外と早く、同年5月初旬、地区内の八幡宮の横を流れる用水に、下掛け水車を設置した。因みに下掛けとは水の流れを利用したものをいい、上掛けとは上から水を落とし、胸掛けとは中ほどから水を落として回す方式をいう。アルミ建材業を営む中嶋庄信さんが廃材を使って製作、直径約1・2メートル、自転車の発電機を取り付け、これも手作りの灯龍を灯す凝った作りとなった。夜になるのを待って始動式を行った。神社境内の灯龍がボーッと明るくなった時、4人から思わず拍手が出た。不覚にもなぜか私は涙がにじんだ。夜であったからだれにも気付かれなかったのが幸いであった。川嶋茂さんは長年交通指導員をつとめていることもあって、下掛けの「交通安全水車」を作った。水車の回転とともに身の丈2メートルの仁王様が、交通安全ののぼりを振るという仕掛けである。中嶋実さんは大枚を叩いて、飛騨白川郷で回っていた直径2メートルの木製水車を購入して来て設置した。水しぶきを上げて回る水車は迫力満点である。私はといえばなんとか富山県の二大民謡祭りの一つ「麦屋祭」を再現できないかと苦心していた。狩衣姿で「こきりこ」を舞い「麦屋節」の笠踊りを水車で表現しようというのである。そんな時、鉄工業を営む梶博さん、看板業を営む深田正雄さん、大工さんの干場斉一さんら、強力な助っ人が会員として参加してくれ、皆さんの汗と知恵の結晶が、同年9月の麦屋祭本番に先がけ夏も盛りの7月下旬、「麦屋祭水車」として、華麗に登場したのである。「ささら」を響かせる仕掛けもなんとかクリアーし、さわやかな音が響いたとき、またまた、不覚にも涙を流してしまった。
 その頃は、もうどうにもとまらないというほどの盛り上がりを見せていた。メンバーもいつしか15人となっていた。それぞれが工夫をこらし、カラクリも首を振り大きな口を開けて舞う「獅子舞水車」、水の流れだけで動きほとんど狂わない
 「時計水車」が、中嶋徹夫さんらのアイデアで出現し、水車も12基になっていた。町の中でも評判が評判を呼び、小学生が学習に訪れるほどになった。


堂々「城端水車の里」オープン

 明けて平成4年、月1回の定例会は「会則会長なし、国籍年齢性別を問わず、参加は自由」とあって、地区外からの加入もあり、会員は25人を数え春4月となった頃、城端曳山祭を再現する「曳山水車」、県警マスコット「立山クン」、婦警の「さわやかさん」が主役の「交通安全水車」など22基に増えていた。そして水車のあるところ町の花である「水芭蕉」を植栽した。
 かくなったうえは、「やるしかない」と、華々しくというか大胆というか、同月19日その名も「城端水車の里」として堂々の名乗りを上げたのである。花火が打ち上げられ、くす玉が割られ、町長代理をはじめとする来賓多数を招いてのテープカットなど、セレモニーも華やかにオープンを祝った。「水車ウオッチングロード」と名付けた町道は、終日多くのお客様のそぞろ歩きで賑わった。


JETで強烈アピール

 そうこうするうち、新聞、テレビが「手づくりふるさと」として水車の里を大々的に報道し、観光のお客様の姿が目立ってきた。そうなれば張合いも出て、なおさら水車作りに拍車がかかってきた。
 川田義弘さんが直径2メートルの水車を設置すれば、神口勲さんは「城端ふれあい水車」と名付けた直径3メートルの水車を設置。牧弘麿さんは、豪華な衣装を着け、ラッパを吹き逆立ちをする人形2体を、彫刻家中嶋外志雄さんの協力で完成、文化財的カラクリ水車の登場となった。また、井波町の荒木光雄さんから、昔の「螺旋水車」が送られてきたりして、水車の里はますます充実してきた。
 そして、同年7月10日「第1回ジャパンエキスポ富山’92」が、小杉町太閤山ランドで開幕し、わが水車の里も8月28日、「城端町の日」に水車10基を搬入、会場内の「せせらぎの道」に設置し、カラクリパフォーマンスを繰り広げ強烈にアピールした。県発行の公式記録にもしっかりと登載されている。


水車レディースさっそうと登場

 その後新たな動きが出てきた。地区内の女性たちが「男性だけが楽しんでいるって不公平、私たちも…」と、「城端水車の里」と染め抜いた浴衣を作ったのである。20代から60代まで40余人。その年の「麦屋パレード」に初参加し、「城端水車の里」のプラカードを先頭に華やかに麦屋祭を盛り上げた。
 そしてさらに、せっかくの浴衣を生かそうと、音頭が作られた。作詞は私が担当し、仲間の北島修さんが軽快な曲をつけた。これを新聞で知った福野町の鉢呂清治さんがこれを民謡調にアレンジし、さらに同氏の知り合いの山下豊翠さんが踊りの振り付けをして、ここに新民謡「城端水車音頭」の誕生となったのである。平成5年7月18日、地区公民館で盛大にこの発表も兼ね、「水車まつり」を挙行した。エキサイティング民謡バンド「鉢呂精山とそのグループ」なども友情出演してくれ、多くの人を魅了した。レディースは以後町のイベント等に数多く出演。同音頭は近隣町村にも波及し、各地の民謡大会の定番となった。そしてまたさらに、これが北島さんによってサンバにアレンジ中で、近い将来「城端水車ギャルズ」が衝撃的に登場するはずである。


「城端水車の里」全国区ヘ

 平成5年6月、某自動車月刊誌が企画したクイズラリーに水車の里を取上げたことから、若者同士、ファミリー、ペアが乗った県外ナンバーの車が連日訪れ、その数実に200台を超えた。歓迎の横断幕を掲げておいたところ、後日、多くの読者から感激したとの投稿が同誌に寄せられた。ほんのちょっとした心遣いが旅する人の感動を呼ぶことを知った。この頃豪華なパンフレット「ジョイフルマップ」10、000部を作成した。
 同年7月、長野県白馬村岩岳観光協会から視察団20人が訪れた。同村も水車の里を作るとのこと。そして本年4月、今度はこちらから23人の友好視察団が訪問した。立派な水車ができていた。さらに交流を深め友好親善の輪を広げてゆきたいものと思う。そしてまた、全国の水車のある市町村に呼びかけ、当町で水車サミットを開き、地域づくりについて話し合い
たい。
 かくして城端水車の会は、いよいよ全国区へ向けて動き出した。名称も「日本水車の会」に改める日も、そう遠いことではない。
 カラクリ水車はますます精巧となり、信心深い中嶋喜三さんは、城端別院善徳寺の開祖蓮如上人が合掌するお姿を再現した「蓮如水車」を設置。さらに城端小学校に横3メートル、縦2メートルの超大作「カラクリファンタジー日本の童話」が完成した。町のシンボル袴腰山を背景に、おなじみの金太郎、挑太郎、浦島太郎らが動く水車がお目見えし、児童たちの楽しいアイドルとなった。


水車は住民の心をまとめるシンボルとなった

 遊び心から始まった水車の里づくりは、予想外の反響を呼び、観光のスポットとなり、お客様が増加するにつれ、このままでいいのかなど、いろいろ悩みも生まれた。しかし本年3月、ついに町が素晴らしいプレゼントを約束してくれた。地区内八幡宮に隣接する土地約1、000平方メートルに「城端水車公園」を建設することになったのである。せせらぎ水路を中心に石組みをし、滝、水車小屋、あずまや、ベンチ、常夜灯などを配し花木を植栽した風情ある公園は、広く町の人たちに開放され、いこいとふれあいの場とし、人と水の文化を象徴する中心として、近く工事が始まろうとしている。
 各自が私費を投じて作った水車は現在35基。会員43人、レディース40余人。遊びの中から真実の郷土愛が生まれた。そして水車が住民の心をまとめる地域のシンボルとなった。