「ふるさとづくり'92」掲載
<市町村の部>

人形劇の郷(さと)づくり
千葉県富浦町
 『小さな町』だから、『小さな人形』で町を起こせないか。3年前、富浦町で始まった「人形劇の郷づくり」事業は、今年すでに人口規模を超える参加者のある大事業に発展してきた。
 房総半島の南端に近い富浦は、初夏の味覚、大きな粒の「房州びわ」と民宿の町として知られているが、人口は6,200人余り、面積25平方キロメートルという、千葉県でも最小の部類に入る町である。東京からは120キロメートル、特急列車に来れば2時間で着いてしまう。この町が、過疎と高齢化に悩み、抜本的な解決方法もなく町そのものが硬直化してしまっている。
 なぜこれほど東京に近い町で、過疎と高齢化なのか。東京の“引力”があまりにも強いせいなのである。まとまった買い物も、大学も、芸術も、すべて東京という“ブラックホール”に引き寄せられて、町や地域の個性は形成が難しい。高校までを地元で過ごせば、大学や就職は東京。故郷はリタイヤしてからの意味しか持たない。文化的にも、明治維新までは、江戸防備の意味から富浦を含む南房総は旗本の支配下に置かれ、豊かな地域性を育むパトロンもなかった。
 人材の供給地、文化のエアーポケットが千葉県南部の実態であった。役場は町の活性化を目指して、主要産業である農漁業や観光産業のために様々な手段を講じた。しかし、地域の活性化は『人づくり』であることに改めて気付いたのである。活力ある人によって、産業も文化も活性化して、活力ある町が育つ。しかし、難問が待っていた。人づくりはどんな手法で進めるのか、創造性豊かな子ども達はどうすれば育つのか。
 昭和63年に、1人の女性が富浦に稽古場を開いた。NHKの人形劇「チロリン村とくるみの本」や「三国志」などで活躍している日本一の人形操演者、伊東万里子である。伊東万里子は、第二次大戦末期に東京を追われ、親戚のある富浦に疎開していたことがある。富浦の海に魅せられ、『豊かな自然の中で、豊かな芸術をつくりだしたい』と、知己の多い富浦町を選び主宰する劇団の稽古場を開いたのである。伊東は、また地域活動に関心も熱意もあった。『地域起こし』は『人づくり』、『人づくりは文化起こし』を模索していた町にとって、かけがえのない人材とめぐりあったのである。
 『小さな町』だから『小さな人形』が似合うかも知れない。伊東万里子なら、富浦と苦楽を共にしてくれるかも知れない。
 これまでも様々な文化起こしを試みた。文化講演会やOO公演、全て一過性の文化活動である。しかも、芸術性の高い公演は、費用的にも集客からも無理であった。東京や千葉市に行けば、もっと良い舞台でもっと良い演技が見られるのである。しかし、それでは地域の文化づくりはできない。文化活動が日常的に行われ、あって当たり前でなくてはならない。創作活動に参加できるほど、文化が身近になくてはならない。
 伊東万里子とめぐりあった昭和63年夏、伊東万里子が作・演出を行い主宰する「劇団員の火」が演じる人形劇を、町が主催して公民館の大会議室を会場に2公演行ってみた。すると360名もの入場者があった。富浦だけてなく、自動車で1時間もかかって、遠く安房郡一帯から富浦へ人形劇を見るために集まってきたのである。しかも、観劇後の子ども遠の目は、本物をみた充実感で輝いていた。担当者の心は『何とかしたい』から『何とかなる』、さらに『何とかしなくては』へと移っていった。
 平成元年度には、子どもの日にI公演、夏休みに「第1回富浦人形劇フェスティバル」を企画して10公演を行って、合わせて1,484人の観客を集めた。
 平成2年度には、予どもの日に1公演、夏休みに「第2回富浦人形劇フェスティバル」を開催して14公演を行い、さらに安房郡内の小規模校を対象に「第1回出前人形劇」を企画して8公演を行い、合わせて5,951人の観客を集めた。
 そして、今夏のフェスティバルは千葉県で開かれる国民文化祭の記念事業に指定されたこともあって、文楽や声楽家、さらには米国シアトル市からの人形劇団も招き36公演を行い、フェスティバルだけで5,722人が観劇した。
 これらの観客は、子どもの日の招待を除いて、全て有料の入場者である。行政が企画運営する公演の多くは無料であるか、前売券の半ば強制的な割り当てで行われることが多いが、富浦の人形劇フェスティバルは有料でしかも割り当てを一切しないことを原則としてきた。入場料も人形劇は3歳以上は全て500円である。「無料にしたら良いのではないか」という意見もあったが、「無料では文化は育たない。いくばくかの負担をすることが、文化を育てるし、見る姿勢もできる」と有料での公演を貫いた。しかし、会場の収容能力が250名程度では500円の入場料で公演はできない。しかし、赤字分を行政が負担していたのでは地域への根張りは遅くなるし、基盤も脆弱になる。ここから、公演費用を観劇者、行政、民間の篤志で賄う鼎立方式が生まれた。
 公演の内容は、伊東万里子に全てを任せた。一流の人の、一流の目と人脈によって、組み立てようとしたのである。運営も、伊東万里子とその劇団に任せた。もっとも、行政の担当者は5年程で異動してしまうのであるし、賽の河原の石積みのように造っては壊す時間も金銭的なゆとりも富浦町にはなかったのである。しかも、やるからには大都市からも観客が来る『本物』を集めた公演をしたかった。
 このように、当初から行政主導での文化づくりであったため、観客の動員計画、会場づくり、会場整理まで全て行政職員が行っていたが
、3年が過ぎた今夏のフェスティバルからは、ボランティアが生まれ町職員は1名だけの張りつけて済むようになった。「町に文化を根ざさせるには、俺たちが支えなくては」とボランティアをかって出た若者達。地元に住む写真家も無報酬で記録を取り続け、ポスターもチラシも自分達で作った。
 しかし、『なぜ、富浦で人形劇なのか』。富浦の人形劇を見る人々からの問いかけである。確かに、第二次大戦直前に日米親善人形大使として贈られてきたセルロイド製の「メリーちゃん」人形が、富浦の小学校で戦禍を避けて隠匿されていた。しかし、伝統的な人形劇は全くない。
 だが、伝統の有無だけで文化が起こるわけでもない。伊東万里子との出会いが、新しい伝統文化をつくる。平成元年度に、町は伊東万里子に人形劇の創作を依頼した。条件は「富浦の民話や伝説を基に人形劇をつくる」ことだけであった。伊東万里子は町史や古老を尋ね歩き、呻吟して『竜子姫物語』を創作した。これは、富浦町の大尽岬にまつわる伝説から生まれたもので『なぜ、富浦で人形劇か』の回答の1つとなった。また、町民にとっても人形劇を自分の文化として捉える契機ともなった。
 さらに、昨年5月には「富浦人形劇学校」を開校した。町内の子ども遠の希望者を集め、伊東万里子を先生に迎えた。伊東万里子にまつわりつきながら、嬉々として稽古を続ける子ども達。開校して半年後には、富浦小学校100周年記念式典で公演するまでにもなった。「大きなカブ」と「木竜うるし」だけの演目だが、様々な催しにも、お呼びがかかるようにもなった。指導を受けた子が中学生になると、後輩の指導や下働きにまわるシステムも自然と出来上がってきた。
 モデルを他の市町村に求めた訳ではない。一つ一つの手を着実に打ち、決して後戻りさせないことを原則に組み立ててきた。それが、富浦のオリジナルになって来た。「竜子姫物語」は地域がつくった文化として認められ、伴奏をする富浦の祭囃子の人達と共に11月の国民文化祭の特別記念公演として全国の人形劇ファンにお披露目されるし、子ども達の劇団も参加する。
 文化づくりは『型』からは入れない。文化会館や文化ホールを造る前にやるべきことが多い。富浦町は、人口も財源も少ないことが幸いし、ソフトから文化づくりが始まった。人形劇を公演する会場も、公民館の大会議室である。照明も幕のバトンを吊るために仮設のやぐらを組み、観客席を畳とベニヤ板で作った。会場は仮設だが、これまで富浦の人々が出掛けていった東京や千葉県の北部から、わざわざ人形劇を見に富浦に人々がやって来るようにもなった。『人の流れが変わった』
 人形劇への夢はふくらんでいる。仮設でなく人形劇専用の劇場をという声も高まり、町は用地買収を始めた。劇場の責任者には伊東万里子を招きたい、できれば劇場付きの劇団を、見る劇場ではなく創作する劇場にと、様々な希望が生まれている。
 しかし、本来の目標は、観客を育てての「人づくり」である。今夏来町した劇団の主宰者は「富浦の子どもは怖い。来年はもっと練り直して来る」と言った。伊東万里子の本物を見て育った子ども達には、『違いがわかる“目”』ができてきている。
 人形劇の郷づくり事業は、短期決戦の事業ではない。今、人形劇を見て育つ子ども達が父や母になり、生まれて来る子ども達と一緒に人形劇の郷づくりに携わるようになるまで、あと最低10年間の年月は必要だと考えている。