「ふるさとづくり'88」掲載

吉井町牛伏山を拠点とする文化活動
群馬県吉井町 牛伏桃林の会
牛伏山とのかかわりあい

 吉井町の「住みたくなる町づくり」が唱導されてから、町民の意識や活動に、それに答えるような動きが次第にみられるようになってきた。
 ここ数年来、吉井町長は、新しい地域開発を意図して、牛伏山の観光開発をすすめてきた。その最初に手がけたのが、牛伏山の山腹に洞窟を掘り、ここに観光の中心的なあるものを安置することであった。そのあるものについての物語を私が書くことになった。
 牛伏山は別名金比羅山とも言われ、事実、山頂には琴平神社が祀られている。また、山頂東の峰は一郷山とも言われ、中世、一郷山城が置かれ、多比良城(新堀城)とともに平井城の外郭として重要視された。その史跡でもある。
 そこで、私は、この牛伏山が単なる観光地となるのでなく、人々に愛され、親しまれるとともに、聖なる山、牛伏!!となるよう願いをこめ、当地方に残る伝説をベースに、新しく「羊太夫のはなし」および「羊太夫・秘仏慈母観音縁起」を創作した。
 この物語をもとに、倉田辰彦が彫像、吉井町に寄贈し、洞窟中央に安置された。昭和60年12月のことである。それ以来、参詣観光の人の絶えた日がない。
 その後、吉井町の牛伏開発は急速にすすみ、いまでは平和の鐘、休憩所一郷亭、小池、水道施設、便所、展望台兼駐車場などが設けられ、遊歩道も造成された。さらに、「天狗の松」や牛伏山の名に因む「臥牛」が配置され、観光地としての体裁がほぼ整った景観になった。


群馬展覧館設立と桃林の会

 昭和61年5月、牛伏山に、倉田辰彦によって群馬展覧館が開館された。
 記念すべき第1回展は関ロ関口コオの切絵展であり、山本聿水、堀越呼雲、台伸八、久保繁造らの書画が会場を飾った。おくれて横尾裕平の裸婦像や能面なども加わった。まことに感動を呼ぶ展示であった。
 この展示は1カ月間を特約するもので、それ以来、個展ないしグループ展が今日まで続けられている。また、この展示作業は出品者および所属グループの仲間や、桃林の会の会員そのほか展覧館に心を寄せる人びとの協力で行われる。
 このとき、牛伏山を中心とする新しい地域づくりと、群馬展覧館事業の一環として、外部へ働きかける文化的な幅広い活動について構想を提案、数次の検討会議を経て「桃林の会」として第一歩を踏み出すことになったのである。


牛伏山を文化、平和のシンボルに

 いま、日本の経済力は世界一といわれる。だが、残念なことに、どうも「日本は不遜になった」「おごりたかぶっている」という批判にさらされているという。これではせっかくの経済力を身につけてもかたなしといえよう。
 何が欠けているかと言えば、文化的側面が信用するに足らんということにあるという。そこで、日本が真に大国として認められるためには、この経済力を背景として文化大国、平和大国になる必要があると思う。文化と平和をもとに世界に貢献することが、経済大国日本の大きな課題となっているのである。
  これを国内的にみれば、日本各地で文化活動を盛んにする必要がある。平和日本にふさわしい活動をすることである。それによって各地の活動がたがいに刺激し合い、一層向上発展することができるであろう。つまり、文化、平和のオリンピックをすることであるといってもよいであろう。国内のこのような活動が盛んになることが、さきの批判に応え、改めて日本が真の大国として認められることになると思う。
 幸い吉井町に牛伏出があり、文化・平和のシンボルとして、かつ、聖なる出として歩み出している状態にある。挑林の会では、この牛伏出を文化活動の拠点、平和のトリデとして位置づけた。挑林のいわれは、古代中国周の武王の時「帰馬于華山之陽、放牛于挑林之野」=馬を華山の陽に帰し、牛を桃林の野は、私たちの考えにぴったりの言葉であったことから、これを活動の精神的よりどころに置き、会名を桃林の会と称することにしたのである。
 この精神は徳川時代の出発にも生かされ、戦国時代を終了し、平和な治世を願うことから「元和偃武」という称号が使われたことでもわかる。つまり、挑林の精神である。
 すでに牛伏山には牛が放たれ、挑林の野にふさわしい挑の木も植えられている。まことに挑林の会の拠点にふさわしい地なのである。私たちは、ここに新しい地域の誕生を、文化・平和のトリデとして築いていくことを、世界に向けて宣言するものである。


遊歩道に歌碑を建てる

 遊歩道は牛伏山の北側斜面に5コース、約1,800メートルある。ここに歌碑を建て、牛伏を訪れた人びとに心から楽しいときを過してもらいたいと願うのである。歌は必ず牛伏山に登って詠じたものであること、相当の作歌歴ないし活動をしている人であること、建碑費用は作詞者やそのグループの負担もあるが挑林の会でも負担するなどが条件である。年間3〜4基宛、今後10数年は続けていく方針である。すでに実施したものは次ぎの通りである。
 第1号 山下和夫(短歌)昭和61年12月14日
 第2号 時枝 顕(短歌)昭和62年4月14日
 第3号 吉田末灰(俳句)昭和62年10月(末)


映画会の開催

 これは挑林フォーラムの一環として行うもので、社会問題、教育問題など今日の日本で考えていくべき話題の映画を選んで上映する。そのあとで感想や意見を交換しあうものである。すでに実施したものは次の通りである。
 第1回 大沢豊監督制作「青空学園物語」 昭和62年1月15日
 これは戦後、孤児の収容されている寮生活を中心に、孤児たちの底抜けに明るい生活を描いたもので、まわりの大人も、貧しいなかにも孤児を暖かく見守っている。とくに、食堂経営(といっても名ばかりのような状態)の一老人が孤児に対してとった行動は感動せずにおれないものであった。鑑賞後、大沢監督の解説と講話があった。
 第2回 大沢豊監督制作「せんせい」 昭和62年3月21日
 これは若い女性教師が希望をもって教壇に立ち、島の子供や親たちから大きい信頼を受け、幸せな教師生活を送るが、不幸、がんにかかり、いままさに息絶えんとするところを、見舞いに来た子供に「先生の教えだから目をそらすな、しっかり見るのよ!!」といって絶命。まさに教育とは何かを問うものがあった。


桃林シンポジウムの開催

 これはそのときのテーマによりパネルディスカッションするときもある。
 第1回 昭和62年3月21日 パネルディスカッション
 テーマ 「経済大国から分化大国への歩みについて」
 パネリスト
  NHK報道部カメラマン 石井長世
  小金井第一中(美術)  綿貫公平
  高崎短大(音楽)講師  金城 厚
 このときは日本の現状が鋭く分析された。国土荒廃の大きな原因は、「消えた鎮守の森」を象徴する石井の主張で、彼によれば、日本はあるとき神社の合祀をしたため、それまで常に身近にあった神がいなくなり、やがて、神のいない森は神木さえも伐られて消えてしまったこと、つまり、それによって日本人の心に「おそれ」がなくなってしまったことであるという。この復興を図るためには文化活動をすすめる以外に道はないのではないか。

 第2回 昭和62年5月30日 シンポジウム
 テーマ「吉井町としての魅力ある地域づくりについて」
 出席者
  吉井町商工課長    角倉 孝夫
  群馬県地域振興課長  勅使河原司郎
  高崎哲学堂      熊倉 浩靖
  高崎計算センター社長 井上 安平
  陶芸家(東京)     狩野 炎立
 まず、吉井町がかかえる問題、基幹産業構造の変化、大型店進出と旧商店の衰退などに(角倉)
 上越道開通に伴う対応策について、観光問題、東京1日往復、首都過密の地方分散など早急にプロジェクトチームの必要性(勅使河原)
 伝承文化と国際交流における諸問題、吉井町の多胡碑をめぐる問題、国際姉妹都市構想やアイデンティティーについて(熊倉)
 これらの諸問題解決に立ち向う態度の底辺に、熊倉も指摘するように、文化の復興と各地各国との交流が急務であることがわかる。

 第3回 昭和62年6月15日 講話
 テーマ「『老い』を語る」
 出席者
  写真家(老人問題追及)   田辺順一
  まほろば(老人福祉)理事長 加藤道子
 田辺の「寝たきり老人」の写真は強烈で、とても正視できないようなものがあるが、なぜこれを10数年も追い続けているか、人の老後をどうするのか、また、老人福祉に生涯をかけている加藤の悩み。
 誰もが迎える問題、家族や社会はどう対応するのか、政治はどうなのか、深刻である。


イベントまんだら展シリーズ

 陶芸家狩野炎立の企画。聖なる山・牛伏にふさわしいイベントとして、挑林の会が実行委員会となった。
 その1 昭和62年5月31日〜6月10日 洞窟内
 ねん土による造形、来観者にも自由に参加してもらう。各自の願いを込めて、形に、ことばに、刻み込む。参加約300人。
 その2 昭和62年8月15日 牛伏山頂広場
 炎とともに、「自己」をみつめる、野焼きまんだら、その1で造形したハニワを焼き上げ、同時に、煩悩をも灼き尽くし、純粋な人間に立ちかえる祈りをこめた祭典で、本シリーズの中心でもある。300人をこえる参加者。
 当日、午後6時50分、打ち上げ花火とともに、僧侶の読経、代表の香華奉拝、かがり火からの導火線による着火、厳粛な儀式である。やがて、火が燃え上がれば、わりさや・うらのフラメンコ一行が踊りを奉納、これも次第に踊り狂うようで、参加者も踊りの輪に入る。
 その3 昭和62年9月1日〜30日 展示、群馬展覧館
 ともに未来を生きる。人、ひとのまんだら展。
 このまんだら展シリーズ、とくに、その2の野焼きまんだらでは種々の問題があり、今後のイベント実施のよい先例となった。経費のねん出(約100万円)役員、作業員の動員、警察消防、地域への協力依頼等、そのほか困難な問題が非常に多かった。


桃林の会文化活動実践後の感想

 桃林の会は誕生して漸く1年を経過したところである。人間が生まれ、やっと「立っち」した状態であろう。未熟な成長のなかでさまざまな経験をした。以下、思いつくままの感想をあげてみたい。
(1)桃林の会に参加する人はほとんど初対面の人が多い。これが百年の知己のごとくふるまえるたのしさ。
(2)芸術、芸能関係が多いが、自らの技能に対する誇り、自信、豊かな人間性、生きる強さに教えられるものが多い。
(3)難題が多かったが、誠意をもって当たれば人は動いてくれるということ。
(4)常に人の和が、結果をも左右すること。
(5)アイデアを豊かにもつこと、思考の柔軟さが大切であること。
(6)指導者の卓見、リードもまた必要である。
(7)若人の参加が大いに望まれること。
(8)多様化されたニーズに応えられるメニューが用意されること。
などである。


今後の活動構想

 地域づくりという大きな課題に対して、単線的な文化活動では人びとの多様なニーズに応えられないし、桃林の会の発展性もないと考える。そこで、次のような活動を企画し推進してみたい。その場合、基本的態度は、牛伏山が文化と平和のシンボルであり、桃林の会はこれを世界に向けて発信しているのだという自覚をもつことである。
 活動の態様を基本的な3つの柱にまとめると。
(1)桃林フォーラムの開催
(2)桃林アメニティ構想の具体化
(3)桃林のトラスト構想の推進
になるであろう。その内容について具体的な活動を考えると次のようになる。
(1)に入るもの
@桃林文化フォーラム、Aシンポジウム、B桃林大学、C礼拝記念講演、D桃林映画祭、E桃林音楽祭、F桃林文化祭、G桃林女性合議、H桃林国際フォーラム、I桃林芸術教室、I桃林憲章制定、I桃林メッセージなど。
(2)に入るもの
@桃林芸術村建設、A桃林児童の園建設、B桃林の小径(歌碑建立)整備など。
(3)に入るもの
@吉井町と甘楽町小幡地区との歴史文化トラスト。A吉井町と高崎市との歴史文化トラスト。B吉井町と藤岡市との歴史文化トラスト。C国際姉妹都市交流、(吉井町は多古碑を考えれば、先ず韓国との交流を実現したい)など。


まとめ

 とにかくいろいろなことに体当たりしてきたというのが実感で、そのなかで経験したことは非常に啓発されるものであったが、困難なこともあった。桃林の会の現状ではなかなか容易ならざるものがある。
 とくに、魅力ある地域づくりに関するものは、行政、農工商にたずさわる人びとの参加、協力がぜひ必要で、その点、吉井町商工課長、群馬県地域振興課長2人の出席を得たことは、職務上とはいえ、大きな感謝に堪えない。また、その示唆に富む提言は百万の援軍を得た思いであり、深く敬意を表する。もちろん、種々な機会に出席された各位に対し心から感謝と敬意を捧げるものである。
 今後、いろいろなイベントが企画されていくが、内容を豊かに、質の高いものを心がけ、より多くの人びとの参加を期待している。こういうボランティア活動はどうしても資力に乏しく、情報伝達が不十分で、専ら口コミに頼ることが多いが、そういう点では、上毛新聞社同グラフ群馬をはじめとする各新聞社やGTVのときどきの取材報道は非常に大きいものがあり、今日まで多大の恩恵を受けたと思う。記して感謝を捧げるとともに、今後のご支援を重ねて願いたい。
 また、他町村の行政関係はもちろん、文化団体との連携がいっそう効果をあげると思う。
挑林トラストの推進は急がれる問題である。
 まったく、やりたいことは山ほどあるが、それを進めるエネルギー(人的、物的動員力)がまだまだ不足しているという厳しい現実である。