「ふるさとづくり'94」掲載
<個人の部>ふるさとづくり振興奨励賞

ふるさとの活性化を支えつづけるスナックママ
高知県・高知市 和田嘉海
 和田さんが12歳の時、父の勤めていた営林署の事業所が閉鎖され、和田さんは両親とともに南国市に越し、さらに高校進学に伴って高知市内に移り住んだ。
 高校を終えるまでは、お祖父様お祖母様の住む土佐町南川の生家に頻繁に帰った和田さんだったが、就職すると草深い山育ちであることを恥じる気持が芽生え、夜の仕事に入るとその思いはさらに募ったという。
 「南川を意識の底に押し込めていた」という和田さんは、母となり、あるきっかけから書くということを始めた時、ふるさとが自分のなかで絶えることなく息づいていることを知った。
 ふるさとは私という木の根っこ、根を枯らしてしまえば木も枯れると悟った和田さんは、開店というチャンスを迎えた時、店の名を迷わず「ふるさとスナック南川」と付けた。
 「でも最初は南川出身者の連絡場所にでもなればという位の気持ちでした」という和田さんの心を揺さぶったのは、店に来る南川出身者のふるさとを思う気持だった。
 開店から5ヵ月後、和田さんは出身者を手料理で招待した。この行事をきっかけとして和田さんは、ふるさとに呼ばれ、ふるさとに引かれ、ふるさとを抱き直してゆく。
 出身者から300年の伝統を持つ奇祭、南川百万遍祭りも淋しくなったと聞いた和田さんは、婦人部長さんと連絡を取り、百万遍祭りに婦人会を手伝うため南川に帰った。
 25年ぶりに見るふるさとはダムと過疎化のためかつては200戸を数えた家も40戸を割り、高知市への分水問題、学校統合問題、小水力発電所問題で揺れに揺れ、100人足らずの里人達の心は暗く萎え、祭りはさびれていた。
 胸を衝かれた和田さんは、ふるさとのために自分に出来ることはないかと考え、まず、南川をPRしてふるさとの人達に自信を持ってもらうことを思い立った。
 その第1歩として和田さんは、南川出身者が理事を務める授産所の青年達を南川の山菜料理で招待し、車椅子の青年達にふるさとを語った。また機会を見つけては、投稿という形で山峡の小さな集落を広めてゆく。
 和田さんは開店―周年を記念して南川全戸にお歳暮を贈った。さらに「南川新聞(百万遍特集)」を発刊し、出身者に百万遍祭りへの帰省参加を促す一方、翌百万遍にはお客様に呼びかけて百万遍ツアーを組み、初めての観光バスを送り込んだ。
 だが、好評を博した百万遍ツアーから1ヵ月後、和田さんを大きな悲しみが襲う。
「自分が本当にやりたいと思うことはやったらええ」と和田さんを支え励ましてくれた父上の急死である。後に残されたのは難病を患う母上と93歳のお祖母様。
 気力を失い「いっそ店を止めてしまおう」と決心した和田さんを再びふるさとに向かわせたのは、父上が大切に保存されていた南川の生家で使っていた民具、父上の写された南川の写真、ことあるごとに南川に帰っていたことを記した父上の日記だったという。
 和田さんは悲しみを振り払うように南川全戸に寒中見舞いを贈り、店を一流地に移転した。父上の後を追うように他界された母上の死を越え2度目の百万遍ツアーを組む頃、和田さんの胸に1つの計画があった。
 和田さんは小さな家を建てる時、ある目的を持って近所に中古住宅も一緒に買っていた。
「難病を患っていた母は何度も危篤状態に陥ってましたので、残酷な言い方かも解りませんが予定どおりなら父が後に残るはずでした。そうなれば、あの地に小さな家を建てて、父に気ままに住んでもらい長年の母の看病の労に報いたいと思っていました……。思いのこもった土地を持ち続けるのはとても辛く、析を見て売ってしまおうと考えていましたが、父の遺した民具や写真を見ているふちに、あの地に南川集会所を建てよう、外国に日本大使館があり、東京に高知事務所があるように、高知市内に南川の人達のための施設があってもいいはずだと、突然に、でもすんなり決心しました」と和田さんは語る。
 8月に起工式をし、翌平成5年1月、1階に40人の宴会の出来る6畳3部屋、縁側、廊下、台所、風呂、トイレ、2階に管理人室、図書室、民具資料室を備えた南川集会所ひらき荘が開所した。ひらきは和田さんの生家の屋号である。
 いま和田さんは、店の定休日に南川出身者を集会所に招き、親交を重ねながら出身者による「南川会」結成に向けて南川の現状を訴えている。
 また、生きがいが欲しいという南川の人々の希求に応えるべく、高知市内にふるさと市を開く計画を進めるかたわら、廃校となった南川小・中学校跡に建てられた南川会館のなかに「ひらき文庫」を開設する準備をしている。
 私はふとしたことから和田さんを知り、その心情に打たれ自発的に運転手を買って出た。また一緒に文章を書く勉強もさせてもらっている。
 和田さんは言う。「南川の人達は現実の過疎と心の過疎、2つの過疎に喘いでいる。私も南川の名で開店しなかったら、営利に走り、寒々とした心の過疎に落ちていたかもしれない。現実の過疎は行政で救えても心の過疎を埋めるものは心だと思う。個人の力に限度はあるけれど、個人でないと出来ないことも確かにある。私は、私に出来る限りのお手伝いをさせて頂きたい」と――。
 私は和田さんの重ねてきたことは個人の力をはるかに越えるものであり、公に認め、賞するに値するものであると確信し、参考資料を添え推薦させて頂く。