「ふるさとづくり'92」掲載
<個人の部>ふるさとづくり賞

自分の責任で自由に遊ぶ遊び場を
東京都世田谷区 羽根木プレーパークの会代表「大村虔一」さん
 現在、東京の住宅街の中にある“冒険あそび場”「羽根木プレーパーク」は、大村虔一氏の尽力で、1979年、世田谷区立羽根木公園の一画でオープンした。
 子どもたちの好奇心や欲求を大切にし、彼らのやりたいことが、できる限り実現させられる場にしようと「自分の責任で自由に遊ぶ……」というモットーを掲げている。地域の父母が運営し、行政が協力するという形で開園している。
 そしてここは子どものための遊び場づくりにとどまらず、その活動を通して、地域の人と人とのつながりをつくる場としての大きな意味をもち、現在も続いている。区内にもその兄弟ともいうべき場が2ヵ所増設され、また全国からの視察、見学も絶えない。


「都市の遊び場」に感銘うけ

 大村氏夫妻は1974年、『都市の遊び揚』(アレン卿夫人)という冒険遊び揚について書かれた本に感銘を受け、ヨーロッパに行って各地の冒険あそび揚をスライド写真におさめ帰国した。そして近くの幼稚園や小中学校などで、機会をとらえてはスライド上映をした。
 スライドを見た親たちには、日頃子どもの育つ環境に何らかの不安を抱いていた人も多く、子どもの遊び揚の現状についていろいろ話が出た。
 その後、近くの空き地について区役所に問い合せると「縁道にする予定だが、しばらくは現状のまま」というので、氏はスライドを見て熱心な反応を示した数人に声をかけ、冒険あそび場づくりの母体、堅苦しくなく、みんなで楽しくやろうというネーミングの“遊ぼう会”を発足させた。


常連の子どもたちが大人を動かす

 そして「夏休みの遊び場づくりをしませんか」というチラシで集まってきた人約60人にヨーロッパのスライドを見せ、これからの遊び場づくりのイメージを描き、活動の大まかな企画をたてた。ゆるやかな組織をつくり、自主的に名のり出て係を決め、一方、医師や弁護士や学者に「こもん」を依頼したり、区と土地を借りる交渉を重ねたりは氏が行なった。借主についてのクレームで二転三転し、やっと2ヵ月間児童館の名前で又貸しという形で、細長い敷地を区公園課から借用する契約をとりつけたのだった。
 遊びに集まってきた子どもたちの投票で「子ども天国」と名づけられたこの遊び揚は、小屋づくりや水あそび、野外料理と、なんでも好きなことができる、プレーリーダーと呼ぶ青年たちと遊べる、と夏休みの子どもたちでとてもにぎわった。
 翌年の夏も同じ場所で同じ様に遊び場づくりが行なわれた。前の年に常連だった小、中学生が「今年もやろうよ」と大人たちを動かし、区も直接「遊ぼう会」に土地を貸すという形になった。
 その後も常設の遊び場づくりのために「遊ぼう会」の活動はつづく。そして今度は1年2カ月の契約で区の児童センター予定地を借り、桜ケ丘冒険あそび場を開いた。
 この2ヵ所、4年にわたる実績をもとに、1979年国際児童年記念事業のひとつとして、区立羽根木公園の一画に「羽根木プレーパーク」を開設するまでには、準備会を重ね、一方、公園の専門家、小児科医などに意見を求め、賛成の言葉を得て区役所も応援するようになった経緯がある。


遊び場宣言を出す

 新しいプレーパークではイベントを企画し、その準備に以前の「遊ぼう会」のメンバーに加えて、地元のお母さんや新しいプレーリーダーなどが集まってきた。イベント後には、区の児童課、公園課、社全教育課の職員も含めた話し合いがもたれ、実行委員会が実質的に動き出した形だ。
 世田谷区もこうした実際の動きを見、地域の人々の熱意が伝わったというべきか、自治体として日本で初めて「プレーパーク事業」を区政に位置づけたのだった。当初、国際児童年記念の単年度の事業で、原則として土、日の開催であったが、住民と行政のとりくみが大きな反響をよび、継続して開園することになっていった。
 次年度1980年は、平日も開園し、遊びを保障し、遊び場を発展させるための論議が重ねられ、〈自分の責任で自由に遊ぶ〉ことをうたった看板を作り、地域をこえ、社会全体に向けた遊び場宣言をした。また、それまで不明確だった実行委員会について検討し、これはあくまで地域住民の自主的な組織であり、行政ははずして実行委員とプレーリーダーの中から役員を選出することになり、大村氏は会長の役を担った。
 プレーパークの活動はその後も地域に根ざし、輪を広げて進んでいった。実行委員会もプレーリーダーも活発な働きを続け数年たち、大村氏は会長を辞任し、現在は3代目である。「実行委員会」の名称も「世話人会」と改められた。


世の中に子どもの社会状況を訴え

 現在プレーパークは、日常的には放課後の小学生、自主保育のグループ、親につれられた幼児、そしてかまどを楽しみに来る団体、学生、お父さん……と幅広い人が集まる。そして82年に生まれた世田谷プレーパーク、89年からの駒沢はらっぱプレーパークとも連絡をとりながら、歩みを続けている。
 子どもたちの遊びの開放区としてのプレーパークは、その存在が運勢になっているといえる。社会に対して意見をもって活動している場になっているのだ。今もそしてこれからも開設当時と同じように、あるいはもっと強く、世の中に、子どもたちの厳しい社会の状況を訴え続けていかねばならない。
 この場を支えていくための活動は、地域の住民で組織した主体的な活動であり、子育て中の親の社会参加の場、学習の場になっている。いわゆるたまりば的な要素を、野外のオープンな場所でもつという、大変意義深いものにもなっている。
 日本で最初の冒険あそび場づくりという「冒険」に挑戦し、その場を確立した労は、その推持や発展とは比較にならないものがあろう。その発想と行動力を思い、大村虔一氏を推薦したいと思う。