「ふるさとづくり'92」掲載
<市町村の部>

住民総参加の力強い歩みを続ける町
宮城県本吉町
ふるさとづくりの両輪

 南三陸で太平洋と面している本吉町には、全戸が加入する「振興会」がある。そして、各振興会は、それぞれ、自らが策定した「地域振興計画」を持っている。本吉町のふるさとづくりは、この振興会と地域振興計画を車の両輪として進められている。その基本的目標は、「海と緑に囲まれた理想郷」を、住民自らが想像し、住民自らが実践することによって創っていこうとするものである。
 この古くて新しい地道な営みも、今年で12年目を迎えようとしている。


ユートピアヘの第1歩

 昭和54年、就任間もない新町長は、行政主導ではなく、広く住民の英知を結集し、地域のニーズを反影した住民参加型の長期総合計画を策定しようとした。同時に、住民自らが参加するふるさとづくりの基盤として、「住民の自主的組織づくり」を提唱した。
 当時は、行政区や公衆衛生組合などの行政的組織を除けば、住民組織としては、「契約会」と呼ばれるものなどがある程度であった。契約会は、共有の財産を中心として結ばれるグループであるから、主たる活動は、その財産の管理運営に関するものに限られる。例えば財産に関与しない新しい住民たちは、契約会と無関係なのである。若干の例外を除いて、この様に自主的組織がなかったところにも、コミュニティづくりの必要性があったのである。
 町のふるさとづくりは、その「推進役」となるベキ、「振興会」と、その「指標」となるべき「振興計画」を呼びかけるところから始まった。振興会は、住民自治の組織づくりを目指すものであり、振興計画は、住民自らがこれを作ろうとするものである。
 そのために、各まちむらをまわり、膝づめで語りかけた。「振興会」という聞きなれない言葉に、「それは、行政の下請けみたいなもので、役場が楽をするためのものだろう」と言われることが多かった。しかし、振興会と振興計画の「こころ」を繰り返し説くうちに、どうにか多くの住民から、「理解」は得られないまでも。反対はされないようになった。くるまの両輪が回り始めたのである。


「振興会も、なかなか良いな」

 住民も、初めは半信半疑だったかもしれない。普通、地域計画は、役場の机や会議室で作られるものである。行政区が作る計画書には、運動会や盆踊りなどが記載されているものである。
 しかし、それまでの行政区や公民館関係中心の活動では、スポーツ、娯楽などの親睦活動はやっても、生活環境や産業基盤など包括的な地域の問題を取り上げることはなかった。その不便さや物足りなさが、振興会運営や振興計画を模索するなかで、鮮明になってきたようだ。それが、住民同士でふるさとづくりを語り合い、役場に働きかけ、これを実現してゆけるのだという手ごたえを掴み始めた頃、「振興会も、なかなか良いな。」という感想が聞かれるようになった。


2つの振興会

 振興会は、自主運営される。運営機関は、専門部制示とられており、総務、文化、生活環境、産業振興などいろいろな部・会がある。運営方法や役員の構成も、各振興会ごと、独自に決めている。
 振興会には、「行政区振興会」と「地域振興会」との2種類がある。行政区振興会は、その名のとおり、行政区を単位とするもので、最も基礎的なコミュニティとしての性格を持つ。地域振興会は、数個の行政区振興会の連合体であり、戦前から意識されていた集落等の歴史的経緯や河川、地形等の地理的条件を基に結成された。この連合体は、従来あまり明確でなかった地理的範囲のコミュニティであり、より広域の交流と共通の地域課題に取り組むことを目的として旗揚げされたものである。
 発足当時は住民同士の戸惑いや抵抗感もあったかもしれないが、振興会は、従来からの近隣関係をほとんど損なうことなく、よりふくらみのある、みのりの豊かなコミュニティヘと成長する。


手作りの地域振興計画

「地域振興計画」は、「住民参加」のシンボルでもある。その対象は、産業から生活環境等すべてに及んでおり、いわば地域の将来ビジョンとも言うべきものである。それは、振興公示産声をあげようとする頃、住民自らの手によって創られた。
 まず町が、後に地域振興会の地理的範囲となった15の「地域」から80人の「地域振興計画推進委員」を選出した。そして推進委員は、各行政区から選出される「計画員」及び地域担当町職員とともに、地域振興計街づくりを始めた。
 主として、推進委員は「総括」を、計雨具は「住民の創意とニーズの把握」を、町職員は「専門的知識と資料の提供」を、それぞれ担当した。計画内容は、大きく分けて、@現状と展望、A椎進体制、Bインフラ計画から成る。
 住民から広く意見を聞くために、行政区ごとの会合が、繰り返し、繰り返し、聞かれた。この計画づくりの作業はまた、自らが置かれた地域の状況を見つめ、住民相互の協力が、ふるさとづくりにとって如何に大切であるか、を改めて感じる機会にもなった。ある振興会では、まわりを見渡したら、四方が「山」ばかりであることに改めて気づき、「それならみんなで、ゴミ1つない山づくりをしよう。」となった。
 15の地域において様々な住民創意と住民ニーズが集められ、その集大成として「本吉町地域振興計画」が樹立された。
 昭和56年の本吉町長期総合計画は、これを基に策定されたのである。そして、町花に託して名付けられたこの「はまなすプラン」は、その基本方針を、「住民総参加のまちづくり=コミュニティづくり」に置いたのである。


側面支援

 発足間もない振興会を支援するために、町は、「コミュニティ推進計画」を制定した。これは、振興会組織の基盤づくりと活動を側面から支援することを目的としたものである。
この頃は、振興会活動が胎動する一方で、既存の集会所の老朽化が進み、活動拠点となる施設への要望が高まりかけた状況にあった。そこで、ここに「1集落1集会施設」を掲げ、町が、用地費の全額と建築費の8割を負担するシステムを導入した。決して裕福ではない町財政の中でのやりくりは厳しかったが、現在まで18の施設を完成させており、振興会活動のホームグランドとなっている。
 また、「実施要綱」を併せて施行し、ソフト面では、行政区振興会と地域振興会へ活動特等を定額補助し、ハード面では、振興会が主体となって行う各種施設整備(公園、テント、防犯灯など)の費用を8割まで補助することとした。これには当初、5年の施行期限を付したが、存続希望が相次いだため、現在も続いている。


どの振興会でも、やっている。

 振興会と振興計画から、苦節10年が過ぎた。この地道な営みは、砂浜に咲く「はまなす」のように、着実に根付き、成長している。
 地域振興計画は、町の日常的行政において最大限尊重されている。もちろん、予算や町独自の計画の制約はあるが、可能な限り、振興計画の実現に向けて住民と町は協力している。計画に記載されていることを基に、どういう優先順位を付けるか、もっと良い代替案がないか、具体化する方法として何か適当か、などについて振興会と町との直接対話が繰り返されているのである。
 平成元年度には、町制35周年を記念した、「ミニふるさと創生」ともいうべき事業を試みた。これは、「住民が、自ら考えてふるさとづくりをする」ための交付金を、「各行政区振興会に対して」交付するというものである。その結果、梅の里づくり、屋号(その家の歴史的呼び名)普及事業、徳仙丈つつじ祭りなどのユニークな事業が、それぞれの振興会において展開された。
また、翌年度に開催されたインターハイ・フェンシング大会においては、全地域振興会が、合計4万本にわたる花いっぱい運動を展開した。さらに、約半数の地域振興会が、わが家であるコミュニティセンターで、全国の選手たちを励ますべく、歓迎会を開いた。
「はまなすの里のふるさとづくり」の特徴は、「どの」振興会も、着実に活動し、住民の手による包括的な地域づくりが続けられている、というところにあるのである。


町民総参加から町民総実践ヘ

 本吉町は、平成3年、新長期総合計画「はまなすプラン21」を策定した。その基本となったのは、「新」地域振興計画である。
 町は、「(旧)地域振興計画を、町がどれだけ実現できたか」の実績報告を各地域振興会に対して行った。これを受けて、「新地域振興計画」が、再び住民自らの手によって創られたのである。
「はまなすプラン21」は、「町民総参加から町民総実践へ」と、一層前進させたふるさとづくりを目指す。