「ふるさとづくり2005」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

高齢者のふれあいの場
和歌山県橋本市 ひだまりの会
居場所づくりが必要だ

 高野山の麓、和歌山県の北部にある橋本市東家は、昔ながらの家並みが続き、車の対向に苦労する旧道があります。旧道を行くと四方に広がった路地があり、その奥まった所に白壁の蔵、南向きの広い縁側から見える庭、台所にはかまどがあり、今の高齢者の若い頃の生活がそのまま残っている空家が、平成9年11月に開所しました。『ひだまりの家』です。
 同年9月、ひだまりの会を設立に至る経緯を辿ってみたいと思います。
 開所2年前の平成7年。ホームヘルパーとして採用され、福祉に携わったことのない同期の仲間同士で、身体で覚え、頭で理解できにくいケースを持ち出し、勉強会に回を重ねておりました。当時は、今のように入所する施設も少なく、ほとんどが在宅介護で、24時間家族介護の大変さ、苦しみ、また、本人の辛さ、一人暮らしに襲う孤独・不安等々でした。胸にしまいこんだ数々の辛さは、私たちの訪問と同時に、一気に吹き出しそうでした。
 訪問時の顔と、私たちが仕事を終えて帰る時の顔は、胸の内を打ち明けることによって表情が変わっていました。
 少子高齢化が進み、路地で遊ぶ子どもの姿がなくなり「遠い親戚より近くの他人」と言われた深い近所付き合いもなくなり、親子・夫婦・人間関係がますます希薄になりつつある現在、大きな家に住んでいても心は隅に追いやられ、住み慣れた地域で、地域の人に見守られながら、その人らしい人生の幕が引きにくくなって、口を開けば「早くお迎えに来てほしい」という辛い言葉を耳にしなくてはなりません。
 そんな問題の解決の一つに居場所づくりが必要だと思い、空家を探しました。この提案に同期の仲間は賛同してくれ、私たちの主旨に共感してくださった家主さんの好意により、無償で借りた家は大きな追い風となり、着々と準備を進めることができました。最低必要とするものは、スタッフで持ち出し、水道・ガスの引けない不自由さも主婦の知恵が生かされ、4人のスタッフは生き生きし、自分たちの夢をも託す、場づくりになり、開所の運びとなりました。
 開所前の大切な準備の一つにひだまりの会の決めごとがありました。それは2年という浅い経験ではありましたが、職場で、訪問先で感じたこと、聞かせていただいた一つ一つを持ち出し練り合いました。
 まずスタッフ側の家族の理解、家庭を持つお互いですからどんなことがおきてくるか分かりません。家庭を最優先にすること、運営もスタッフの特性が生かされるよう、全員がリーダーであり上下関係は持たないよう、また、利用してくださる方の心や身体の変化の対応について、参加費の問題、ひだまりの家と利用者の経済事情も考えなくてはなりません。地域外の受け入れ、送迎、利用人数の対応、家族や地域の理解、昼食・配食サービス、ちょうどO-157が大きく騒がれていて食事サービスについては、大きなネックになりました。
 課題は数限りなく出てきました。「できない」「来れない」「出せない」より、「できるよう」「来れるよう」「出せるよう」、無理のないように、あくまでも利用してくださる高齢者の方々が主人公ですから、意見をいただきながら、皆様の希望に答えて喜んでいただける場に進めてきました。
 開所日も、月2回の午後からのスタートが、現在は、週2回になり、楽しんでいただいております。


お喋り、歌、昼寝を楽しむもう一つのわが家

 翌年の5月、一人暮らしの方のことを思い、手作り昼食サービスを行なったところ、第一声は、「上げ膳・据え膳でみんなの顔を見て旅館気分や」。その声に昼食サービスを行なうことに決めました。皆さんにいつまでも元気でいていただくためのもう一品は、私たちの元気さだと信じております。心や身体の縛りのないよう、お喋りを中心に、歌を歌ったり、昼寝をしたり、自由に「もう一つの仲間のいるわが家」として親しんでいただいております。
 住み慣れた地域を離れた方が、若い頃の仲間を求め、県外からも電車を利用してで来てくださる方や、地域以外の方も外出支援サービスを利用したり、スタッフの送迎で利用していただいています。
 現在、昼食・配食サービス、相談、助言、行政のパイプ役、事業所・病院の連携、看護師さんによる月1回の健康管理、在宅支援センターの応援を受けたり、多くの関わりをいただいています。ふれあいサロン事業の助成を受けるようになってからひだまりの財政もうるおいを増し、昨年よりカセットコンロからプロパンガスに変わり、スタッフの数年の夢であった湯沸かし器が設置され、遅々たる歩みの中、8年目を迎えることができました。


地域の中で地域の人に支えられ

 8年も経つと様々なことや、変化があります。その一つが、避けられない死との向かい合いです。ともに過ごした仲間とのお別れは、心に大きな動揺があります。
 Aさんは83歳とは思えないくらい身体が柔らかく、体操をしたり、歌の指導につとめてくださっていました。3年前、ひだまりの行事の一つ、暮れのお餅つきに、自ら杵を振って思い通りのお餅ができたと喜び、近所の方々に振る舞い雑煮をされていたそうです。1月8日、開所初日の朝のこと、布団の中で苦しむことなく亡くなられていました。子どもさんのいらっしゃらない方で、一人暮らしのため、常日頃、自分の行く末を案じておられました。仲間からは、「心配せんで、ひだまりで何とかしてくれるわよ」そんななぐさめがどんなふうに受け止めておられたのでしょう。本人の心配もよそに、ひだまりの会の仲間と、地域の大勢の方に見送られました。
 また、Bさんは84歳にも関わらず、スクーターに乗って通い続けてくださいました。今年の1月中頃、体調の異変に気づき入院となりました。退院後、翌日からひだまりに来てくださいましたが、2日後老人会の用事に行くと自宅を出られ、途中で倒れて、意識不明の重体となられました。
 お見舞いに行かせていただいた時「Bさん待ってるわよ、またひだまりに来てね」、耳もとでの大きな声かけにコックリとうなずかれ、3日後には悲しい知らせが入りました。
 Cさんは92歳で、サロン交流会日帰り温泉旅行に車椅子で参加した後は、手を合わせ、嬉しかったありがとうと言い続け、2か月後、自宅で転倒骨折し入院されアッと言う間に亡くなられました。
「ひだまりに行ったら元気に死ねる」そんなことを言われる方に返す言葉がみつかりませんが、ただ私たちに言えることは、ひだまりが生き甲斐の場となり、陽気に歌い、笑い、大いに語って、残された機能を維持し、施設に入所されることなく最後まで、地域の仲間とともに楽しんでいただきたいという思いだけです。
 私たちスタッフ側は、高齢化が進む中、地域で支えられ、見守られて人生を送っていただくために、ひだまりの家を継続する方法を考えていかなければなりません。
 家主さんの空家の提供、地域の方の駐車場の提供、車椅子を押して送迎くださる等々、地域の多くの協力と理解を得ながら「今日もひだまりご苦労さん」と暖かい目で見ていただき、言葉や心に支えられて無事8年も過ごすことができました。
 最近始めた「おとまり会」を発展させ、人生の先輩から知識と経験を学ぶ場として、乳児から高齢者に至るまで、若い方々のエネルギーもいただき、たくさんの方々に多目的に利用していただく方法を考えています。
 人として生きてゆくうえに求めていることは、老いても、若い人も関係なく、やさしい心と思いやり、そして支え合いと助け合い、信頼できる人間関係ではないでしょうか。