「ふるさとづくり'88」掲載

香北をすばらしいふるさとに
高知県香北町 香北町青年団
 青年たちの若さあふれるパワー・企画力・行動力が、暗く沈みがちな農林業の町に「希望」と「活力」を与えた。ふるさとを愛し、ふるさとに夢を描く、私たち香北町青年団のふるさとづくりを、その背景を含めてレポートする。


香北町はこんな町

 香北町は、高知市から北東へ約30キロメートル、車で1時間ほどのところにある。町の中央を1級河川の物部川が流れ、両岸に河岸段丘が開け、その回りを山々が包むように立っており、たいへんゆったりとした美しい農山村風景をつくりだしている。気候は高温多湿で農業には最適。人々は非常に温厚で人情厚い町である。昭和36年3月に一町一村が合併し、人口13,000人の町として誕生した。それから26年を経過した昭和62年3月、人口は6,245人(世帯数1,274)まで減少している。かつての高度成長期ほどの急激な人口の減少はないものの、それでも毎年30人ぐらいずつ減っている。
 香北町は、たいへんお年寄りの多い町で、人口の26.64%が65歳以上である。この数字は県下ではもちろん、全国的にみてもたいへんなものである。また、地場産業が農林業意外にほとんどなく、若者の町外流出が進んでいる。これらが、人口減少や高齢化を進めている大きな要因と考えられる。


青年団活動低迷からの脱出

 香北町青年団は、昭和42年4月1日に誕生して以来、多くの青年団員たちの手によって育て上げられてきた。ところが、昭和55年頃になると、活動のマンネリ化などが起こりはじめ、団員たちも『なんとかしよう』という気持ちがあるものの、どうしてよいか、たいへん迷った時期だった。
 昭和57年、それまで低迷をしていた青年団がにわかに動きはじめた。高知県青年館住設の募金運動で、香北町青年団にも100万円の募金目標が割り当てられたのである。畑を借りて芋を作り、それを売ったり、ダンスパーティーをしたり。とりわけ映画上映会では、全戸に近い家々へ券を売って歩いた。そのかいあって、年度末には目標額を達成したのだが、その一連の動きのなかで、自分たちの「ふるさと香北町」を少しずつ考えはじめたのである。
 昭和52年から、毎月発行している青年団の広報紙『青年かほく』(月1回発行・2,300部・町内全戸へ配布)を、「人々に共通の話題を提供できるものにしよう」と、紙面を一新したのもこの年であった。それまでほとんど読まれることのなかった「青年かほく」が、一躍住民に支持されはじめたのである。町には、町広報と農協の広報があるが、それらには載らない町の話題を提供していった。住民の快い反応に私たちは気をよくして、以来、次々と新しい情報を住民のみなさんに送り続けている。


地域についてまず勉強会を行う

 昭和59年は、青年団活動をより発展させようと動きはじめた年であった。もっと住民の人たちと手をつなぐべきじゃないかと、「世代を越えて手をつなごう」を合言葉に、「第一回香北みなこい祭り」「岡林信康コンサート」「仮装ダンスパーティー」を一連の事業として行った。そしてまた「青年団活動は地域に根ざしたものだといわれるが、自分たちの活動は本当に地域社会に役立っているのだろうか?」と考え、勉強会を行った。
 第1回目は、町のいろいろな資料を集め、人口問題、健康問題、産業問題について考えた。そのなかで、自分たちがまったく知らなかったいろいろな問題があることに気がついた。たとえば高齢化の問題だ。いま65歳以上の人が町住民の4人に1人いるが、15年後は3人に1人になる。どうやって自分たちは養っていくのか。また、意外と自殺での死亡者が多い。そんなに暮らしにくい町なのか。農業ご開業の後継者がいない。10年後、20年後は、たいへんなことになりそうだ。などなど――そのなかで、私たちは危機感を持ちはじめた。「それでは、自分たちがいまから何かをしなければならないのではないか?町に活力を持たすために何をしようか?」と、第2回目の勉強会では、他町村のいろいろな町づくり、村おこしの事例を見ながら討論をした。そして「自分たちの未来への考え方をより煮つめるとともに、町行政のこれからめざす方向を知りたい」と、第3回目の勉強会は町長を囲み懇談会を行ったのである。
 こういう一連の勉強会の結果、「自分たちの未来を、香北町の未来を、自分たちの手で良くしていかなければならない」と、いう考え方が強くなりはじめた。そして「何かやりたい」という意識は、私たちの心のなかで次第に強くなっていった。
 ひょんなことからひとりの団員が、「高知市一番の繁華街の帯屋町で、香北町を大々的にPRしたい」といったとき、全員がそれに賛同した。「どうせやるなら、とことん目だとう!」「自分たちだけでなく、できるだけ多くの人たちに仲間になってもらおう」と、話はトントン拍子で進み、1年後の昭和61年3月に決行することに決めた。


青年団活動で町が変わる

 1年間の準備期間に、「自分たちの町づくりに対する考え方を住民の方々に分かってもらおう」と、広報誌「青年かほく」の紙面を増やした。従来、2ページだったものが、4ページ、6ページ、ときには8ページにもなった。
 そして、住民意識の向上とPRを兼ねてのワンステップとして、昭和60年5月29日に帯屋町で、「香北町に関するアンケート調査」を行った。街頭でアンケートに協力してもらい、特産物やパンフレットを配布した。香北町の大川上美良布神社の秋祭りに使う、長さ6メートル以上もある「鳥毛」をふりながらのイベントは、随分と対外的にも効果を上げる事ができたが、それ以上に、町内に新風を吹き込むことができた。この催しには青年団員以外に婦人会、商工会、町議会、役場や住民の方など、約30名のみなさんも参加してくれた。一緒になっての活動のなかで、ともに汗を流してくれたのである。そして、アンケートの結果、香北町のイメージの薄さを痛感したのである。地図の上で香北町を知らない人は約30%、特産物や観光地などに至っては70%以上の人が知らないという結果に、みんなたいへん驚いた。そして、このことにより、参加者全員一層やる気マンマンとなり、3月の大イベントに向けて、より弾みがついた。
 大イベントのタイトルが決まった。その名も「香北イチゴ祭りINこうち」。香北町の特産品のイチゴを中心にしようということになった。ほかにも特産品は、シイタケ・グリーンアスパラガス・青ジソ・マツタケ・ニラなど多くあるが、イメージ的にも、キャラクターとしても、イチゴが1番かわいくて、人に好かれるのではないかという理由でした。さっそく、「第2回香北みなこい祭り」で6人のイチゴ娘を決定。彼女たちにイメージリーダーとして活躍してもらうことにした。


香北イチゴ祭INこうち

 昭和61年3月29、30日と、高知市帯屋町でついに「香北イチゴ祭りINこうち」は開
催された。ビルの1階と5階を借り、1階ではイチゴのほか、シイタケ・アスパラガス・加工食品・工芸品などを販売した。5階では、香北町出身の漫画家やなせかかしさんの原画展、香北町紹介のパネル展示、毎日先着650人の方に特産品をプレゼント、さらに町内の温泉へペアでご招待するお楽しみクイズなどを行った。ビルの前のアーケード街では、大川上美良布神社の秋祭りの行列「おなばれ」が行われ、5月にも行った「鳥毛」のほか、小学生たちによる「棒打ち」や「基盤振り」、よろいかぶとに身を固めた武者姿の「道払」などに、行きかう人々はビックリ仰天した。こうした大パフォーマンスを繰り広げながらパンフレットの配布を行った。イチゴ祭りは新聞などで大きく紹介されたこともあり、おかげでたいへんなにぎわいであった。香北町のPRという目的では、大成功を納めることができた。
 そしてなにより大成功だったのは、住民のみなさんの参加であった。青年団を応接して、婦入会・商工会・森林組合・農協・町議会・役場・農業生産者・小学生・住民の方々など、直接参加してくれた方だけでも120名もいた。町長さんも汗を流して特産品を売った。町会議員さんは18名全員参加した。また、関心を侍って香北町から見にきた人たちがたくさんいた。香北町出身の方たちも大勢応援にかけつけ、お互いに再会を喜び、昔を語る場面もあちらこちらで見られた。このように、「ふるさと香北」に対する想いが大きく膨らんだことは、なによりの大収穫であったし、その後の香北町の“活力源”になったと思う。香北町PR大作戦「香北イチゴ祭りINこうち」は、感動のなかに終わることができた。


韮生太鼓の創作

このような一連の青年団が中心で行った事業は、多くの町づくりの芽を生み出した。薄い香北町のイメージを明るくすばらしいイメージに変えようと、花いっぱいの町づくりをめざし、「花の里づくり推進事業」がスタートした。町内28の各種団体が集まり「花の里づくり推進協議会」をつくった。とりあえず、10ヵ年計画でアジサイとアンズを中心とした花の町をつくろうと、現在事業を進めているところである。
 また「町をあげての新しい祭りを創ろう」と、青壮年を中心とした動きが生まれ、「祭りの中心となり、子々孫々まで残る郷土芸能を!」ということから「韮生太鼓の創作」がはじまった。創作実行委員会のメンバーが、毎晩のように各戸を募金にまわった。半年がかりで町内全戸をまわり、約1200万円の募金を集め、太鼓20基・銅鐸2基・鉄筒・ほら貝・笛などの組み合わせによる、規模はおそらく西日本一といわれる太鼓を創り上げた。昭和61年7月に創作発表が行われ、「土佐之国韮生太鼓保存会」を設立、現在は子供たちへの伝承と猛練習にはげんでいる。


物部川辺・裕共和国

 このように私たち青年団のまいた種が、どんどんとすばらしい芽を出し、すばらしい花を咲かせつつあることはたいへんな喜びである。
 今年の春も「物部川 遊・裕 共和国」というイベントを行った。わが町を流れる物部川を中心に、「自然と人々の調和」をテーマとして、日頃忙しさのなかで心の余裕を忘れ、自然のなかで過ごすことがなくなっている人々に、おいしい空気と緑あふれる自然のなかで、ひがな1日のんびりと過ごしてもらいたいと、建国したところ、約2,000人の入国者があった。高校生以上ひとり500円のパスポートで、共和国内での催しものはすべて貧村である。野外コンサート・宝さがし・ログ教室・なつかしの映画上映会・竹細工教室・草引き大会・谷山浩子コンサート・フリーマーケットなど内容も盛りだくさんだ。疲れたら芝生の上にゴロッと横になり、音楽を聞きながらひと休みする。そんな自然感覚が非常に好評であった。
 また、24時間耐久ソフトボールはすさまじいものだった。200人余りが代わる代わる参加し、なんと144イニングにも及ぶ死闘を繰り広げた。このイベントにも、多くの
人たちが参加協力してくれた。物部川流域の青年たち、町内の青年団以外の青年たち、ア
マチュアバンドのみなさん、フリーマーケットヘ出店してくれた町内の各種団体や個人の
方々。そういう人の輪とともに、多くの「香北ファン」をつくり出したイベントであった。
また、この種がすばらしい花を咲かせてくれることだあろう。


ふるさとのリーダーとして

 私たち青年は、これからの「ふるさと香北」を担い、よりすばらしいふるさとづくりをしなければならない。イベントも欠かすことのできない手段だが、地道にふるさとを守り受け継ぐ活動も大切なことである。例えば祭りは、青年がいてこそ盛り上がり、活気づくものである。大川上美良布神社の夏と秋の大祭での、青年団の役割は非常に大きいものがある。
 また昭和47年に町の入口(国道195号線・橋川野地区)へ青年団が案内板を設置したときに、道路沿いに捨てられたゴミの量に驚き、「ドライバーの人たちに美しい町づくりに協力してもらおう」と設置したチリカゴがある。設置して以来、週1回のゴミ収集、付近の草刈りや花木の植樹などの清掃美化活動を先輩から後輩へと受け継ぎ15年間、いまもなお続けている。
 広報紙「青年かほく」でも、ゴミや河川の汚染などの問題について、また自然環境の保全などを広く住民にも呼びかけて、美しいふるさとづくり運動を展開している。おかげで住民のみなさん方の関心も高くなり、応援の声も多くいただくようになった。私たちの呼びかけに行政も動き、昭和61年3月には、高知県で初めて「ホタル保護条例」を制定してくれた。また、たいへん光栄なことに、昭和58年には「清掃奉仕活動団体」として知事表彰を受け、今年は「道路愛護団体」として知事からと「地域環境美化功績者」として環境庁長官から表彰を受けた。また、高知県文教協会からは、昭和52年と60年に「優良青年団体」として表彰していただいている。たいへん名誉なことであり、団員一同喜んでいるとともに、地域の期待と先輩たちの築き上げた歴史の重みを感じている。私たちはこれからも、ふるさとを担う力を身につけ、後輩を育て、より良い未来をつくるために、たゆまぬ努力をしていかなければならない。


これからのふるさとづくり

 以上のような、私たち青年団のふるさとづくりへの取り組みは、香北町の行政や住民に対して、多くの刺激を与え、強力な活力源になったと自負している。しかし、すばらしいふるさとをつくっていくには、青年団だけの力では無理である。青年の若さだけでは実現できないであろう。やはり、いろいろな団体、組織と手をとり合い前進し、そのなかへ多くの先輩方の経験や助言を聞いて活動する必要がある。「私たちの住む町をすばらしいものにしたい!」と思う心がより多く集まり、それがひとつに結ばれたとき、すばらしい未来が見えてくることであろう。
 香北町青年団は、これからも地域の「元気の素」として、多いに活躍をしていきたい。