「ふるさとづくり'93」掲載
<個人の部>ふるさとづくり賞

わら文化の伝承と地域づくり
岐阜県 谷口いわお
点から面へ

 彼は、昭和35年頃からわら細工の研究を続け、今までに2冊の本を自費出版するなど、その研究発表をやってきました。
 今、わら細工は実用品でなく民芸品として生き残ってはいますが、その技術が風前のともしびとなっていることを7年程前に民芸品店の社長さんから聞きました。
 彼は、自分で「ぞうり」「わらじ」は作れるので、彼以上の年齢の人は誰でも各種の技術を持っていると思い込んでいたのですが、この話を聞いた彼の驚きは大きく、よく考えてみたら、やはり風前の灯となっていたのです。
 ちょうどその頃、彼はわらの研究で稲刈りの終わった水田に、古老にならって手造りのわら小屋を作っていました。
 このような、わら小屋は昭和の初期までは飛騨の農村の各地で見られたようです。
 彼は、苫労して再現したこのわら小屋を何かに利用できないかと考え、「わら小屋を教室にして近所の子供達にわら細工を教えてみよう、それには子供達に夢を持たせなくてはだめだ」。そのため子供達が夢を持ってわら細工に関心を寄せてくれるために、その名称を大きく『日本わら細工伝承大学校』と名付け、彼と共にわら文化に心を寄せている協力者の支援もあっての出発てした。(昭和62年4月)


意外な反響

 この大学校の創立は意外な反響を呼び、開校式の様子は「週刊新潮」がトップ記事で全国に紹介してくれました。
 それからは、テレビはもちろん、ラジオ、新聞、雑誌などの取材や電話での問い合わせが連日続き、1カ月に1回の予定が観光客や取材に追われて月3〜4回は授業をするなど大変なことになりました。
 彼は、このようなことは全く予想せず、風前の灯となりつつあるわら細工をまず近所の子供達に教えていこうと始めただけのことで、こんなにも多くの人達の関心を呼ぼうとは考えもしなかったことで、驚きでいっぱいでした。
 また、同時にこれは彼の近所だけてなく、日本中で2000年の歴史のあるわら文化の火が消えようとしていることを憂う人の多いことを感じとりました。
 和歌山県のある高齢者教室から、こんな便りがきました。
「前略 新聞で貴校の記事を見ました。私達も高齢者教室で老人達を集め楽しみにわら細工をやっています。楽しみにやっていたがこれを子供達に教えていくことは考えませんでした。この記事を見て私達は新しい方向づけを教えられ、今後はより楽しみになりました。」
 一方、三重県の高校の先生からは、「農業高校でわら細工を授業に取り入れたいと考えているが、どんな方法で教えるとよいか訪問するからよろしく」との電話があり、後日来校され、わら談義に花が咲き、「自信を持って授業ができる……」と帰っていかれました。
 また、高山は近年観光地として年間250万人もの観光客が訪れ、中・高校生の修学旅行も多くなっています。近年の修学旅行は体験学習が多くなり、当大学校へもその依頼が入るようになり、現在も続いています。
 学生達は、小数のグループから学校全員などの要望があり、一番多いときは2日間で600名の生徒を受け入れるなど、大人数の時は、会場は別の所を借り、彼一人では不可能なときは、近所の古老を講師陣に加え、その指導にあたっています。その時の老人の目は輝き、生き生きしています。
 彼は、高齢者対策はいたずらに補助金を出したり、遊び場所を創るだけでなく、高齢者の持つ特技を活かせるような場づくりが大切であることを体験を通じて学びました。
 また、学生達は、わら細工は初体験が多く、新しいものへの挑戦という形でとらえ、中にはすばらしい作品を創る者もあります。
「与えられた時間では困る、再度勉強したいとの声も聞きます」。彼はその度に、「わら細工は日本のどこの老人達も60歳以上の人ならば体験者であり、帰ったら、今度はあなたの家のおじいちゃんや近所の老人を講師に勉強しなさい。」とアドバイスしています。
 彼は、わら細工は親子、孫、近所の老人とのコミニュケーションを広める実践活動としての役目を果たすと信じています。


新しい提唱

 彼は、これまでの研究とわら学校を始めての体験の中から新しい発見をしました。それは「わら保育」で、保育園の保育のカリキュラムの中にわらと園児が遊ぶことを取り入れることです。
 彼は、幼少の頃から、わらと遊び、父母のわら細工を見て育ち、いつともなしに「ぞうりづくり」を覚えており、一方、今の子供達は農家といえどもわらとのふれあいは少ない。また、小学生になると学校に塾通いで暇がない。
 そこで、彼の発想は広がり、保育園で折紙や粘土細工と同じように造形の素材にわらを使うこと。余地があればわら小屋を造り、その中でわら遊びや給食、おやつを食べる。
 年中、年長から「なわない」を教えてなわがなえるようにする。それから自由な発想で子供達で造形をさせる。
 これが、わら保育のあらましです。
 彼は、まず彼の地域の保育園を訪ね、保母さんにその要旨を話し、加えて、わらは2000年の歴史の中で日本人の暮らしを支えるために生活、清算の用具を造形しているという事実を、彼の集めた収集品を見せながら、彼のわら文化論、わら造形論を話して理解してもらい、まず、保母さんに「なわない」を覚えてもらって、わら保育の普及を始めました。
 この、わら保育も反響を呼び、雑誌、家の光、現代農業、ぎょうせい等で紹介されています。
 また、富山県の神官がわらに関心をよせ、大学校へ再三来訪され、また、彼も富山へ分校造りに出張するなど、わら手屋造りを援助しています。
 宮崎県では酷農家が自分の水田にわら小屋を建て、隣の保育園に貸したいから、その作り方を教えてほしいとの依頼があり、指導書を作成して送付しています。
 この、わら保育の提唱は、日本では彼一人ではないかと考えておりますが、その芽はあちこちで育ちつつあります。


新しい取り組み

 平成4年1月、日本長寿社会文化協会の論文募集に入選して表形式に上京したおり、東京で活躍している彼と長い交流のあるわら工芸師から、今、日本相撲協会が使う土俵の俵作りが高齢化し、後継者が不足していることを聞き、紹介していただきました。
 相撲の俵は、「わら」しか使いません。
 この世界でも製作者不足で悩まされていることを関係者から直接聞き、高山の「わら」と作品が相撲協会の基準に合うような俵が出来れば取り引きをしてもよいとの確約を得ました。
 彼は、農業と食品雑貸店の兼業農家であり、その仕事の合間を見ては試作品作りを2月から始めました。
 40年ほど前にわらで俵を編んだことがあるので、その技術は十分あるのですが、土俵の俵となると仲々大変で昔の編機では時間がかかって面倒です。
 このため、まず、その編機の研究を進め、土俵の俵に合う編機を考案しました。今日の時代ですから、これも日本には二つとない編機で、簡単で誰でも編める機械です。
 この機械で俵を編み、東京へ送ること4回、やっと7月に合格の通知を受けました。ともかく、日本相撲協会が使ってくれる俵製作の成功を見たのです。
 相撲協会は、年6場所、加えて地方巡業、44の各部屋と大変多くの俵が必要です。全部が彼との取り引きではないですが、数をまとめることが必要です。
 彼は、この仕事を高山市内の高齢者に呼び掛けて、高山の活性化に継げてゆこうと、その体制づくりを研究中です。彼の考案した細根ならば誰でも充分に出来ます。もう、「私を仲間にして……」という声もかかっています。
 彼は、高山の高齢者が編んだ俵が大相撲の土俵になり、また、収入も約束されれば一石二鳥であり、高齢者の生きがい活動、わらを通しての地域づくりにも発展するように胸ふくらませている毎日です。
 俵は「わら」がすべてであり、良質のねらが必要なので稲刈りから計画を立てないと、土俵作りは出来ません。
 彼は、個人の研究から、面的な拡大を目指した「わら文化の伝承と地域づくり」、この大きな目標に向かって彼の生涯をかけてみようと念じています。