「ふるさとづくり'91」掲載
<自治体の部>

バーベナ・テネラの咲きあうまちづくり
徳島県 阿波町
バーベナ・テネラ

 この10年間を振り返って、ほんとうにいい花にめぐり会ったものだと、つくづく思う。
 もし、阿波町に「バーベナ・テネラ」が現われていなかったら、現在のような個性的で楽しいまちにはなっていなかったにちがいないと、はっきり断言できるほど、この花が与えてくれたインパクトは大きい。紫、あか、ピンク、白……と小さな花たちが農村の原風景の中に華やかでやさしい空間を演出してくれる。それは、花のある美しい阿波町を創り、心身共に豊かな生活をエンジョイしたいとのこだわりを持った住民の手によって作られた大きな財産でもある。バーベナ・テネラだったからよかったと運動の主役に選んだ時のことを思い返してみる。
 南米原産で明治の頃に渡来し、終戦後に全国へと分布をしたこの花は、とにかくスゴイ。4月〜11月まで次々と咲き、バツグンの繁殖力をみせる。花色も20色余り。さし芽で簡単に増やせるのもいい。全町的なものへと発展させるには、忙しい人でも育てられる花でないと広がってはいかないだろう。この花は、そんなすべての条件を満たしていた。
 ひとつの花をシンボルとすることで、町の中には連帯意識が育ち、手づくりの運動は地域への愛情となるにちがいない。
 私たちは、もっと楽しい効果を考えてみようと、全国の花いっぱい運動のケースを調べてみた。どんな花を町花に選んでいるのかも調べた。おもしろいことに、ほとんどの町や村が選んでいる花は、私たちのよく知っている花が多い。バーベナ・テネラの名は集めた資料の中にはまったく見当たらなかった。
 それもそのはずで、私たちでさえもこの花の名を知ったのは、育てはじめてから10年以上も過ぎた頃だったのである。
 どうせやるならオリジナルがおもしろい。そのうえ、知られていない花だと興味をもって私たちの町を注目してくれるだろう。
 そんな思いで、この花が1番いいと、町が全家庭に1ポットずつ配ったのは、昭和58年の初夏のことだった。
 それまでの3年間が伊沢地区だけの活動だった花いっばい運動は、この時から全町的なものとなったのである。そして同時期にスタートした新とくしま県民運動と相まって、バーベナ・テネラの咲きあうまちづくり運動は急速に広がっていった。


ゆるやかな変化への危機感

 伊沢公民館が昭和55年に花いっぱい運動を始めたのは、理由があった。
 人口1万5000人、面積48平方キロメートルの農村である阿波町は、日当り良好、広々とした田園の中に立派な農家が立ち、過疎でもないのんびりとした田舎町は、一見裕福そうに見える。しかしながら、よく町の中を見てみると、山の緑は松くい虫によって茶色になり、河川には心ない人が捨てたゴミが散乱。機械化がすすんだ農家は便利にはなったが兼業化し、隣家とのコミュニケーションも薄れてゆく。都会へと出て行く青年たちと話をすると、町内には専門知識を生かすことのできる働き場がないし、魅力もないという。
 豊かな時代の田舎ぐらしは快適な部分とそうでない部分の差が開き始めている。ゆるやかに変化するまわりの環境に対して私たちは危機感を持ち始めた。このままだと阿波町は住みにくい町に変わっていくかもしれない。さりとて急にビック・ブロジェクトなどはできるわけがない。住民と行政とが協力し合って始めた、身近なところからのスタートは、ふれあいと美しいまちづくりを目的とした花いっぱい運動だったのである。
 運動の最初は家庭花壇から始めた。講習会とコンクールを3年間続けた頃、町長がこの運動を全町へ広げようと言い始めた。その頃に、私たちが心ひかれていた花の名前が分かったのである。


花街道からさらに――

 元町地区では、ひとりの主婦が道端に植え始めたのが出発点となって、「元町花の会」を結成し、花街道を造り始めた。美しく長いバーベナ・テネラの花の道は、町内外に伝わり、見学者が次々と訪れた。
 元町に統けとばかりに、あちらこちらで花街道や花公園ができ、視祭団がやってくる。当然、「この花がほしい」という人たちも多くなり、花苗の注文が増えて行った。
 農業後継者の青年が、人の交流や、ときめくような楽しい農業を目ざして、資金を出し合い、有限会社「ジョイ・ファーム」を設立した。この会社が苗の宅配を引き受け、今では年間数千万円の利益をあげている。ふたりで始めた花の農業も、今では従業員14人と順調に伸びている。
 手仕事の好きなお母さんたちは、花を使って工芸を始めた。押し花や染色の作品は、ジョイ・ファームの店で観光みやげとして売られている。
 全国各地へと送ったバーペナ・テネラは、それぞれの町や村で、みんなに愛されながら町の風景にさわやかさをプラスしているようだ。


バーベナ・テネラ花の万博へ行く

 平成2年に国際花と緑の博覧会が開催されることを知ったのは、昭和60年の夏のこと。「自然と人間の共生」の理念は、まさに私たちの花のまちづくりの理念と同じ。ナンダ、カンダの議論はあったが、10年間の運動の集大成として、町あげて出展しようということに決まった。
 全国の町村で、花壇を出展するところは無い。そのうえ、阿波町のような花物語を持っている町も無い。ひとつの花に出会って、人びとが関わりを持ちながら花を通して豊かに生きている農村のすばらしさを、全国のそして世界の人たちに知ってもらおう。
 花博会場は100へクタール余り。阿波町の出展場所は山のエリア内600平方メートル。出展期間は4月1日から6月30日までと決まった。
 キーワードは「手づくり」。できる限り多くの人たちの手によって成功させようと、実行委員会を組織し、準備をすすめた。
 とはいっても世界博である。大企業や、プロフェッショナルの参加は、数十億といわれ、出展プランもすばらしいものであろう。私たちは競争しようとは思わないが、少ない予算でも中身のある出展をしたいと思った。
 出展用苗は25万本。8日間かけ、のべ1500人の住民の手でさし芽が行われ、育苗はジョイ・ファームが受け持った。土入れ作業への、中学生の協力は私たちを感激させた。
 費用のうち、1300万円は、130人の町出身者から1口10万円の寄付があった。それだけではない。彼らは、花博出展を応援するのはむろんだが、今後も文化、経済の発展に協力したいと「近畿阿波町ふるさと会」を結成してくださった。会長さんのご協カで、結成後1年余りで会員は300人を超える。ほんとうにうれしい限りである。
 あたたかい応援はまだまだ続く。阿波町からお嫁に行ったバーベナ・テネラたちの里帰りで作った花時計。全国24市町村(北は北海道上官良野町、南は鹿児島県山川町)から苗を送っていただいた。花だよりコーナーも、30余の町の花の写真が届けられ、会場のバーベナ・テネラの部屋は、花ネットワークの紹介や、花工芸の紹介で、阿波町らしい出展となった。
 そしてメインは何と言っても6月23日の「徳島県野の日」のイベント。阿波町で3日間練習を重ねた1300人の住民による阿波踊りは、花を育てるやさしさを、パワーが会場でひとつになった。ふるさと会の皆さんや、阿波町ファンの人たち。会場の観客とが一体となった阿波踊りは、徳島県の日の大成功として終わった。
 町内の青年たちが数年間続けてきた夢を叶える祭「夢想祭」もミュージカルとして、兵庫県村岡町の山根周子ちゃんのお花の精を会場で見事に実現し、拍手喝宋を浴びた。
 たった3ヵ月の出展ではあったけれど、私たちはとても大きなものを得た。力を合わせれば何でもできるという自信と誇りが生まれた。花の万博出展が終わったとき、私たちは、愛するバーベナ・テネラに感謝状を贈った。ここにその文面を紹介したい。
 感謝状
バーベナ・テネラ殿
10年間の長い年月
私たちに夢を与えてくれたあなたを
花の万博に出展しようと決めたとき
阿波町の人たちは、
力を合わせて 熱く燃えた
その過程の中で さまざまなドラマが生まれ
大成功という快挙を手にした
ほんの小さな花なのに
私たちをふりまわして ときには悩ませて
とうとう花博にまで参加しようという
気持ちにさせてしまった
偉大なるバーベナ・テネラ
あなたを育てながら もしかして
私たちの方が育てられたのじゃないかという
気がしている
やさしさをありがとう
豊かさをありがとう
花博を終えたいませいいっぱいの気持ちを込めて
ここに感謝状を贈ります。
平成2年7月1日 町民1同
 バーベナ・テネラの物語はまだまだ続く。