「ふるさとづくり'91」掲載
<集団の部>

MATSURI「釜石よいさ」釜石は、今年も元気です
岩手県 釜石レボリューション
釜石

 釜石は、新幹線新花巻駅で降りて、JR釜石線に乗り替えて東におよそ2時間半のところに在る海のきれいな街である。初めて釜石線に乗る人などは、仙人峠を越えるあたりで本当にこの先に街があるのだろうかと、不安を抱くのだそうだ。
 まず釜石と間いて思い浮べるのが、新日鉄釜石ラグビーチームであろう。前人未踏のV7を達成したあの燃える赤いラガーシャツである。新日鉄チームが釜石の不景気を吹き飛ばす勢いで勝ち続けたのは記憶に新しいところである。しかし、残念ながら最近はいまひとつ低迷している。
 次に浮かんでくるのは製鉄所の高い煙突であろう。普通の街であれば駅前は、繁華街が続くのであるが、釜石の場合駅に降りてまず最初に目に飛び込んでくるのが、製鉄所の空に高く突き出す煙突なのである。この煙突に象徴される様に釜石は、製鉄所依存型の典型的な企業城下街であった。しかし、製鉄所の合理化という波に押し切られ、昭和60年9月に第2高炉の休止、平成元年3月には第1高炉の休止と、100年燃え続けた高炉の火は消えた。それに伴って釜石もすっかり火が消えた様に暗く沈んでしまった。人ロ・世帯推移を見ても正直に表れている。昭和30年代には、10万人を越えるのではないかと思われていたものも、現在平成2年には5万3000人強の人口に減った。新日鉄釜石の合理化だけが原因ではない。若い世代の流出も見逃がせない点である。高校を卒業とともに進学、就職で釜石から出て行く。卒業生で地元に残るのは全体の約1割というのが現実なのである。今釜石の現状は非常に厳しい。


レボリューション

 「レボリューション」という言葉は、一般的に革命という意味である。我々の中のレボリューションは、心の中の革命であり、意識改革であると考えていただきたい。
 ここ数年釜石は、前にも述べた様に新日鉄の高炉休止等暗い話題が続いている。そんな中で釜石に住む若者を中心に、自分達の手で何か出来る事はないか、活気ある街を造る事は出来ないものなのか、そんな熱き思いを胸に、昭和62年2月に「釜石レボリューション」を提唱、同年4月、実行委員会を設立した。実行委員会を設立したと言っても事務所を開設したわけでもなく、たまたま代表が旅館業を営んでいたので、そこが事務局兼集会場ということになった。発起人は7,8人だったと思う。その中に釜石出身のミュージシャンもメンバーのひとりとして参画することになる。
 さて、実行委員会の設立はしたが何をやったらいいのか全くわからない。色々な意見が出た。野外コンサートを開催したらいいのでは、釜石の郷土芸能を集め、芸能祭を開催したらいいのではないか。そんな中で、どうせ祭りをやるのであれば今まで釜石になかった祭り、まわりで見物する祭りではなくて、市民が参加出来る祭りを造ろうということになり意見がまとまつた。
 祭りのモチーフを探した。青森ねぶた祭り、徳島あわ踊り、盛岡さんさ踊り、踊りであれば気軽に参加出来る、ここからレボリューション実行委員会の具体的な活動が始まる。この時メンバーは50人を越える人数になっていた。自営業あり、会社員あり、年齢も20代から50代とまったくフリーな立場での参加である。絵を画くことが好きな人間、音楽好きな人間、文章を書くのが得意な人間、話しをするのが得意な人間とメンバー1人ひとりがそれぞれ得意な分野を持っていた。よくもまあこれまで変わった人間が集まったものだと思う程である。
 事務所もメンバーのひとりが自分の家の車庫を提供してくれた。それぞれ担当を持って祭りの準備が進む。資金調達に走るもの、祭りのおはやしを作成するもの、踊りを考えるもの、資金獲得の為のキャラクターTシャツを製作するもの、そのTシャツは2500枚製作して、1枚、2000円で、メンバーの持ち歩きで販売した。わずか2ヵ月で完販することが出来た。メンバー全員、自分の出来る所で一生懸命であった。その姿が「釜石レボリューション」である。


祭り

 祭りの名称も1万人の虎祭り「釜石よいさ」と決まり、普及活動に入った。テレビ、新聞等マスコミヘの売り込み、各イベントへの参加と、一番忙しい時期であった。市民誰ひとり「釜石よいさ」などという踊りを知っているはずもないのである。町内会、各職場へと講習会に出かけて行く。「レボリューションです」と云っても何のことなのかわからない人がほとんどである。それをひとつひとつ説明して理解してもらう、市役所、警祭、各関係省庁もその通りである。道路使用許可ひとつ取るにしても、釜石では今まで国道を止めたという例はないからといって最初は断わられた。何回となく足を運んだ。そんな努力の甲斐があって昭和62年8月9日、日曜日、午後7時から9時までの2時間、大町の大通りを使用する許可を取り付けることが出来た。これで準備は完了である。
 本番当日、タ方6時雨である。この雨はこのままやまずに降るのであろうか、不安でしようがない。幸い7時過ぎ頃に雨は上がった。1万人の虎祭り「釜石よいさ」がいよいよ始まる。市長を挨拶、子供向けのキャラクターショー「子供よいさ」、そして「釜石よいさ」踊りが始まる頃には1万人をはるかに越える2万人の人出でにぎわっていた。踊りの輪が皆んな生き生きと飛びはねて、参加者1人ひとり輝いて見える。なんとも言えない感動であった。7200秒という時があっという間に過ぎた。「また来年もこの場所で会おう」と約束して1年目が終了した。終わってみればいろんなことが頭の中をめぐりめぐる。
 2回、3回と続けて行くためにどうしたらいいか、メンバーで意見交換となった。いくつかの問題点が上げられた。
一、資金不足
一、スタッフの人数不足
一、関係機関への事務手続きの多さ
一、市民へのアピール不足
一、メンバーがそれぞれ仕事を持っているために、昼間準備活動が出来ないことなどである。
 2年目、3年目、4年目と少しずつではあるが問題は解決されつつはある。たとえば資金問題などは、キャラクター商品の販売、企業の広告取りなどでまかなえる様になった。すべて解決された訳ではない。人数の不足や、事務手続きの多さなどは悩みの種である。


感動を伝える

 何はともあれ、その年その年で感動を味わうことが出来るのは幸せなことだ。1年目などは不安と期待で胸がいっばいになっていたところに、1万人を越える2万人の動員でにぎわったものだから、仕掛けた我々は言葉に出来ない感動を味わった。涙が止まらなかったことを覚えている。
 3年目、平成元年は、台風31号の直撃を受けた。それでも4万5000人の動員で、2000人の踊りの輪が、吹きつける雨の中で飛びはねている。この時「釜石よいさ」は釜石の街に定着したという実感を持った。
 4年目、平成2年は、祭りの開催を2日間にすることができた。初日は、野外特設会場でのアマチュア音楽祭である。10代から家族づれまで楽しめる音楽祭になった。2日目は例年通りの「釜石よいさ」の開催、両日合せて5万人という動員で過去最高を記録した。メンバー以外のスタッフの参加も協力団体が加わって200人を越え、「釜石よいさ」の連営に参加していただいた。言うまでもなくもちろん無償である。
 「釜石よいさ」という祭りは釜石レボリューションの手から離れてひとり歩きを始めている。
 踊りに参加する人、団体、企業、運営進行に協力してくれている人達が引っぱり出しているのだ。自分達の手で造る祭りであるという意識が芽生え始めているということになろう。今までレボリューションメンバーが、祭りを通じて味わってきた感動を伝えることが出来たのではないか。「ふれあいによる市民意識の活性化」をテーマに掲げ、活動して来たはずの我々も実際、意識の活性化とは何なのかわからないでいた。ただ最近、「自分達が味わって来た感動を多くの人達に伝える」そのことが意識の活性化に繋がるのではないか。そんな風に思うのである。




 釜石レボリューションは常に豊かな心でありたい。何にもとらわれないで自由な心を持ち続けたい。メンバー1人ひとり全員がである。
 最後に、MATSURIは祭りとは連う。笛や太鼓の祭りだけではない。豊かな心で、色々な発想、企画、展開、今まで誰も気付かなかった小さな事や、やろうと思って忘れかけていた事、これらを実現に結びつける事、それがMATSURIの展開であると考える。釜石が好きで、MATSURIが好きで、人が好きで、これがレボリューションなのである。釜石で自分達が立っている地点から、新しい風を吹かせる事が出来るまで、我々釜石レボリューションは、MATSURIを仕掛け続けて行きたい。