「ふるさとづくり'87」掲載

21人のむらおこし
岡山県 わるさ神の会
町のシンボル荒戸山の麓で

 私の住む哲多町は、岡山県の西北部、中国山脈の峰嶽起伏している山地のなかにあり、国道や鉄道などの主要幹線にも恵まれない田舎町である。
 昭和30年3村(新砥、萬歳、本郷)合併当時は7800人もいた人口が、現在では4500人ほどに落ちこみ、典型的な過疎の町となっている。しかし、その過疎化も近年鈍化し、Uターン現象も手伝って、いまでは人口流出も落ちついている。もっともこれ以上少なくなったら自分も出ていきたくなる。
 大字大野、田渕を一緒にして大田(小学校区)という。この地区は田舎町哲多町でもへんぴな地区である。町のシンボル「荒戸山」(標高762メートル)が地区の中心にあり、その山麓に広がった平均標高500メートルの台地で、自慢というと風光明びな空気と水のきれいなことである。
 戸数190、人口700で町内では耕作面積も広く、以前は専業農家の多い地域であったが、現在ではそのほとんどが兼業農家に変わり、共働きも多く、年寄りが農業に専念し、若い者は近隣の新見市などに勤めに行っているのが現状である。
 12・13年前は、若い者の集まりである青年団は名ばかりで、団員もいないのがこの大田地区であった。昭和50年前後して、Uターン青年が少しずつ増えてきた。この若者たちは、懐かしさから毎日集まりよく飲んだ。その酒の場から青年団活動に発展した。若い者はまったく見えなかったのに呼びかけてみると30数人もの者が集まってきた。これはえらいことだと、呼びかけた者も集まった者もうれしさに驚いた。これだけ若い者がいれば何かできるぞと、廃れかけていた青年団活動に力を入れていった。
 最初は、スポーツ・レクリェーション活動が中心で野球チームも作った。このチームは県の青年祭で優勝し中国大会に出場するなど、田舎者でもやれるものだとみんな自信をもった。以後、学習活動も取り入れ仲間づくりを進めていった。まだ町全域では、青年文化察も開催して劇、歌、踊り、展示など多彩な催しを行い、町民から賞賛をあびたのもこの時代である。奉仕活動もよくやった。これらはいまでも後輩たちが受けついで頑張っている。


なぜ“わるさ神の会”なのか

 みんな、青年団活動もできない年齢になってしまった。しかし血気盛んな者たちばかりで、このまま黙っていようはずがない。もう自分たちはしっかり遊んできた。そして気心しれた仲間もたくさんできた。このへんで地域のため、子どもたちのために何かをやろうではないか、という気持ちが数年前から高ぶってきた。
 では何をやったらいいか。咋年の11月頃から数人寄って考えた画地域を見なおす活動をと出た結論は、やはりこの広大な土地を生かしていこう。話すだけでは“むらおこし”はできない。実践をやらなければならない。土地を生かすのなら特産物づくりということになった。会の名称もいろいろ考えた。われわれは荒戸山山麓に根をおろして生きていくのだから、この荒戸山にまつわる守護神“わるさ神さん”からいただくことにした。この神様は、荒戸山の項上から瀬戸内海の笠岡沖に玄武岩を投げては舟を沈めて喜んでいた。いたずら好きのユニークな神様である。
 われわれもこの神様にちなんで、いたずら気分で“むらおこし”に挑戦してみることにした。仲間は昭和23年生まれ以降の既婚者とした。なぜ昭和23年で切ったかというと、発起した仲間の最年長者が昭和23年生まれだったからである。またなぜ既婚者なのかというと、独身者はもっと遊ばせてやれ、われわれが力いっぱい遊んできたからとの配慮からである。
 こうして、地域内に32人の該当者がいたが、そのうちの21人の賛同を得て『わるさ神の会』が発足した。


プルーンを植えた

 この大田の地を生かすには、土地を生かす仁はと毎日のように集まり研究した。
 当地区には養鶏、牛の牧場が非常に多く草地もたくさんある。その中の一つ(3.4ヘクタール)が空いた。早速地主にわれわれの考えを話したところ快く賛同を得て借り受けた。
 本町では、昭和60年度から町の特産にしようとプルーンを推進している。そこでわれわれもこれに乗り、町をあげての事業にするための先駆者となることにした。
 町にもお願いして、プルーンの苗800本(2.6ヘクタール分)、リンゴ100本(0.3へクタール分)、梅300本(0.5へクタール分)を補助していただいた。
 それからが大変である。全員はそれぞれ仕事をもっており、勤めを終えてからの作業である。しかし、みんな自分から進んでやろうと言いだした者ばかりで、タ方からの重労働なのによく出てくる。これには本当に鷺いた。
 2月の初めから作業を開始した。3.4へクタールの草刈り、草焼き、耕運は牧場の大型トラクター2台を借りた。苗木を植え付けるには土盛りをやらなければならない。これは全部人力、全員スコップを持って1200ヵ所の土盛り、これは大変だった。支柱となる竹1200本の切り出しなど慣れないことをみんなよくやった。3月の下句には植え付けも終わり、消毒も20日に1回程度行い、現在では苗木も見ちがえるほど大きく成長した。
 この間、子ども、妻たちとも一緒に作業をやり、家族のコミュニケーションが思わぬところで図れたような気がする。
 植え付けが終わってから、活動の拠点となる自分たちの館がほしいという話になった。これをどうするか。いまは金もない。そこで古い電柱、間伐材を集めてログハウスを建設しようということになった。
 幸い会員のなかには大工3人、電気工事屋2人、大型ユニックを持った者もいる。毎日のように、あちらこちらでいただき、80本の電柱を集めた。間伐材も奥深い山のなかまで取りに行った。今年は10年分の仕事を一度にやったような気がするとは全会員の本音だろう。
 こうして8月24日にめでたく棟上げ式を行い、来賓も多数招き、餅4斗をまくなど、地域人々、家族全員で喜びあった。
 今年中には完成させようと、いまも間伐材を集め回っている。


なぜ“むらおこし”なのか

 郷土を愛する21人の若者がいま立ち上がった。ただ飲むだけに集まっていた者たちが地域づくり、そして自分たちの子どものためにと行動を起こし始めたのである。本町も、企業誘致、産業振興など、手を変え品を変え、以前から力を入れていたが、企業も人手がない。交通の便が悪いなどでなかなかきてくれない。産業にしても、米づくり主体からはそうそう脱皮はできず、昔からの牛、トマト、椎茸ぐらいのもので頑張ってきたのである。しかし町もここで新しいものに目を向けた。それがプルーンである。 
 町が力を入れる以上、われわれも町の一員、行政と一緒になってやって行かなくてはなるまい。行政はとかくキャッチフレーズと補助金だという時代にあり、そのキャッチフレーズを本物にしていくのが、われわれ住民の努めだと感じたのだ。
 プルーン栽培も、一戸一戸の農家が畑の片隅に植えていたのでは、とうてい町の特産にすることは不可能であろう。われわれのような、20代、30代の者が行動を起こさないでどうする。そんな気持ちが一つになったのだ。
 地域の人々も最初は、若い者がまた大変なことを思いついたぞ、どうせ最後まではやるまいとうわさしていたが、いまではプルーンの畑もきれいに整備され、ログハウスも半分完成した。これを見て、「みんなよくやる。若い者はこうでなければ」とほめてくれる人も多くなり、間伐材の製材や、電柱の寄付をいただくなど理解と協力を得て、地域を上げての活動にと展開しつつある。
 このプルーンがどれだけのお金になるものかまったく分からない。しかしこの事業に取り組んだ主たる目的はお金にあらず、地城住民の心を変えていこうとすることに大きな目的がある。子どもたちが親をすばらしい人間だと感じてくれ、好んでこの地に残ってくれるような地域づくりのための一役になればと思っている。


田舎は変わるし変えなければ

 何事も国がやってくれる。県が、町がやってくれる。やってくれなければ行政が悪いのだという考えはまったくなさけない。小さな行動でもよい。自分たちの住む地域を自分たちの住みやすいように実践をやらなければなるまい。
 われわれの取り組んでいる事業は小さなことかもしれないが、こんなことでも地域住民はもとより町内外から注目を集めているのは事実である。これを機に活気ある地域に変えなければ、田舎に住んでる意味がない。自分たちの前にはどうにでも変えることのできる自然があり、すばらしい人と人とのつながりがある。
 年寄りのなかには土地というものに大変な執着を持っている人が多く、以前は基盤整備もままならなかったが、われわれのわるさ神の会のように若い者が集まり、話し合い、年寄りの気持ちも変えることができ、この大田地区もどんどん基盤整備がすすみ大きく変わろうとしている。もう一人で農作業に精を出す時代ではない。協同で取り組めば楽しいものだ。このことをもっともっと多くの人に分かってもらい、地域を上げてのコミュニティづくり、人づくりにわれわれ「わるさ神の会」は力いっぱい頑張ってみたい。