「ふるさとづくり'89」掲載

堂々たる田舎人として
長崎県世知原町 I LOVE 世知原塾
「ふる里」とは、一体何だろうか、「よいふる里」とは一体どんな町なのだろうか。
 この世知原(せちばる)のように小さな町だと特に、「道路網の整備をして町の発展を」とか、「男子雇用型企業を誘致して生活基盤づくりを」とか言われる。そのような町民の声も確かに大きい。しかし、はたしてそうやって人口が増えたところで、「よいふる里」になるのだろうか。都会と同じ様な施設を作り、都会へ右へならえしたところで、「よいふる里」になるのだろうか。そのような漠然とした疑問を抱きながら私達、“I LOVE 世知原塾」は発足した。町おこしは、単に都会化を目指すのではなくて地元にある物を大切に育てていくことにあるのではないか。そしてその町に住む人が、住んでよかったと思えることが一番大切なことなのではないか、と思うようになった。
 そこで取り組んだのが、外国人留学生との交流であった。この人口4600人の、それこそ顔を見ればどこの誰だか判りそうな小さな町に、見も知らぬそれも外国人を入れるのである。アメリカとフィリピンとイギリス出身の4人は、日本に来て間もない、、カタコト日本語の留学生。彼らを塾の、メンバーの家にホームステイさせ、その間町の青年たちと交流し、世知原という町がどのように映るのか? 私達もそうであるが、外国から見た日本のイメージは、ビルの建ち並ぶ世界の中心である東京か、伝統を守り続ける京都などが浮かんでくるに違いない。しかし、山の中の、1,500戸の家が肩を寄せ合うようにしてひっそりと暮らしている、この世知原の町も“日本”なのである。それを彼らはどのように見てくれるのだろうか。受け入れる町の方も、初めてみる皮膚の色や髪の色の違う外国人に警戒心もあった。
 まさに“黒船”である。先に述べたように、工業国日本を代表する建物もないし、日本を紹介するガイドブックにのるような代表的な建物もない。家庭においては水洗トイレもないし、シャワーもない。彼らも日本語を学びに来ているのだろうが、お手本になるような流暢な日本語は話せないし、世知原弁である。しかし、東京でなくても、京都人でなくても、しっかり彼らと通じ合うことができることを、私達は体験したのだ。年末の大掃除と称して公民館の窓ガラス拭きをやらせたり、空手や和太鼓を体験させたり、山菜料理を食べさせたり、農作業を手伝わされたり、そうする中で、彼らは、世知原の自然や生活や町の人たちに触れた。
 最後のお別れパーティで、青年たちから習った「おきつござっしょ!!」という世知原弁を、翌日の町長さんとのお別れの挨拶で言うものだから大笑いとなった。そうやって彼らが心からうちとけていってくれたと同時に、私たちの青年の目は、外国に向けられていったのではなく、なんと、自分たちの町を見直すこととなったのである。彼らと町を足で歩いているうちに口で説明しているうちに、世知原という町をあらためて見直すことになった。何もない町であるが、たくさんの可能性を秘めた町であることを再発見することができたのだ。そしてその町に住む私たちも、また多くの可能性を持った“堂々たる田舎人”でありたいものだと確認したのだ。
 そんな思いを抱いた人間が一堂に集まる、“九州ムラおこしサミット”をここ世知原で開催できたのは、何よりの幸運だった。九州各地において、我が町の特色を生かし、活気ある町づくりを目指している人たちが、熱気溢れる口調で語りかけてくるのには、世知原の青年たちも驚いたようである。私自身も話が深まるにつれ、皆同じ思いを抱いていたのかという共感が湧いてきた。そしてそれが、「オレにもやれるんじゃないか」という意欲、情熱に変わっていくのを感じた。会場の熱気というものは、参加した物にしかわからない。ある人は空を飛んで、ある人は海を渡って、金では買えないような情報を持って、皆集まってくれた。“旧産炭地のふる里に夢を語り合える場を”ということで発足した「I LOVE 世知原」だったが、この大会では、九州全域からの人々と夢を語り合えたのだった。
 サミットの準備と並行して、町内対象に、“言いたい放題座談会”も開いた。酒を飲んで冗談を言い合うのも良いが、しらふで町のことを話してみるのも今までにないことで、おもしろいんじゃないかと気軽に始めた。そうしたら、皆けっこう世知原という町のことを真剣に考えているではないか。とんでもないアイデアを思いつくまま言うだけではあるが、言ったあと気持ちがすうっとするようで、それを聞いてまた他の者がドキドキするような思いつきを言ったりもする。この会は、思ったより収穫があるぞと思い、年4回、11日を言いたい放題の日と決め開くことにしている。
“下手な鉄砲も数打ちゃあたる”である。
“原始村(サバイバルキャンプ)”も、今年で2回目を迎えた。子どもたちを、大自然の中で野性的な共同生活を通して、心身を鍛えることができるのではないかという趣旨で行った。何もない雑木林というのは世知原にはたくさんある。それこそ、ぴったりの行事だ。“生きる”ためには、太陽が、ある子は一粒の米が、ある子は友だちとの助け合いが、とそれぞれ自分にとって大切な物を心に刻んで、帰っていったと思う。それはスタッフである大人たちでさえ感じたことだから・・・。これからの行事として続けていきたいもののひとつである。
 世知原出身でつくっている「東京世知原会」というのがある。その総会に町を代表して町長が出席するのは当たり前だが、今年は私たちのメンバーが出席した。都会で活躍なさっているふる里の先輩たちと語り合うのも目的ではあったが、実のところ他の目的もあった。私たち5名の青年は、この東京というところに来たことがなかった。全国の若者をひきつける“東京という怪物”をこの目で見たかったのである。やはり東京は、日本の東京ばかりでなく、世界の東京である。あらゆる情報がぎっしりつまっている。目に入るもの全てが新鮮に魅力的に見える。
 だが気になる点も多々あった。まず空気がまずいのである。深呼吸しようとするのだが、息がつまるような感じで快くできない。やはり東京の人に聞くと、カゼをひいてマスクをしていると、1日で鼻の部分が真っ黒になるという。また学校のトラックを見るとコンクリートである。転ぶと怪我をするからといって、全力で走らないそうである。こういうことから考えると、世知原の子どもたちの方が恵まれていると言えそうだ。農村には、もの珍しいもの、奇抜なものは何一つないが、豊かな自然がある。私たちの世知原を振り返る時も、東京都同じ暮らしをしたいと思わない限り、自然を生かして生活できるはずである。私たちの塾の呼びかけでもあったが、世知原を情報発信基地にしようと思っている。東京と違った農村ならではの情報が、私たちの手で送り出せるのではないかと考えた。
 その考えは、8月のボタ山コンサートに引き継がれていく。18年前の炭坑閉山とともに忘れられていたボタ山を、防災工事でできた広場(約35,000平方メートル)完成と同じに私たちはそこで、第2回のコンサートを企画したのだった。人口4,600人の町に、3,000人もの人を集める計画で、初めての大企画であった。もちろん内容を練りに練って、胃薬を飲みながらのチケット売り、対外交渉であった。そのかいあって、天候にも恵まれ、3,000人の人が手に敷物を持って集まってくれた。ボタ山は整備こそしてあれ、電気もない、水道もない、バスも通っていない辺鄙なところである。てくてくと歩いて登ってくる人もあった。そして何よりうれしかったのは、都会からやってきた歌い手の人たちが、この何もないボタ山で歌うことを大変喜んでくれたことであった。広いボタ山では、参加した人も少ししかいないように見える。それに家族連れ、子ども、お年寄りと様々で、熱心に歌を聴くというのとはほど遠いように見受けられた。
 ところが、歌い手の人たちは、「ぼくたちは皆さん人間に歌いかけているだけではない。皆さんの後ろにある緑の山々、そこに向かって歌っているのだ。こんなに豊かな自然の中で歌うことができて大変うれしい。ぼくたち人間もまた、自然の一部なのだから」。私たち実行委員一同、涙を抑えることができなかった。都会のように、大きな文化ホールもない我が町だからこそ、ボタ山でのイベントだったからこそ、味わえた感動だった。
 こうやって、私たちの我が町を考える活動は始まった。どのイベントもまだまだ手探りの状態である。だが、一つ一つクリアしていくにしたがって、こう思えるようになった。まちづくりとは、地域の自己主張であり、まちからのメッセージである。それは、まちの思想であり、まちに暮らす人々の想いだ。一人一人の我が町“世知原”に対する想いを深めるためにも、ともに手を取り合って運動を盛り上げたい。たとえどんなに上等の汽車があってもレールがなければ走れない、その汽車もカラ箱であってはならないし、そのレールも知らぬ間に敷かれていたのでは全く意味がないのだ。私が一番気を付けているのはそこである。決して自己満足だけのひとりよがりなまちづくりとならぬようやっていきたい。
 最後に、メキシコのことわざをあげておきたい。メキシコの主食はトウモロコシである。「トウモロコシを実らせるは大地に埋まった祖先の骨だ。金もうけのためにトウモロコシをまくものは土地を枯渇させる」「食べるためにまくトウモロコシは、トウモロコシで作られた人間の神聖な糧である。金もうけのためにまくものは、トウモロコシでつくられた人間の飢えである」。私たちも、今までの世知原の歴史を大切にし、純粋を続けていきたい。