「ふるさとづくり'89」掲載

今、甦る竜宮城−唐桑臨海劇場奮戦記
宮城県唐桑町 唐桑臨海劇場実行委員会
大漁がまちの活気をうばう

 唐桑半島のほぼ中心に位置する早馬山。この山に登ると、美しい眺めの感動から暫くの時間をおいて、様々な課題や苦悩の渦巻く現実の世界が眼前に迫ってくる。
 昔、漁業のまち唐桑は来る日も来る日も大漁の日が続いた。それがいつの日からか魚は岸を離れ、それを追って漁師の航海も長期化し、まちから徐々に活気が失われ、人口の流出が続いた。
 この様な状況の中で私たち1人1人が、どうしたらよいかという課題を背負っていた。


古いかつお節工場を利用

 そうした中、足繁く唐桑を訪れ、伊豆松崎町などのまちづくりに実績のある建築家・石山修武氏の仲立ちで、舞台芸術家の妹尾河童氏を迎え、まちづくり懇談会が開催されたのは昨年の10月31日のことであった。
 翌日、唐桑半島の海岸美を満喫して帰った両氏が小鯖港でふと目にした光景、それが今回の唐桑臨海劇場開催のキーポイントだった。彼らが指さした向こうにあったものは、30年間も使われていない忘れ去られた古いかつお節工場だった。
「あの廃屋、劇場に見えません? 夏、イベントを組めばきっと多くの人を呼び込める。マスコミを動かし、全国各地から多くの人を呼び込むイベントを是非やるべきだ。」と。
 年明け早々準備会がもたれた。寒い中、毎晩遅くまで話し合いが進んだ。1人1人の小さな知恵と力を寄せ合って大きな力を創り出すという信念だけで集まった。
 そのような時、劇団黒テント創設者の1人である津野海太郎氏との懇談の場をもつことが出来、劇団の活動、とりわけワークショップといわれる地元の人たちと作る即興劇の話に引き込まれていた。さらに彼は、イベントのテーマを絞り込む必要性を強調し、我々をうなずかせた。1番知りたかった急向上の利用方法についての構想も津野氏と一緒に来町した石山氏により提示された。「きっと成功させてみせる!」ファイトが湧いてきた。
“この古いかつお節工場を甦らせてやろうじゃないか”。
“30年間の長い眠りから揺り起こし、僕らの夢の竜宮城を創り上げよう”。
何度も話し合いを続ける中からやっとテーマが見えてきた。


かつおを手土産にPR

 イベントの成否は、いかにマスコミに着目してもらい、報道のチャンスを得るかに架かっているといっても過言ではないだろう。素晴らしいポスターが出来上がった。チラシもできた。5月3日の御崎観光港まつりにもプレイベントとして参加して気勢をあげ、それと並行して宣伝活動にも入っていった。地元への浸透とともに外部へのPRも大切であり、仙台は2回にわたりキャラバン隊を出した。
 初回はマスコミまわり。当日の朝、気仙沼に水揚げされたばかりのかつおを手土産に、ポスター、チラシを配って歩いた。かつおがよっぽど効いたのか、その日テレビ、ラジオの生番組にも飛び入りで出演させてもらえた。
 2回目は約30名のキャラバン隊で一番町の歩行者天国に繰り出した。太鼓を打ち鳴らし、大漁バンテンもりりしく道行く人たちに唐桑のわかめパックとチラシを配った。
 フィナーレはかじき鮪の解体ショー。約30キログラムのかじき鮪を解体し、その場で刺身につくると、黒山の人だかりとなり、鮪1本がペロリと食い尽くされてしまった。このとき、話を聞きつけてワサビならぬニンニクを持ってかけつけてくれた生出地区の人とも親しくなり、イベント当日、唐桑に来てくれることを約束した。


88枚の大漁旗で世界一の大漁旗

 石山修武氏から私たちの夢を最大限に盛り込んだ会場設計図が届けられた。小鯖湾全体を海の劇場とする素晴らしい設計であった。しかし、これだけのことが果たして出来るのだろうか。メンバーは日毎増えてはいるが、我々実行委員だけで実現できる仕事ではない。地元の人たちを始め、町内の人々の手を借りなければ不可能だろう。
 7月2日、石山氏の来町にあわせ、地元小鯖地区で説明懇談会を開催した。反対意見を覚悟して望んだ懇談会であったが、集まってくれた50名の方々は皆協力的で、興味深く我々の計画に聞き入ってくれた。
 会場設計のメインは何といっても世界最大の大漁旗劇場である。大漁旗は漁船の魂であると同時に、唐桑を象徴するものでもある。我々は町内の船主さんを1軒1軒まわり、このイベントの趣旨を説明して大漁旗を集めた。その総数は500枚にも達した。
 それを縫い合わせるのは小鯖地区のお母さん方で、手分けをしてミシンを踏んでくれることになった。タテ・ヨコ25メートルの大漁旗は町民体育館一杯に敷き詰められ、7月3日遂に完成の運びとなった。1988年にちなみ、合計88枚の大漁旗を縫い合わせたまさに世界一の大漁旗の完成である。
 長雨にたたられ、会場の制作準備に戸惑った。もうそう竹を組み上げやぐらを造る。とても素人だけで出来る仕事ではない。しかし、鳶職は都合により1人しか来てくれない。誰かがその相手をして一番高いところまで上がらねばならない。誰もがためらったその作業を1人が何も言わずに引き受けた。遠洋漁船の航海から帰ってきたばかりの若者であった。他の仲間が祈るように見つめる中、鳶職の相棒として地上12メートルの竹やぐらの組立が終了したとき、彼は「時化の海を稼ぐ方がずっと楽さ!」と言って皆を笑わせた。こういうイキのいい若者がいる限り、唐桑の漁業の未来は明るい。
 私たちの失敗を恐れぬ活動が町民全体を奮い立たせた。おばさん達がおにぎりをむすんでくれ、若い者には負けられないと、船員上がりの地元のおじさん達が手伝ってくれた。長い経験のあるこの人達には本当に助けられた。同じ作業に汗を流し、一つのおにぎりを半分にして食べあううちに、海に出ている者と陸にいる者、若い者と年輩者の間にあった垣根は自然に解き放たれていった。
 まちづくりにはこういう機会が必要なのだ。お互いの力を認めあい、真に理解し合うために、手作り劇場の制作作業は大きな意味があった。


金じゃない!中身が問題だ!

 高さ12メートル、幅20メートルのバックスクリーンに世界一の大漁旗が掲げられ、証明に浮き上がった。これが我々の竜宮城なのだ。この感動を求めて我々は何ヶ月も苦労を重ねてきたのだ。これまでも何度かこの大漁旗を試しに掲げたことがあったが、いつも風が吹いてきてパラシュートのように膨らみ、すぐに降ろしていたのだった。どうかこの3日間だけは吹いてくれるな。多少の雨は仕方ないとしても、風だけは吹いてくれるなと祈る思いだった。
 真夏の太陽が照りつけた初日も、小雨が降り続いた2日目も、ビデオ・スクリーンのライブは燃え上がり、劇団黒テントの熱演が続いた。ワークショップには地元の人たちが参加して頑張った。最終日は期待通り天候が回復し、午前の郷土芸能、午後の洋上イベントとも盛況であった。特に手作りいかだレースは、仙台キャラバンの時に知り合えた3チームも含め、11チームの参加があり、その出で立ちもユニークで小鯖湾1周レースに挑戦、観覧車を十分に楽しませてくれた。日が落ちて辺りが暗くなる頃には湾岸を飾り付けた提灯に灯りがともされ、ビアガーデン船が出航していく。海の花は照明に照らし出され、幻想的な水中花として浮かび上がる。公園最終日の夜、劇場は超満員。この時のために3日間があった。あいさつの途中、実行委員長は感激に声を詰まらせ、目には涙が光った。
今回のイベントは最初から赤字覚悟でスタートした。お金は問題じゃない。どれだけのことをやれるかが問題なのだという実行委員長の無謀とも言えるこの言葉に、皆が黙ってついていった。あれだけのことがやれたんだという満足感を前にすれば、赤字の方が顔を赤くして逃げていってしまうだろう。終わってみれば収支はトントン。決算額はいつの間にか予想を大幅に上回る700万円にも膨れ上がっていた。
 唐桑臨海劇場の最大の成果は唐桑を大いにPRすることができたということであった。そして、イベントを通じて町内外にわたる新たな人との交流が生まれたことである。これにより次年度への土台をきちんと固めることが出来たし、イベントのみにとどめない次なる活動への弾みになったといえる。我々は今、金や者には帰られない素晴らしい財産の詰め込まれた大きな玉手箱を抱えている。この玉手箱の蓋を開けてしまえばドラマは終わるのだが、誰もこの素晴らしいドラマを終わらせようとは思うまい。続編、続々編と発展させ自分たちの可能性を見極めたいと思っているに違いない。
 真夏の唐桑にたった3日間、竜宮城は甦った。真夏の夢の竜宮城は、このイベントに参加した多くの人々に深い感動を与え、消えていった。本当に夢のような3日間であった。しかし夢で終わらせたくはない。我々の心に残った玉手箱をどう活用するか、これからが本当のスタートなのだ。