「ふるさとづくり'91」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞

私達の夢が実現した
兵庫県 追分生活改善グループ
神岡町追分集落の概要

 龍野は、兵庫県の南西部でJR姫路駅より西北15キロメートル、童謡「赤トンボ」で有名な三木露風の生誕地、詩情豊かな小京都と言われる城下街です。古くから赤穂の塩、揖保川の清流を利用してのそうめん・醤油作りが盛んでした。
 当神岡町追分集落は龍野の街より東北に位置し、戸数56戸、農家39戸、平均耕作面積45アールの兼業地帯です。かつてはペーパーハウスによるトマト作り、国有林の払い下げによるモモの生産、電照菊、酪農、養鶏と、先進的に取り組んできました。しかし、土壌が重粘度質であった事や、世の中の変化に伴い兼業化が進んだ為の、悪条件が重なりなかなか定着出来ず、次第に衰退し、畜産農家が数戸残っているにとどまり今日に至っています。
 兼業化が進むと共に、村には若者の姿が見られなくなり、また、昔から農村でみられた相互扶助の精神もなくなってきました。


合成洗済から石鹸へ

 昭和51年当地方としては最大級の台風が吹き荒れ、農業が全滅するほどの被害を出しました。神岡地域では、災害を防ぎ生産の安定を図る為、基盤整備、農村の環境改善の必要性が話題にのぼるようになり、時間をかけて話し合いがなされ、私の集落の女性の間にも意識の目覚めが出てきました。物が豊かになるだけ人間関係が貧しくなり、自分さえ良ければという空気が漂う中、「同じ集落に住みながら、人びとの集まる行事も少なく、井戸端会議もままならぬ今日、お互い忙しいけど話せる場や学べる場を作ろうやないか」
 また、ある古老の人の「なあ、追分へ嫁に来たら、もう帰られへんやろう。ここのぬか塚へ入るんやろう。だったら皆んな仲良くやってくれや」との励ましを受ける等様々、人の願いの元に、昭和55年に生活改善グループが発足しました。普及所の援助を得ながら色々活動してきたなかでこんな叫びを聞きました。「ちょっと私とこの田んぼ見てよ。真っ白い洗濯水が流れ込むんやで。ここで稲を作りこの米を食べるんや、なんとか考えな」
 追分集落は、昔々、稲葉街道の宿場町として、栄え生きづいた面影をとどめる道標を中心に、細長く家が密集しています。それぞれの家庭から出る雑排水や、畜舎が住宅の中にあるため、その汚水がため池、水田へ流れこんで環境の汚染源になっていました。また、それらは蚊、ハエ、悪臭の原因でもありました。話し合いを続ける中で、便利だと使っていた合成洗剤の怖さが話題にのぼりました。瀬戸内海や琵琶湖の汚染解消にと県でも石齢使用運動と環境改善運動が進められており、当生活改善グループも、石鹸を便いましょうと勉強に入りました。生活科学センターヘ行ったり、保健婦さんや、生活改良普及員さんと共に、台所にある合成洗剤をシューとゴキブリにかけてみて、死にますよ。水槽ふたつに石鹸液、合成洗剤液を作り、メダカを泳がせて、石鹸水は生き続けますよなど実験を交えて、合成洗剤の怖さを映画・スライドを使って学びました。
 石齢を上手に使うにはどうしたら良いかと、予備洗い、石鹸水につけ置く、ぬるま湯を使う等、学び工夫して町内共同購入にふみきりました。


自力で描いた末来図

 また、「私達はこんな地域に住んでみたい」と言うグループ員の夢を、地図の上にイラストマップ化して、57年兵庫県の農山漁家生活改善実績発表大会に応募したところ、見事知事賞を獲得しました。新聞に「理想郷は夢でない」と報道され、集落内での環境改善への意欲を盛り上げるきっかけとなりました。
 未来図に合わせ、基盤整備事業、農村集落排水というふたつの大きな事業を柱に、農業機械の共同化、集落センター建設、畜産の団地化、子供の遊び場作りと、夢の実現へ向って話し合いが重ねられ、みんなの顔が生き生きと輝いてきました。ほ場整備も、工事が始まると祖先から受け継ぎ馴れ親しんだ農地も、あれよあれよという間に道、畦をくずし、影も型もありません。
 整地された農地は、一区画、30アールと整然と並び、自動車、大型機械が楽々と通れる様になり、完了を境に今までの農業が見直され、「食べる農業は出来ないが、損をしない農業は出来る」と、農業の協同化への道を歩み始めました。それぞれの田を持ち寄って、育苗、田植、生育中の管理、刈り取りと全て共同で行い、集落一農場という集落営農方式がとられました。農作業も、勤め人・専業・定年退職者・婦人とそれぞれの立場で得手を生かして、助け合いで作業を行えるよう計画されました。
 作業は婦人達が出やすい様にと、9時〜12時、昼休みをゆっくりとって午後は2時〜5時、一日6時間労働。
 収益は地代と労賃で農家に還元する。時間給は男女平等、800円。「平等、これはいいネ」と婦人達の参加意欲を盛り上げ、集落内にも活気がみられるようになりました。
 今まで、余り顔を合わせる事のない若嫁さん達も農作業に参加し、稲と草を間違えたり、平気で稲を踏んづけたり、肥料をまくといっても、田んぼにさえ入れとけばなんとかなると気楽にやっている内、若い人達もすっかり作業になれ、ベテランといっていた私達は、窓際族どころか御隠居様となりうれしい悲鳴をあげています。みんなで作業するので、仲間意識が芽ばえ心安くなり、井戸端会議に話がはずむようになってきました。
 世間では中核農家へ農地の集約が図られる中、兼業とはいえ農家に変りません。生産にたづさわる事へ誇りを持ちながら、物を作り、育て、収穫の喜びが味わえる農業を続けたい、自然と接したい気持ちはいっぱい持っています。
 農村集落排水については、市役所より女性に関係が深いので、「まず、おかみさん達に話そう」と説明会が持たれました。そのとき「目をつぶっていても追分に来たことがわかりますヨ」と、ありがたくない言い回しで切り出されました。くさい臭いがする。蚊、ハエが飛びまっているからと……。きれいな農業用排水を確保する為、生活雑排水を浄化すると共に、悪臭を放つ溝を一掃し、集落の環境改善をはかり、合わせて石鹸使用をもっとすすめ、トイレの水洗化を図る必要性が説明されました。
 まず、先進地を見学したいと、農水省の事業の、和田山の久世田集落へ行きました。
 農道を利用した流下方式で改善された水洗トイレ、集会所に新しく作られたトイレ、雨水しか流れていない溝と視察しました。処理場で浄化されて放水されている水はきれいに澄み、新聞記者が飲んでみられたとか、感心させられました。帰りのバスの中で、みんなで感想を話し合い、「財布はおかみさんがにぎっているんや。御主人方には、今度集会で説明会があるとき賛成してもらうように」と柔らかくお互い圧力をかけあい、この事業を是非にも成功させようと帰路につきました。
 事業の同意書は婦人の手でとり、集落全戸加入の条件が満たされました。工事完了まで五ヵ年計画で、終末処理場建設、本管埋設工事等進行していくあいだ、道はでこぼこ、埃まみれ、通行止めと大変でした。また、各家庭内の工事も、資金の融資を受け、61年7月の供用開始に向けて急ピッチですすめられました。処理施設は、接触ばっき方式で汚水が処理され、この施設が故障する事無くいつまでも使え、自分たちの施設は自分たちの手で守ろうと管理組合を設立し、使用の決まりを婦人部で決め、ステッカーを作り全戸配布して呼び掛けました。
 汚水口の目づまり防止のためにビニール、ゴム製品、生理用品、布、髪の毛を流さない。バクテリアの発生を妨げる天ぷら油、機械油、塩酸、合成洗剤を流さない等、みんなの話し合いで取り決めました。石鹸使用運動はグループ結成以来6年の年月をかけて、婦人の皆さんに呼び掛け実績を積んでいたので、処理場稼働を境に、婦人会で共同購入のシステムを取っています。婦人会推薦品を作り、2ヵ月に1回注文を取って配布してもらい、注文外にも役員の手元に在庫を持ち、いつでも購入できるよう便宜が計られています。
 また、推薦外でも石鹸製品であれば、個人の二−ズにあったものも使っています。
 処理場稼働以来、集落の中が大変美しくなりました。まず農業用水のため池が青く澄んで見え、集落内の家々の溝も雨水しか流れないためきれいになり、ハエ、蚊が少なく、悪臭もなくなり、村の中を歩いていても美しくなりました。
 家庭においては、屋外にあったトイレが屋内に入り、ふたつのトイレを持ち、洋式が多く取り入れられ、小さいお子達や年配の方にとても喜ばれています。トイレとしての感覚から、ちょっとした憩いの部屋の感覚が生まれ、花が一輪飾られ、雑誌が置いてあります。農村にいながら環境が美しくなり、文化的な生活が出来るようになりました。


ひろがる自信と夢

 生活改善グループでは、日々の食生活を豊かにと、食品加工を手がけていました。
 ここは、戦前より養蚕が盛んであった頃の、桑の大木が少し残っていて、6月になるとたくさんの実を実らせ、あたり一面甘酸っぱい香をただよわせています。
 普及所より、一度ジャムを作ってみたらと助言を得て、試作を重ねて添加物の入らない手作りジャムを作りました。県のリーダー研修会で限定販売させて戴くと、一目見ると赤紫で美しく、口に含めば甘ずっぱさと、子供の頃の郷愁が口の中にふんわりと感じられ、大好評でした。
 また、龍野市では、「童謡の里作り」が宣言され、毎年童謡コンクールが市をあげて開催されています。三木露風の「赤トンボ」に、「山の畑の桑の実を、こかごに摘んだはいつの日か」と歌われている桑の実を活用した「桑の実ジャム」は童謡の里にふさわしい特産品だと考えました。量産は出来ませんが、手作りの為、心のこもったものが出来上がります。ラベルのデザインもグループ員が手描きで包装も自分達でし、楽しみながら作業をしています。販売については、市にも特産品として力を入れてもらっています。イベントを中心に、多くの消費者の口こみで宣伝して戴き、将来は5000ビン製造を目標に休耕田へ桑の木を植えました。この木が生長して、たくさんの実をつける事を願っています。
 これからも自然豊かな追分の地で生き残れる農業を、集落みんなの力で実現させ、周囲の人から「追分に住んでみたい」と言われるような地域作りをしていきたいと思っています。