「ふるさとづくり'89」掲載
入賞

九州太鼓フェスティバル・あらかぶコミュニケーション
長崎県大島町 面白ちんぐ倶楽部
「おもしろいことをやろう、楽しいことをやろう」ということで結成された面白ちんぐ倶楽部。していることがおもしろくなければ誰も参加はしないし、長続きしない。するからにはおもしろくして、誰でも気軽に参加できるようなものにしたい。強制・束縛もなしに自由にできることならなんでも飛びつこう。
 このような単純な発想をもとに、単細胞の集まりの中から生まれた「汚れなき純真無垢な田舎者の集団」。「みんなで通れば恐くない」という“迷文句”を拝借し、なんでもみんなで実行に移せば、烏合の衆が賢者の衆になれるというあつかましい考えのもとに、ない知恵を出しあっているのがこの倶楽部なのです。
 “ちんぐ”とは“仲間”という意味。
 地球上での最初の試みとして、全世界の注目の的となったのが、61年5月に開催した「九州太鼓フェスティバルin大島」(それから62年5月・63年9月と毎年開催)。
 全世界とは少しオーバーじゃないかとご不審に思っている方。いいえ、決してそうではないのです。私たちの住む“大島”は周囲30キロという大変“小さな島”で、日本の広さからすれば、日本と地球の全陸地の広さを比較するのに値する程。ですから、このイベントは私たちにとって地球規模の大イベントとしての価値があり、私たちメンバーの“知と汗”の結晶なのです。島の人口7000人余りの運命をこの太鼓フェスティバルに掛け、沈みかけた島をなんとか荒波にもびくとましない、力強い島にしたい・住めるような島にしたい。そうした死に物狂いの願いが太鼓となって生まれてきたのです。
 九州太鼓フェスティバルは九州各県代表の太鼓演奏家11チーム。遠くは鹿児島県の九面太鼓や大分県の源流太鼓、熊本県の菊池雲上太鼓、佐賀県の葉隠太鼓、福岡県の祇園太鼓、地元長崎県の不知火太鼓・わこう太鼓・くじら太鼓・黒潮太鼓それに大島の真砂太鼓・崎戸獅子舞の参加があり、観客も大島始まって以来の島の人口を越える1万人が動員。島が本当に沈没するのではないかと心配したぐらい。
 太鼓の総数200個、金額にして1億円にものぼる太鼓の姿と、天と地がひっくり返らんばかりの太鼓の音に、観客は皆ビックリ仰天。私たち、実行委員会のメンバーすらも自分の役目もそっちのけで、ただただ眺めているばかりで、呆然としっぱなし。ある女性のメンバーは、自分たちでできたことの思いもよらなかったこのイベントに感動したのか急に泣き出したりして。
 この日は太鼓と観客が一体となった1日として、町内外の観客そして最も頑張ったちんぐのメンバーと実行委員のメンバーの胸の中には、この時の感動が焼き付いていたに違いない。地域おこしは感動なくしては起こりえないということを立証。
 面白ちんぐ倶楽部のメンバーはこの感動することの味を覚えたことにより、自分の町を良くする方策を常に考える集団に変身したのであります。
 面白ちんぐ倶楽部の結成は、ほんの偶然のきっかけから誕生。でも、その偶然を得るには本当に大変だったのです。


着物や結婚指輪をあげてしまった国際交流

 それは、60年の1月にオーストラリアの青年代表団の受け入れから始まる。部長である福喜氏が、九州青年の船や総理府の海外派遣事業に参加したきっかけで、長崎県の国際交流事業を行うようになり、なんとかして外国の異文化に地元住民が接する機会がないものかといろんな団体にお願いしていたところ、世界青少年交流協会より30名の外国青年を受け入れてほしいとの要請があり、さっそくこれに便乗。
 今まで、鎖国のように閉ざされていたこの島に、外国人それも日本人よりも生活レベルの高いと思われる、絶世の美男美女がこの島に来るということで、どのような受け入れをしていいものかと大騒ぎ。ある方に話したら、「なんでこんな島に、なんも見せるところもない歴史的にも、文化的にも乏しくて、日本的情緒もないところに連れてくるとか」と言われたりして。−−それでも、3泊4日のスケジュールを消化した時は−−感慨無量でした。
 最初の試みとしていろんなことがありました。ある家庭ではお土産にと30万も40万もするような着物をやったりして。また、結婚指輪や金のネックレスまであげたりして、今では到底考えられないことばかりが続出。
 でも、いいこともあったのです。外国人の女性の下着や靴下が必ずしも新品でなくて、ふせ(つぎあて)をしたりして大事に使っていることを発見したりして。
 英語は話せなくても、身振り手振りの動作でも意志が通じることがわかったりして。食べ物も刺身などの生物は本来食べないけれど、おいしそうに食べてみせると、その外国人にも食べられることが分かってもらえたりして。
 要するに、外国人でも同じ人間なんだと実感で分かってしまうのです。この、恐ろしい発見をすることにより、やっと意識の芽生えを見ることができたのです。大島の土壌に世界の様々な土を注入し、培養させ世界一素晴らしい町にすることが願いなのです。
 この、オーストラリア青年代表団の受け入れをきっかけとして、面白ちんぐ倶楽部が結成され、様々な職種−−花屋さんに魚屋さん、お菓子屋さんに石油屋さん、プロパン屋さんに生コンクリート屋さん、老人ホームのお手伝いさんにヘルパーさん、お役人に帳面屋さん、旅館屋さんに売り子さん、船長さんに教壇屋さん、お子さんにお母さんなど−−より劣等生が怒濤のごとく20名ほど集まってきたのです。


ワーキングホリデーin大島

 それで最初の事業として、60年6月、長崎市の精神薄弱者施設のみのり園の子どもたちを呼んで、第1回目の一線譜の子どもたちのコンサートを開催。一線譜でしか理解することができない子どもたちの素晴らしい演奏に場内は涙・涙の連続。
 このコンサートは、ただ単なる障害者と健康な人とのふれあいの場、みせるものだけに終わることなく、地域社会・地域福祉の在り方を提起し、これからの地域づくりのための“勇気の創出”を願っての開催でした。
 好評を得て、第2回目を62年2月に開催。この時は、大瀬戸町・雪の浦フォルクローレ愛好会とジョイントして、南米の民謡を竹で作った楽器で演奏するという、日本では2つと聴けないメロディに観客はただうっとりするばかり。とにかく異文化には弱いのです。
 それと、国際交流事業の1つとして、ワーキングホリデーin大島の開催。ワーキングホリデーとは外国人とともに働きながら、日本の生の生活を体験してもらい、互いの国や住んでいる町の社会・風習・政治・教育・文化等、人間が生きていくためのあらゆる事柄について情報を交換し合い、また、理解し合うことによって永久(とわ)の友人として、未来永劫にわたって結びつきを保っていこうというものです。それが地域活性化にはなくてはならないものなのですから。地域の活性化とは“友人をもつ”ことから出発するのです。
 ワーキングホリデーの事例として、61年12月の暮れに諫早市よりウエスリィヤン大学に留学している学生を、冬休みを利用しての1週間を実施。男女20から30歳まで6名、中国人とタイ人とちんぐのメンバーと同世代で、港での最初の出会いからすぐうち解け合う。
 ホストファミリー宅は、花屋さん・ガソリンスタンド・漁師・百姓・サラリーマンに公務員等で、ちんぐの好みに合わせて振り分ける。1番希望の多かったのは女性で、それも可愛い娘。取っ組み合いを演じる始末。
 花屋さんに行った青年は、早朝から深夜まで花壇の草むしりから切り取り、運搬、販売までこき使われ、あげくの果ては、花の茎を短く切ってこの世の終わりみたいに怒鳴られる始末で、大変だったろうと運の悪さに同情。で、帰る日に一言“一生、忘れない”と。


顔は悪いが味は美味の“あらかぶ”コミュニケーション

 ガソリンスタンドに行った1番若くて可愛い娘は、これも早朝から夕方遅くまで洗車や雑用にこき使われ、終いには冷たい水であかぎれになって“他に行きたい”と言う始末。
 漁師の所に行った青年は、大島よりさらに西に行った東シナ海の絶海の孤島。小さな船で3時間、“無事に行って帰ってきてくれ”とは少しは考えたかもしれないけれど、ただ“イッテラッシャーイ”の一言。でも、この青年偉かった。初めて乗った漁師の船にもかかわらず、大きいブリの魚を釣り上げる。漁師の方は遠来の客に気をつかったのか、船に酔う始末。
 百姓に行った青年は、冬の農閑期ということで百姓の仕事がなく、正月前の大掃除や赤ちゃんの子守、餅つきから田舎豆腐づくりまで。この時ばかりと皿まで洗わされたりして。そこの母親“息子よりよかー(良い)”
 国際交流とは、なんでもさせることなり。
 こうした活動が、63年3月には地元真砂太鼓の子どもたちを中国上海少年宮への海外遠征にまで波及したりして。
 以上、面白ちんぐ倶楽部の活動紹介をしましたが、ちんぐの活動を総称して“あらかぶコミュニケーション”といっております。
 “あらかぶ”とは、俗にいう「かさご」という大島町の近海でとれる最も平凡でありふれた魚で、地元であらかぶと呼ばれている。この魚の特徴は、非常にどん欲で、1度噛み付いたら放さないというもので、しかも、顔が大変グロテスクなのが特徴。しかし、味のほうは珍味で、刺身でも味噌汁にしても大変おいしく、大衆魚にもかかわらず、高級料理としてよく使われます。
 このように“あらかぶ”のごとく、いい事はどんどんやっていこう。平凡な人間の集まりであっても、面白いこと・楽しいことをやっていけば、その中からコミュニケーションが生まれる。人と人との結びつきが終いには地球規模の何かが生まれる。
 それが究極的には“私たちの住んでいる地域をよくする”ことにつながるのだから。