「ふるさとづくり'91」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 |
裏通りの蘇生 |
広島県 広島市新川場商店街振興組合 |
若者に愛される街「並木通り」 「並木通り」――全国どこにでもありそうな平凡な呼び名のこの街が、「チンチン電車」「広島カープ」「お好み焼き村」に次ぐ広島の新名所として人気を集め、土・日曜日ともなれば、県外からも若者達が、どっと繰り出してくる。 電線がなくなった空に向け、青葉を茂らす「さわぐるみ」の並木。片側6メートル(幅員20メートル)のゆったりした歩道はシックなグレー。通りの中程にある、抽象彫刻、サーキュレイション(循環)。その横にある油絵をはめ込んだベンチに座って、アイスクリームを食べている可愛い子ちゃん達、その前を手をつなぎながら通り過ぎていく親子連れ、ウインドウショッピングに夢中になっている女の子。並木越しに2階に目をやると、ガラス張りのレストランで、楽しそうに食事をしている若いカップル。はす向いにある歯医者さんの建物は、1階に3軒の店が並び、2階が診療所、3,4階が住居で、窓際には年中花が絶えない。ケーキ屋さんの横の空き地は花畑になっていて、四季の彩りを楽しませてくれる。交差点を渡った右側の時計塔には、広島市と姉妹縁組の4つの都市の現地時間が表示してあり、その前で立ち止まっている外人をよく見かける。真向かいの郵便局の2階は美容院で、左右にブティックが並び、南側の角に板べいの住宅があり、この奇妙な取り合わせが、一番“ほっと”する所である。 全長340メートルの南端は、平和大通りに接しているが、その少し手前に、手押しポンプのモニュメントがある。その昔、この通りは、広島城の外堀に通じる運河で、「新川場」と呼ばれていた事から、川のイメージを表現したもので、ポンプを押すと5メートル先のモニュメントの4方から水が出てくる仕掛になっていて、子供達の人気ものとなっている。 夜になるとフットライト照明(足元を照らす照明)33基が芝生に映え、雰囲気を盛り上げる。 立ちあがる 並木通りは、本通り、金座街といった広島一番の商店街の東に接した、立地的にも恵まれている通りでありながら、10数年前は、旅館や割烹、問屋等の間に僅かばかりの小売店が立ち並ぶ寒々とした裏通りにすぎなかった。「あそこは暗いから、夜は怖い」そんな会話を耳にした事は2度や3度ではなかった。 「何とかしないと、このまま放っておけば街は滅びてしまう、何とかしよう」悲痛な叫びはうねりとなり、誰言うともなく、同じ思いの仲間が集まった。 ネーミング 昭和51年1月3日、旅館「白純荘」(現在・広島総合銀行新天地支店)で、10人の仲間が顔を合わせた。歯科医、レストランの店長、旅館の女主人、銀行の支店長など、どの顔も真剣そのもの。話し合いは深夜に迄および、まず通りの愛称を「並木通り」とし、自然と人間優先、若者に愛されるようなまちづくりを進めていくことを申し合わせた。 掃除からスタート だが、名前をつけて、それだけで街がよくなるものではない。昭和32年に運河を埋め立て道路にした関係から、道路自体が都心部としては貧弱だった。まず道路をよくしよう。私達は市役所に出かけ、市の職員と話し合ったが、相手にしてはもらえなかった。「道路は他にもあり、これといった特徴もない上に、地元の結束だってない。そんなところが、なにを言っているのか」 ふり向く人もいない。誰も手を貸そうとはしない。私達は途方にくれた。 「掃除をしよう」誰かがいった。「よっし、やろう」私達は早速、ほうきを持った。20人近くにふくらんでいった仲間達に、笑顔が戻った。 「1店・1テーマ」 “自分達でやるしかない”この事が解った時、やることはいくらでもある事に気がついた。店の数は10軒に満たず、通り全体の建物も老朽化していたことから、まず大家に働きかけ、ビル化を促す一方、店舗の新装・改装にあたっては、他の商店街、大型店との競合を避けるために、前者にない特徴を打ち出す必要性を感じ、みんなで話し合い、“1店1テーマ”“1店1商品”の考え方を基本とした店づくりを促した。 こうした方針に沿って、モデル的な店舗を誘致、あるいは業種変更、業態変更を繰りかえしていった。 住みたくなる商店街 建物の建て替えに際しては、通りに連続性を持たすため、1、2階、あるいは3、4階迄を店舗として、それ以上の部分を居住届住空間、あるいは賃貸マンションとするよう説得した。 現在の都心は、機能性、経済性、利便性を追求するあまり住みにくくなってきた。商店街も、店舗と住居は別といったところが殆どで、夜になると無人地帯となる。私達はこの問題を重視し、“住みたくなるような商店街”“衣・食・住のあるまち”を前面に打ち出し、特に住環境の整備に重点を置いた。 この考え方には、通りに面した医師、銀行等も協力的で、銀行の建て替えに当たっては“並木通り”に面した部分は、3階迄を貸店舗にし、銀行部分は1歩奥に退く。医院の建て替えも同じような協力を得た。現在10軒ある医院は全て2階以上になり、昭和57年には、「並木通りドクター会」が誕生。保険、環境面での相談などに乗ってもらっている。 この流れは、通り全体に及んでいった。問屋はファッションビル、割烹はレストラン、ケーキショップ、旅館はホテルに その一方で、通りの入口にあった1軒のキャバレーには出てもらった。 「商業者自らの生活の中から、新しい文化を創造し提案する」並木通りは次第にお洒落な街、若者が集う街に変わっていった。 お化粧直し 「いいムードになってきましたね。道路をきれいにしませんか。」かつて相手にされなかった行政の方から声がかかった。 昭和54年7月、市の指導を受けながら「新川場商店街振興組合」を結成。8年の歳月を経て、昭和62年12月5日、建設省のC‐A‐Bシステム(電線類の地下埋設)を柱とした、道路整備事業が完成、“リニュアル・オープン”した。総工費約6億円という巨額な改設工事であった。そのうち、街区の美化を図るモニュメント等の費用2440万円は、地元地権者が負担したが、そのほかはすべて国、市、NTT、中国電力の負担で、これこそ10数年に及ぶ街づくりの、地道な努力と実験が獲得した成果といえる。 この“並木通り”の蘇生の過程は、手づくりの、着実な商店街の街並みづくりが、徐々に消費者の心をつかみ、それがやがて、マスコミや行政の理解と支援を勝ち得ることを、身をもって体験した過程であった。 |