「ふるさとづくり'89」掲載
奨励賞

交流から生まれるまちづくり
高知県香北町 香北町青年団
 香北町青年団は、一時期消滅していた時期があったが、昭和42年に現在の形の青年団が結成された。結成当初から、交通安全や明正選挙の啓発・清掃活動・学習会・祭りの継承・ダンスパーティーなど、いろいろな活動が行われてきたが、昭和50年代に入ると、青年団の活動は低迷する傾向が見られ始め、その中で様々な打開策が検討され、試みがなされた。しかし、これといった効果が現れないまま数年が経過していった。
 昭和59年に入り、本格的に青年団活動とまちづくりについて考えるようになった。「よく青年団活動は地域に根ざしたものだと言う人がいるが、自分たちの活動は本当に地域に根ざしているのだろうか。昔も今も、地域社会の青年に対する期待度というのは、それ程変わりはないと思う。それなのに、段々と青年団活動が低迷していくのは、自分たちが本当に地域を知って、地域に根ざした活動をしていなかったのではないだろうか?」そういった疑問が青年団の中で生まれてきたのである。団員同士お互いに話してみると、多くの者において町のことも自分の住む小さな地区のことも知らない事柄がずい分とあり、お互いに驚いたものであった。「はたして、こんなにも自分たちの住む地域を知らないで、十分な地域に根ざした活動ができるのか?」そこで私たちは、じっくりと自分たちの住むまちを知り、これからの青年団活動のあり方を考えてみようじゃないかと、勉強会を持つことにした。
 第1回目は町のいろいろな資料を集め、人口問題、健康問題、産業問題など、これからの生活に不可欠な問題を取り上げ、みんなで考えてみた。その中で、今まで自分たちの知らなかったいろいろな問題がたくさんあることに気がついた。例えば高齢化の問題。今、65歳以上のお年寄りが4人に1人いるが、15年すると3人にひとりになる。どうやって私たちは養っていくのか? 自分たちが年をとったときはどんな状態になってしまうのだろうか? また健康問題では、町の死因別を見ると、脳卒中・心疾患・ガンの次に自殺が第4位にくる。「自分たちの知らないところでこんなにも自殺が!」という驚きと、「自殺にまで追い込まれる、そんな要因がこのまちにあるのだろうか?」という疑問。そして産業問題では、高齢化などによって、山間部の田畑が植林され、どんどん山林に変わっていく。また、農業後継者が数えるぐらいしかいない。10年、20年後、まちの農業はどうなってしまうのか、などなど…。資料を見ながら討論を交わす中で、私たちは一様に危機感を持ち始めたのである。
「それじゃあ、自分たちは今から何かしよらんといかんじゃないか」「まちに活力をもたらし、未来を明るく切り開くために何か考えよう!」と、2回目の勉強会では、県内の他町村のいろいろなまちづくり事例を見ながら研究討議を行い、自分たちの未来への考え方を少しずつ明確にしていった。
 そういった未来に対する思いをより具体化するため、町行政のこれから目指す方向を知りたいと、第3回目の勉強会は町長を囲み懇談会を行った。私たち青年団員のまちの未来を良くしたいという思いと、町長の未来に対する考えが熱っぽく話された。その中で、ひょんなことでひとりの団員の口から「高知市のどまん中で、香北町を大々的にアピールしてみたい」という意見が飛び出した。一連の勉強会をする中で、「何かやりたい」という意識は、みんなの心の中で強くなっており、そのひとりの団員のことばに全員が奮い立った。「どうせやったら、こじゃんと目立たにゃいかん!」「自分らだけでなく、できるだけ多くの人たちに仲間になってもらおう!」と、話は一気に盛り上がり、1年後の昭和61年3月に、香北町をアピールする大イベントを、高知市1番の繁華街帯屋町商店街で決行することに決まった。
 1年間の準備期間に、「自分たちのまちづくりに対する考え方を住民の皆さんに知ってもらいたい」と、広報紙「青年かほく」の紙面を増やしPRに努めた。従来B4版裏表の2ページだったものが、4ぺージ・六ぺージと増え、ある月には8ページもの大特集を組んだこともあった。それとともに、住民意識の高揚とPRを兼ねたひとつのステップとして、昭和60年5月29日に高知市帯屋町商店街において「香北町に関するアンケート調査」を行った。「香北町はどれだけ知られているのだろうか?」といった街頭アンケートであったが、特産物やパンフレットの配布、香北町の代表的な祭りである大川上美良布神社の秋祭りで使う鳥毛を振りながらのパレードも実施、ずい分と対外的に効果を上げたが、それにもまして町内に新風を吹き込む結果となった。この催しには青年団以外に、婦人会・商工会・森林組合・町会議員・役場・一般住民などから約30名の人たちが参加、一緒になっての活動の中でたいへん燃えて動いてくれた。そしてアンケートの集計の結果、地図上で約70%、特産物や観光地については約30%ぐらいしか香北町は知られていないという数字に、「あまりにも少なすぎる」と、誰もが思い、まちのイメージの薄さを痛感したのである。ところがそのことで、かえってみんなやる気満々! 3月の大イベントヘ向けての準備に、より一層の拍車がかかった。
 大イベントのタイトルが「香北イチゴ祭りINこうち」と決まった。香北町の特産品の中では、イチゴが1番かわいくて人にも好かれやすいし、まちのイメージにもピッタリだということで、イチゴをキャラクターとして使うことにした。ちょうど青年団では、「子どもからお年寄りまで、住民が手をつなげ、対話できることをしよう」を目標に、「岡林信康コンサート」「矢野顕子コンサート」「香北みなこい祭り」といった住民の交流を主眼にした小さなイベントも行っていた。そこでさっそく「香北みなこい祭り」では、6人のイチゴ娘を決定。彼女たちにイメージリーダーとして活躍してもらうことにした。
 準備万端整って、昭和61年3月29日・30日の2日間、高知市帯屋町商店街でついに「香北イチゴ祭りINこうち」が開催された。ビルの1階と5階を借り、1階ではイチゴをはじめとしてシイタケ・グリーンアスパラガス・加工食品などの特産品を販売。5階では町出身の漫画家やなせたかしさんの原画展、香北町紹介のパネル展示、毎日先着650人の方に特産品をプレゼント。さらに正解者の中から抽選で温泉にペアでご招待というお楽しみクイズなどを実施。アーケード街では、大川上美良布神社の秋祭りの「おなばれ」という行列を。長さ6メートル以上もある烏毛や、子どもたちの棒打ちや碁盤振り、ヨロイカブトに身を固めた武者姿など、行きかう人々がビックリするような大パフォーマンスを繰り広げながら、パンフレットの配布を行った。新聞などでも大きく紹介されたこともあって、2日間は大にぎわい。香北町の大アピールという点では大成功を収めることができた。そして何より大成功であったのは、多くの住民の方々の参加であった。婦人会・商工会・森林組合・農協・町議会・役場・農業生産者・一般住民・子どもたちなど、直接参加してくれた方だけでも120名。町長も先頭に立って特産品販売に汗を流してくれた。町会議員さんは18人全員が参加した。また、関心を持って香北町から見に来てくれた人たちもたくさんいた。そして、高知市などに住んでいる香北町出身の方々も大勢来て、思わぬ再会の場にもなった。お互いに再会を喜び、昔を語り合う場面があちらこちらで見られた。このように私たち青年だけでなく、多くの人々の胸で、「ふるさと香北」が大きくふくらんだことは、何事にも代えることのできない大収穫であり、その後の香北町の活力源になった。青年団の企画した香北町アピール大作戦「香北イチゴ祭りINこうち」は、こうして人々の温かい交流と感動の中、終わることができた。


町内外に「香北ファン」が生まれる

 以上のような青年団が中心となって進めた事業は、多くのまちづくりの芽を生み出し始めた。
「子どもからお年寄りまで気軽に参加できるまちづくりへの参加の第1歩になり、その上まちのイメージを高めるものを」と、いうことで、まち中を花いっぱいにしようと「花の里づくり」事業がスタートした。アジサイとアンズを中心として植樹しており、毎年着々と広がりを見せている。子どもやお年寄り、町内各種団体や事業所、一般住民の方々など、多くの人たちの参加・協力により、苗つけから植樹、管理まで行われており、その中で、住民同士の交流を生み出している事業である。今年、昭和63年5月に、神奈川県三浦市へアジサイが1000本嫁入りしたのを皮切りに、町外との「花交流」が始まりだした。
 また、「まちに活力も吹き込み、子々孫々まで残る郷土芸能を!」を合いことばに「韮生(にろう)太鼓の創作」が、青壮年を中心に生まれた。メンバーが町内全戸を1軒1軒回り、約1200万円の募金を集め、太鼓20基を中心に、銅鐸・金筒・ほら貝・笛などを組み合わせた。「規模はおそらく西日本一だろう」と言われる太鼓を創り上げた。多くの住民の方々の募金によって、「おらんくの太鼓」という意識も高く、名が売れるにつれ郷土の誇りとなりつつある。
「花の里づくり事業」も「韮生太鼓」も、私たちとともに力を合わせ一連の事業を行ってくれた人々が中心的役割りをしてきたのである。このように私たちのまいたまちづくりの種は、どんどんすばらしい花を咲かせ始めている。
 昭和62年・63年、昨年今年と、青年団では「物部川 遊・裕共和国」というイベントを、町内を会場に行った。物部川を中心として、「自然と人々の調和」をテーマに、日頃忙しさの中で心の余裕を忘れ、自然の中で過ごしてもらいたいと建国したところ、昨年は2000人、今年は2700人ほどの人たちが入国してくれた。当初から、このイベントに対する行政などからの捕助はなく、昨年が約90万円、今年は約230万円かかった事業費は、入国パスポート(中学生以上500円)を販売したり、広告料や出店料、Tシャツやトレーナーなどを販売してまかなった。入国者は、野外コンサート・プロフェッショナルコンサート・24時間耐久ソフトボール・なつかしの映画上映・なつかしの遊びコーナー・ふれあい動物園・ゆうゆうフォトギャラリーなどの国内での催しはすべて無料。催しの内容も盛りだくさんあり、子どもからお年寄りまでが楽しめるように設定、疲れたら芝生へゴロッと横になり、音楽を聞きながらひと休み。自然感覚がひじょうに好評であった。このイベントにも多くの人たちが参加協力してくれた。町内の青年団以外の青年たち、物部川流域の町外の青年たち、アマチュアバンドの青年たち、町内の各種団体やお年寄りの方々、そういう人の輪がより広がるとともに、町内外の人々の交流が図れ、多くの「香北ファン」を生み出したイベントであった。


地道な活動をしっかり継続

 私たち青年団は、これからのふるさと香北町を担い、よりすばらしいまちづくりをしてゆかなければならない。イベントも人々の交流を促す重要な手段であるが、地道にふるさとを守り、先輩たちが培ってきた事業を継承することも大切なことだと思う。例えば、祭りは青年がいてこそ盛り上がり、活気あふれるものになる。大川上美良布神社の夏と秋の大祭での青年団の役割りは非常に大きい。
 また、昭和47年に町入口(国道195号線・橋川野地区)ヘ青年団が案内板を設置したときに、道路沿いに捨てられたゴミの量に驚き、「ドライバーの人たちに美しいまちづくりに協力してもらおう」と、設置したチリカゴがある。設置以来、毎週1回のゴミ収集、付近の草刈りや花木の植栽などの清掃美化活動を、先輩から後輩へと受け継ぎ16年間、今もなお続けている。広報紙「青年かほく」でも、ゴミや河川の汚染などの公害問題、ホタルの保護などの自然環境保全などを広く住民に呼びかけて、美しいふるさとづくり運動を展開している。おかげで住民の方々にもずい分と理解をいただき、応援の声も多くいただくようになった。私たちの呼びかけに町行政も動き、昭和61年3月には県下で初めて「ホタル保護条例」を制定した。
 このような活動に対し、たいへん光栄なことに、昭和58年に「清掃奉仕団体」として、昭和62年には「道路愛護団体」として知事表彰を、同じく昭和62年は「地域環境美化功績者」として環境庁長官より表彰をいただいた。また、高知県文教協会より昭和52年と60年に「優良青年団体」として表彰していただいた。たいへん名誉なことであり、団員一同心から喜んでいるとともに、地域の期待と先輩たちの築き上げた歴史の重みを感じている。私たちは、これからもふるさとを担う力を身に付け、後輩を育て、よりよい未来づくりのためにたゆまぬ努力をしていかなければならない。


青年団は“元気の素”

 以上のような私たち青年団のふるさとづくりへの取り組みは、香北町の行政や住民に対して多くの刺激を与えつつ、大きな交流の輪をつくり出したと自負している。現在、各地でまちづくり・むらおこしと称して、様々な事業が行われている。その中で、観光開発・産業振興・企業誘致などの金が動く施策がなされているが、たしかに地域発展のためには金が落ちることは大切なこととは思う。しかし、その中で人々の心がすさんでしまったり、人間らしさを失うことがあってはならない。家族がいて、隣近所の人々がいて、地区の人々、そしてまちの人々がいる。その中で、心の通った交流やコミュニケーションが行われることが、「田舎」の本来持っている良さではないだろうか。これからも、心の通った人々の交流ができるようにしていくことは、私たちの活動の大きな目的であるが、まちづくりは、青年団だけの力ではおのずから限界がある。やはりいろいろな団体・組織と手を取り合い、多くの先輩方の経験や助言を聞いて、活動を進めていく必要がある。「自分たちの住むまちをすばらしいものにしたい!」と、思う心がたくさん集まり、それがひとつに結ばれたとき、すばらしい未来が見えてくることであろう。
 香北町青年団では、今後とも地域の「元気の素」として、大いに活躍するとともに、多くの人々と手をつなぎ、その輪をどんどん広げ、楽しいまちづくりをしていきたいと考えている。