「ふるさとづくり'87」掲載

瑞穂の自然をくう会
島根県 瑞穂の自然をくう会
田舎喪失、人間喪失の村

 「田舎のない都会の人間は気の毒よノー」「田舎に飢えとる町の人を瑞穂町へ連れてきて喜んでもらう方法はないだろうか?」。
 都会が失った自然や人情、田舎が失った人材や活力、このふたつがドッキングしてともに楽しみながら、失ったものをとり戻すことはできないか……。そうした想いが『瑞穂の自然をくう会』という形になり、昭和58年10月に第1回を始めてからこの秋で7回を迎えた。
 春の山菜、秋のキノコを主役にしながら、年2回の開催には広島、大阪、北九州など広い範囲から400人を超える方が訪ねてくるようになった。
 毎回毎年500人を超える方をお断わりしなければならないまでに成長したこのイベントがどうして、なぜ生まれたのか、以下ご報告をしたいと思う。
 私の住んでいる町は島根県邑智郡瑞穂町。中国山地の真っただ中の広島県境で、山林が町のほとんどを占める典型的な山林である。ご多分にもれない過疎の村で、米と木炭に頼りきった山村がたどる道を歩いてきた人口半減の過疎村である。
 過疎が環境破壊現象にとどまらず、人の心をむしばむことは多くの人にいわれてきたが、その通り「活力」や「ヤル気」も一緒に失ってしまったといってもいい。そうした一方では、都会なみに“隣は何をする人ぞ”という個への埋没となり、田舎らしい人情の豊かさまでも次第にうすくなってきている。こうした状況に立ち向かったのが「自然をくう会」であった。
 瑞穂町は行政もこうした“田舎喪失、人間喪失”ともいえる現状打開のための切り札として、公民館活動に力を注いでいた。この町は5つの旧村が合併して生まれたが、この旧村単位に公民館を建設し、ここにベテランの非常勤館長と、若い元気な町職員の主事を配置して活動している。
 いろんな人たちが公民館を訪れ、放談し、お茶をのみ、語り合うなガからさまざまな学習グループや趣味のグループが誕生し、いわば地区民のたまり場、よりどころとして活気に満ちている。この人たちが、いわば“仕掛人”となって努力してきた延長線上に瑞穂の自然をくう会実行委員会が生まれ育ったことは否定できない事実である。


過疎を逆手にとる発想

 「ただ学習しているだけではおもしろくない。何か実践をやろうじゃあないか」成人男子学級の集まりなどでグループのなかからこうした声が出はじめた。長い時間をかけて学習活動をやってきたひとつの成果として自然発生的にこうした声がでてきて主事たちは「しめた!」と思ったにちがいない。
 熱心な議論のなかから、「自然をくう会」の発想が芽をふいた。過疎と過密が手を握る。そのふれ合いのなかから互いの失ったものを回復しよう。田舎を一番バカにしているのは案外そこに住んでいるわれわれじゃあないだろうか。田舎には都会になくなったものがいっぱい残されているんじゃあないか。いわば「逆転の発想」、過疎を逆手にとる発想が生まれてきたのである。
 「何をどのように手がけるか。」名案珍案百出し、笑いのなかで面自半分に煮つまっていった。実行体制は、成人男子学級のメンバーや有志と、「瑞穂のみやげをつくる会」ですでに活動している女性グル−プが合体して100人近いメンバーが集まった。
 そして第1回は昭和58年10月16日、亀谷山八幡宮の境内を使ってやるということも決まった。案内する対象は都会人、ここに焦点を当てることも決まった。幸い瑞穂町は人口100万都市広島に車で1時間あまりという地の利に恵まれている。
 さらに「何を食うか」ものちにのべるようなさまざまなコーナーを設け、実行委員が分担して準備することにした。ところが一番心配の種がふたつ未解決である。ひとつは、都市の人々にこの催しをどうやってPRするか。周知の方法がどうやってできるか、ということと、もうひとつは、町民がこんな催しを理解し、支持し協力してくれるか、ということである。
 公民館のこととて豊かな軍資金があるわけでもない。ましてや会の方針として、安易に行政に泣きつくのはやめようという鉄則もある。そこで関係者が、あらゆる知り合いにチラシを送り、電話を入れて呼びかけ、公民館に来られた人々をたよりに四方八方手をつくしてラブコールをおくることにした。幸いなことに企画のめずらしさに新聞各社も精力的に報道していただいた。「いくらなんでも50人ぐらいはきてくれるよ。万一のときは実行委員が一人づつ県外の親戚を連れてくればいいや」。あまり悲しそうな雰囲気もなく、遊びの精神旺盛なメンバーは気楽にかまえていた。
 ところが、こんなのんきな計画は公民館の電話のけたたましいベルとともに破たんしてしまった。広島市民からの間い合わせは引きも切らず、500人を越える方々から申し込みがあり、ついに断わりきれず300人を受付けてしまった。10月16日の実行日を目前にした10月13日。ことの重大さにやっと驚いた実行委員はエンジン全開で準備体制に入っていった。町民に対する理解や協力を求めるため、有線放送やチラシでの呼びかけがはじまった。


活気あふれる会場

 町内あちこちからキノコや、山ブドウ、柿、栗、柚子、イチゴなど、山の幸がどっさりと会場に運びこまれた。
 会場には300人の方がたんまり食べていただいてもいいように次のようなコーナーを設けた。地酒(2銘柄)、キノコ、ヤマメの塩焼き、猪や地鶏、和牛などのバーベキュー、おにぎり、きねつきもち、栗やイモ、トウモロコシの焼き焼きコーナーなどなど。これにアトラクションの右見神楽や、老人グループによる創作(ワラ細工)、ゲームなどを加え、開会の10時から開会の3時まで十分堪能していただけるよう心をくばった。
 その後2回目以降は、さらにコーナ下が増加し、山賊ナベ、キリタンポ、手打ちそば、焼きそば、トウフなどが加わったほか、「春の山菜も食べたい」という参加者の希望に応えるため春にも開催するようになった。
 「きたい人は全部参加させてくれてもいいのに」という方もいる。しかし私たちは素朴な田舎の味を失いたくない。金もうけ本位の仕事にしたくない。田舎の切り売りはしたくない。
 そんな気持ちから、心をこめて100人の実行委員が応待できる限界を400人においている。だから参加者から「この会に参加するのは東大の入学率なみのむずかしさだ」と笑っていうのもあえてやむを得ないと思っている。
 会場は第2回以降、八幡宮からさらにゆったりした瑞穂青少年旅行村に移り、こせこせごみごみしだ都会生活を忘れ、家族づれ、仲間ぐるみで、どこまでも深く広い青空のもと、芝生に腰をおろして地酒にホロりと酔いながら、いきいきと人間万歳と語歌する姿に実行委員は無上のよろこびを感じる。


広がっている「端穂の輪」

 遊びの精神では長続きしない、早く企業化をという人もいる。勿論、山の幸など一切の材科代は支払うとしても実行委員は完全なボランティアである。しかし、こうしたイベントを通じて、瑞穂の産物が都市住民に愛されるようになり、この人々を“瑞穂ファン”にしていくことができれば、有形無形の収入がもたらされるはずだとわれわれは信じている。
 だから、この会は春秋2回のイベントがトントンで収支ととのえば最高だと思っている。あとの直会の緯費が若干残ればこれに過ぎたるはない。
 この会から「年の瀬ふるさとセット」という、いわば自然をくう会の出前が正月に希望者あて宅配便で届けられるようになったのをみても、確実に輸は広がりをみせており、年々増えるセット申し込みに、準備が追いつかないといううれしい悲鳴もきこえている。
 加えて忘れてならないのは、幅広い参加者のなかにおられる大学の先生や医師、弁護士、会社役員、官庁の役員さんなどこうした方々が、瑞穂の公民館活動に講師人として助っ人していただくなど、われわれはまたチャッカリと都会の文化を食っているのである。
 第7回でも団体水泳の名選手が参加者のなかにいて、「お礼に水泳のコーチに来ますよ!」と声をはずませていってくれた。
 会費とゴミのほかにも都市のさまざまな文化をさまざまな形で残していただいている。「さいならー、まだ来ちんさいよ−」
 揃いのエプロン姿の実行委員に見送られて笑顔いっぱい帰っていく人々の心のなかに、ふるさと瑞穂のほのぼのとしたみやげをいっぱい詰めていて下さるように祈らずにはおれない。
 「まだ来年もやろうぜ!」。静まった旅行村に夕やけ雲があかいころ、実行委員ははずむ心であとかたずけをはじめるのだ。