「ふるさとづくり'95」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

音楽で福祉の町づくり
神奈川県横浜市 瀬谷チャリティーコンサート実行委員会・瀬谷まほろば
福祉活動を始めた動機

 昭和50年梅雨の季節、朝から雨が降り続き何となく心の重いある日、1通の手紙が届いた。横浜市瀬谷区民生委員協議会主催による「母子家庭の集い」の案内状だった(主人は昭和46年リンパ腺癌で死去)。置かれた立場とはいえ、「母子家庭」という言葉の響きに私は一抹の淋しさを感じた。手紙には「お子さまもご一緒に」と書いてあった(当時長女小学校2年生、長男幼稚園、次女3歳)。参加をすすめてみたが、3人とも気が進まない様子だった。
 当日私はやむなく一人で参加した。区役所の会議室には子どもづれのお母さんが大勢集まっていた。四角いマスを取り囲むように民生委員が並び、その中を母子家庭の人々が埋めた。一通りのセレモニーが終り本題に入った。「みなさんの日常生活の現状についてお聞かせください」この問いに一斉に手が上った。「私達は1日勤いても生活費には程遠く、疲れた体に鞭打って夜は内職という厳しい毎日です」「子どもを公立の保育園に入れたい」「安い住宅に入居したい」。問題は限りなく、母子家庭の窮状を浮き彫りにした。机の上には子どもたちに袋詰のお菓子が用意されていた。あどけない子どもたちの表情は、たとえわずかな時間でも、お母さんと一緒にいられる喜びに満面の笑みを浮かべ、嬉々としていた。ふと、不思議に思ったことは、どの子の首にもまるでネックレスのように鍵がぶらさがっていた。幼稚園や小学校から帰り、「ただいま!」と元気な声で呼んでも、答えてくれる人のいない淋しさをこらえて、首からさげた鍵でドアをあける。しょんぼり家に入る子どもたちの淋しさが心に伝わり、涙があふれた。この時、私の脳裏をかすめたものは、「この子らに幸せを!」と願う地域福祉への決意だった。


チャリティーコンサートヘの取り組み

 昭和54年の正月、かつてPTA活動を共にした仲間15人と、久し振りにわが家で正月を楽しんだ。話題は尽きることなく、年の始めの抱負をそれぞれ語った。今までの経験を生かして何かしたい。その思いはみんな同じだった。私は母子家庭の集いのことを話し、福祉活動への取り組みを打診した。みんな快く賛成。さっそく何をするかに話が移った。かなりの時間をかけて話し合ったが妙案は浮かばない。3度の食事より音楽が好き、という私の発案で、「音楽で福祉の町づくり」が決まった。会の名称も「瀬谷チャリティーコンサート実行委員会」と名付けた。
 横浜芸術センターの庄司さんより、コンサート作りの方法を指導して頂いた。企画の立てかた、資金を集める方法、出演者の交渉、チケットの販売、PTAの活動とは大きな違いに、みんなの顔に不安が走った。「大丈夫かしら?途中で挫折したらどうしよう?」心配は募るばかり。「女は弱し、されど母は強し、何とかなるわよ!」自らを鼓舞し、福祉活動への一歩を踏み出した。
 企画を立てる。15人の主婦の頭では容易なことではなかった。続いて広告掲載の依頼文作り。勉強に勉強を重ねて作り上げた喜びはひとしおだった。みんな喜び勇んで、各商店を地域毎にくまなく廻った。福祉に役立たせる資金とはいえ、頭を下げて人からお金を頂くことは身の切られるように辛かった。趣旨を素直に理解してくださる人。まるで物乞いを追い払うような罵声を浴びせる人。突きささるような言葉に何度挫折感を覚え、帰りの道すがら泣いたことか……。15人で110軒を廻り、100万円の広告料を頂いた。それぞれの手に各商店から買った品物が抱えきれないほどであった。
 次はチケット販売。家族、友人、知人、親戚と、身を粉にして売り歩いた。800枚のチケット完売に約1ヵ月を費やした。「みんなよく頑張ったね!」陽焼けした1人1人の顔に、子を生み育てた母の慈愛と強靭な心を見た。


瀬谷区内の福祉の実態

 私達はまだこの町の福祉の実態を知らない。まず自分の足で歩いて、目で見て、触れて、そこから「共に生きる」ふれ合い運動に広がることを願った。
 人口12万の町とはいえ、東西南北の地域を歩いて廻ることは容易なことではなかった。身体障害を抱えて生きる人々の切実な心の叫び、寄るべない独り暮し老人の悲しみ、精神障害者を抱えて生きる家族の計り知れない苦悩と心労。私達はたくさんの悲しみを見た。
 こうして第1回チャリティーコンサートは昭和54年12月9目、瀬谷公会堂ホール600席を埋めつくし、天使の声、ビクター少年合唱隊を迎えて盛大に行われた。緑豊かな町、やさしい心のふれ合う町、「音楽で福祉の町づくり」は、みごと地域住民の心をつないだ。
 すでに12回のコンサートを重ね、善意の募金も8、683、304円に達し、瀬谷区の善意銀行に寄託した。この間、身体障害者の作業所、地域の福祉総合センター建設をコンサートを通じて呼びかけ、住民運動に広げ、平成3年までに両施設開設の喜びを見た。


高齢者の生きがいの場作り

 平成4年、チャリティーコンサートも13年目を迎え、私達自身高齢にさしかかってきた。よりよい高齢期の生き方をみんなで考え模索した。さまざまな意見が出されたが、そこで生まれたのが高齢者の生きがいの場作り、「農業でつなぐ地域づくり」だった。構想はすばらしかったが、果して畑を提供してくださる農家があるのだろうか? 連日会合を持ちながら対策を練った。区内の畑を見て廻ることから活動を開始した。雑草が生い茂り、荒れ放題の畑が至る所に点在していた。農家の後継者難もその要因の一つに感じられた。こんなに荒らしておくなら地域に開放し、一緒に農業を楽しんだらと、身勝手な想像もした。幾日も足を棒にして歩いたが、理解を示してくれる農家はなかった。せっかくの構想も断念かと、半ばあきらめかけていたある日、かつてPTA活動を共にした上瀬谷地域の前田敏宏さんが、永年私達の活動を見ていてくださり、1300坪の畑を無償で提供してくがさる好意を頂いた。
 突然の吉報にみんなは夢かとばかり喜んだ。しかも1300坪の畑の提供とあって、有機農法による野菜の栽培に大きな希望が生まれた。
 貸してくがさる人、借りる人の話し合いが成立すれば総て事は運ばれる。安易に考えていたところ、認可されるまでの手続きが必要とあって、農政の事など全く解らない主婦にとって早くも暗礁に乗り上げた。事の詳細を農協の人に相談し、手続きの方法を教えて頂いた。地域の農業委員の承諾、管轄の農政事務所との話し合い。日参また日参、ほとほと行政事務手続きの煩雑さに業を煮やした。約2ヵ月が経過しようやく許可がおりた。
 まず区内の定年退職者を対象に参加を呼びかけた。東部、西部、南部、北部地域と広い範囲から申し込みがあり、男性8人、女性12人が初の会員となった。職業もさまざまで、元小学校の校長先生、元ボーイスカウトの隊長さん、会社員、タクシーの運転手さんと男の人とボランティア活動をするのは始めてだったので、肩書きに圧倒された。女性12人は専業主婦。何ともアンバランスなので初めて会議を開いた時も心が重かった。でも自己紹介が終り、規約、会則、会の名称、役員構成と、永年の経験が際立ち、またたくまに会の輪郭が出来上り、会の名称も「瀬谷まほろば」(これは作家の大森黎さんが、古事記の中より引用してつけてくださった)と名付け平成4年1月発足した。


農業でつなぐ地域づくり

 当面の財政は生みの親、瀬谷チャリティーコンサート実行委員会が資金援助し、農具、肥料、種苗に充てた。総てが初めての農作業、農家の人々の懇切な指導を受け、まず綿密な年間作付計画を立てた。季節によって、さつま芋、じゃが芋、里芋、人参、大根、とまと、きゅうり、きゃべつ、玉ねぎ、長ねぎ、ほうれん草と、実に豊富な種類。秋の収穫に夢がふくらむ。鍬の持ち方、さくの切り方、肥料の混合のしかた、種の蒔き方、草の刈り方と、教えて頂いたのと実践とは天と地のひらきに感じられ、腰の痛みを訴えるみんなの表情に農業の大変さを見た。
 知らない同士が集まって、心豊かな瀬谷の福祉を担う。どんなに辛くとも弱音を吐く人は1人もいない。永年の社会経験をさりげなく適材適所で生かし、互いに励まし合って労働に勤しむ。女性は台所の経験をいかんなく発揮し、湯をわかして持ってくる人、漬物、茶菓子を用意してくる人、汗した後にみんなで車座になって飲む一服の美味しさは、思いやる心の豊かさでもあった。
 収穫の秋、区内の障害者団体に声をかけ、みんなで体験学習の場として、収穫を楽しんだ。不自由な体で芋を掘る。手をかしたくなるような仕草の中にも、この広い大地で自然の恵みを自らの手で掘る。やっとの思いで掘り上げた大きな芋に、隠しきれない喜びが大きな歓声となってこだまする。「共に生きる!」すばらしい地域福祉の夜明けを、私達は自然と人間のかかわりに学び見ることができた。


これから目指すもの

 高齢者や、体の不自由な人に、まほろば農園でとれた野菜を素材に弁当が作れたら……。思いやる心が新たな活路を開いた。「何か社会に役立つ事をしたい」多くの主婦達の心を集めて私達は今「配食サービスセンター」をライフワークとして作る計画を進めている。地域に根ざした福祉と、みんなの生きがいをめざして。