「ふるさとづくり'88」掲載
奨励賞

米子ワイワイ音楽漬け
鳥取県米子市 米子音楽祭実行委員会
スタート

 音楽で町は変わらない。けれど、なにかを変えるきっかけにはなるだろう。
 山陰といえば、イメージが暗く、陽も当たらないような感じで、なにかにつけ損な文字である。
 鳥取と島根は同じ山陰のせいか、よく間違われ、テレビを見ていて東京のアナウンサーが「しまね県の米子市」などというと、土地のボクらは面白くない。
 ナニ!全国的にみれば、似たようなものだといわれれば、それまでだが、ボクたちはその山陰のなかの人口13万の米子市に住んでいて、松江に近く交通の使が比較的よいから、米子は昔から商人の町として「山陰の商都」などといわれ、それ相応の繁栄を続けたから、みんな良い気になっていた。
 だが、近ごろ商いの様相がドンドン変わって、店舗は大きくなって郊外へ移り、昔からの商店街がさびれて「不景気ですなあ」とボヤいているうち、次第に町全体が落ち込み、本当に困ったことになりはじめた。
 最近、どこでもまちづくり運動が盛んで、米子でもそれらしい運動はあるけれど、一体どうやったら町が活性化するのか誰も判らず、みんなイライラしている。ボクらも、初めから大上段に構えたわけではないが、それぞれ小さな会社なんか持っているから、寄ると米子の振興策などを話し合った。けれど、まちづくりなんて話は、理屈をこねるばかりで先へ進まないのが常で、いい加減うんざりしていた。


音楽漬け

 ボクたちは、大体が音楽好きで、例えば、朝食はクラシック、昼にはポップス、一日の終わりはジャズで高揚といった使い分けで楽しむことにしているが、音楽は気分が良く、素直な気持になるのだから、これからはまちづくりの話も音楽を聞きながらやろうじゃないかということにした。
 大体、米子の町には、コンサートを開くにも適当な会場がなく、みんな隣の松江市に行ってしまう。米子はいつも素通りなのだ。山陰の商都などと威張っても音楽過疎地なのだ。一丁、まちづくりは、3,000人くらい収容できる大ホール作りをやろうじゃないか、という声が出るのも当然だった。
 だが、待てよ、3,000人のホールといえば、これは何10億円かかるかも判らんし、そんなものが出来上がるまで一体、何年待たなきゃならんだろう。子供のころ町の中の空き地で遊んだものだが、遊び道具なんてなくても、石けり、かくれんぼ、陣取りは勿論、ミミズをひっかける実験など、みんなで工夫して次々に考え出したもんだ。
音楽だって同じなんだ。大ホールがないから良い音楽が聞けない、ライブが聞けない、なんていってたら、いつまでたっても聞けないぜ。商店街のど真中だって、喫茶店の隅だって公園だって、どこでも会場になるんだ、空き地遊びの発想で、街全体をプレーランドにしよう。議論のいき着くところは、こういうことだった。「そう、街全体を音楽漬けにしよう」いまでは誰が言いだしたか忘れたが「音楽漬け」という言葉にみな熱中した。


漬け物じゃない

 1984年(昭和59年)の春、米子音楽祭実行委員会ができて、5人の委員が米子市長に会いに行った。市長室の少し重々しい調度のなかで、ボクらは音楽祭の話を切りだした。
「市長、ボクらは誰もが子供のころから音楽のなかで育ち、毎日音楽にとりまかれて暮らしていますネ」
「ウン」
「若いころは、ロック、ジャズに熱中したり、楽器に取りつかれては友人同志の話題にしたものですが、大きくなるとそういうものから遠ざかり、結婚して子供でもできると、もう生活のなかから音楽が消えてしまいます」
「市長、松田聖子ってご存知ですか」
「?」
 こうして、ボクらは米子の街を音楽で一杯にし、音楽漬けによって失われた活気を取り戻すプランを説明した。
 秘書課長も聞いていたが、「その音楽漬けってのは、どういう漬物になるんかネ」と聞いた。
 あとで、市役所はじまって以来の珍問答といわれたが、やりとりの末、市長は、
「よし、50万円出そう」
といってくれて、これが米子ワイワイ音楽漬けの出発合図になった。
         ◇           ◇
ボクらは、芸能界や歌手の世界のことは何も知らず、プロのミュージシャンを呼ぶにはどうやってよいのかも判らなかった。
 それから、各自、自弁で東京行きの夜行列車に乗り、片端から芸能プロとか、個人の事務所とかを尋ね歩くことになった。


1985年9月

 3年前の昭和60年9月、第1回の米子音楽祭が、市内13会場で開かれた。やってきたミュージシャンは
ラッツアンドスター
坂田明オーケストラ
 ハップ ハザード
 伊藤京子(ピアノ)
 田中星児と真理ヨシコ
 長谷川きよし
 高木三希 等々

音楽漬けにふさわしく、ジャンルはさまざまである。そして「語りと歌の夕べ」のキャラクターとして笑福亭鶴瓶も招いた。
 はじめ、ボクらが持ち込んだ飛び入りのスケジュールには、てんで相手にならず追い返されたりもしたが、何度もやってくる可笑しな連中の話を聞くうち、そういうことなら、と一肌脱いでくれた人たち、出演料もずい分勉強してくれた。
 13の会場は、ホテル、体育館、結婚式場、工場の倉庫、公園など思いつく所はすべて交渉してまとまったものばかり、街のあちこちに散らばっているから、ねらい通り、街全体が音楽でいっぱいという感じになった。
 5人ではじめた実行委員会は、1年の間に170人くらいにふくれ上がり、主婦、医者、学生、商店主など市民層に浸透し、チケット販売に大きな力となった。チケットといえば、13会場ごとにいちいち入場券を作っていては大変というので、どの会場にも通用するフリーパスカードにした。1枚3,500円、170人が手分けをして売るわけだが、ほかの準備の仕事と比べて、これがやはりつらかった。それでも3,570枚が売れて1200万円、このなかには笑福亭鶴瓶さんが大阪で集めてくれた50人の会員も含まれている。


ワイワイ音楽列車

 2日間の音楽祭は、音楽が流れる街のなかで人びとの表情も良く、ボクらの街は久しぶりに生き生きしているようで、嬉しくてたまらない。これなんだネー。みんな手探りで不安だったが、やってみたらできたじゃないか。名もない市民が街づくり運動を、音楽祭をがんばったんだ。
 やってきたミュージシャンだって、こういうのこそコンサートの原点だと関心してくれた。来年も来てやるといってくれた。
 たった2日間だったが、その2日のために、大勢の米子市民が1年がんばったのだ。誰もがこの街の良くなることを願って連帯し、隣の松江に行っていたコンサートを、この町で開いたのだ。でも、一年目は勝手が判らなかったせいもあって、規模を広げすぎ、チケットはよく売れたのに結局300万円の赤字が残ってしまった。
 2年目の去年は、会場を整理し、ミュージシャンを厳選して少し規模を縮小したが、そのかわりといったら変だが、新しい企画として、「音楽列車」をやった。
 5両編成の列車の一両一両にライブ車両、セッション車両、フォークソング車両など名前をつけ、バンドが乗りこんで乗客と一体となって演奏しようというものだ。米子から境港まで20キロ足らずのローカル線があって、JRも増収になるので大のり気。「米子ワイワイ音楽列車」の看板をあげ、400人の市民参加でもり上がった。
 動くライブ、移動音楽会としてテレビ、新聞も取り上げてくれて有名になった。乗客の条件として、何か音も出る物を一品持って乗り、聞くだけでなく、自分も演奏に参加することにしたのが当たったのかもしれない。
 ついでに、本当の漬物も作った。中身は、音楽祭と同じように何でもぶち込んだ「やたら漬け」だったが、これに音楽漬けのラベルを張って、1袋300円で売り出したところ、これも好評でボクらはすっかり嬉しくなった。思えば、秘書課長の一言がヒントのようなものだ。
 言い忘れたが市長の補助金は2年前には、100万円にアップした。加えて3年目の今年は県から80万円出るようになった。2年目の収支はトントンだったが、今年は少し赤字になるかもしれない。
 最初の年の300万円の赤字は、みんなでハンコを押して借金し、それで決算したが、いまもその返済は続いている。
 だが、坂田さんにしても、鶴瓶さんにしても、この音楽祭が気に入って「来年も来るからね」といってくれるので止めるわけにいかないんだ。