「ふるさとづくり2005」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 主催者賞

地域看取りを実践して
島根県知夫村 特定非営利活動法人なごみの里
はじめに

 NPO法人看取りの家なごみの里は島根県隠岐郡知夫里島に2002年5月開設。人口770人の離島のこの島には、特別養護老人ホームも入院施設のある病院もない。
 私は島のホームヘルパーとして働きながら、死を前に在宅での最期を望みながらも、泣く泣く島を離れる高齢者様たちを何人も見てきた。島の宝である高齢者様。島のために、いや豊かな日本のために力を尽くした人々の最期の願いすら聞き届けることができない自分に恥じた。言葉すら分からない本土の病院で死を迎えざるを得ない高齢者様の無念を、私は良く知っていた。
 かけがえのない尊い「その時」を迎えるまで、ひとりの人間として生きていける場所が必要だと強く思った。美しい海山空。馴染みの場所で、馴染みの顔の中でくらし、最期を迎える。思いはまさに家族の自然な思いと同じ、そんな場所が作れないかと考えた。本土の病院、肺がんの末期で最期を待つ幸齢者様の面会に行くと私に、こう訴えた。
 「看護士の言葉がようわからんだわいなー(良く解らない)。わしの言うことがつうじんだわいなー(言葉が通じない)」
 島の幸齢者様の中には、島から本土に渡ったことのない方もいた。私は高齢者様こそ幸せを運んでくださるお方と幸齢者と書く。本土で言葉を交わすことも、心を交わすこともなく死んでいった島の幸齢者様の無念をこのままにしてはいけないと強く思った。終の棲み家として家族的な24時間介護をし、最期の時、本人の望む死(幸せな死)を全うする場としてなごみの里を開所した。息が切れるその時に、傍に誰かいる。「ありがとう」の言葉で送り、送られるようにと開いた家だ。


死を分ち合うとは

 大多数の人間にとって今の日本では死が生活の中にない。病院という所が死に場所となってしまっている現代、逝く人の多くは決してそう望んでいるとは思えない。なごみの里が平成15年、島根県下で行なったアンケート調査においても68%が自宅で死にたいとの回答がよせられた。そこでなごみの里の設立趣意書をここに記し、私たちの思いをお伝えできればと思う。


なごみの里設立趣意書

 なごみの里は、高齢者の終末期の看取りを通して魂を磨こうとするものです。
 人間の終末において高齢者の方と私たちに言葉すら要りません。ただお互いに感謝を思うことのみが、なすべきこととなります。
 高齢者の方々の魂は天と地(肉体)を行き来し、私たちの魂すら導いて下さいます。
 人間の終末期程、尊い時はありません。その時に添わせていただくことこそ、私たちの魂を清め高めます。マザーテレサのお言葉のように、一人一人の魂と接する機会が与えられているその時なのです。
 終末期にある高齢者の方こそが師であり、側にいる私たちは学びの者です。美しい死の中にこそ真の生があります。なごみの里は、体験を通して真の生き方を学ぶ場です。この里で学んだ一人一人が、その愛を世界中に運び、愛ある世界の実現を目指して設立します。
             以上

 誤解のないよう書き添えるが、決して宗教団体ではない。こんな死に対する熱い想いを胸にスタートしたなごみの里である。死を分かちあうことによって、側にいる私たちが大きなエネルギーを手にできる。科学的に計量されたエネルギーではないが、私たちは看取りを通して確実に、一つ一つの看取りの中で手にしている。
 なごみの里は決してりっぱな施設ではない。私の自宅を解放、18畳の居室が2個、6畳の台所があるだけだ。むろん、国県村のいずれの補助金も受けてはいない。現在3名の寝たきりの幸齢者様に介護福祉士や看護士の資格をもった5人のスタッフと泊まりをもこなす有償ボランティアさん8名が24時間態勢であたる。有償ボランティアさん8名のうち5名は障害を持つ人々だ。島には作業所がなく、なごみの里がその役割をも果たしている。
 入所者の負担は光熱費と食事等の実費、介護保険の白己負担金を徴収する。なごみの里は施設ではなく、私の家にヘルパーさんが来るという訪問介護の形をとっている。1人あたり訪問介護最大1日2時間半がその収入の全てである。運営は決して楽なものではないが、看取りの時、手にする希望のエネルギーの大きさを思う時、それは何物にもかえがたい。また島の人々の共同体としての側面からの協力、本土の支援者の数も800人にも及ぶ。小さななごみの里に毎日、宅急便の届かない日がない程支援物資が送られる。


看取りその一 武田さんのケース

 武田氏(79歳)脳血管性痴呆(10数年前に脳梗塞の既往あり)慢性気管支喘息胃潰瘍、貧血、心臓弁膜症、前立腺肥大、体幹機能障害、聴力障害。
 歩行は不可能であり、排泄もおむつにて対応。高齢の妻が在宅で介護してはいたが、腰痛を病いなごみの里入所となる。入所当時の記録の中には次のような記述が多い。
 喘鳴増強。苦しいのか覚醒。ベッドサイド座位にて背部さする。5分程度で喘鳴消失。本人横になろうとされ臥してもらう。臥すと喘鳴あり。ギャッジUPし30分程側で背中をさする。
 それでも入所1か月もすると喘鳴の発作が起きることはなくなる。車イスでの散歩は大好きな日課となり、1日数時間に及ぶ日もまれではない。武田さんはベッドより畳の上で横になることの方が多い。また話すことができないという障害も時とともに問題にならなくなる。
 島に雪の積もる1月。武田さんは、呼びかけに開眼するも、体動がない。村の柿木先生の診断を受ける。家族は「延命治療のために島外に移送するのか。そのまま看取るのか」と選択を迫られる。丸1日悩んだ末、この島で看取ることを決めた。
 「なごみの里で最期まで。主人は、もう十分りっぱに生きてくれました」と言う奥様の言葉に私たちは感動したものだ。その時から武田氏の最期の時まで、一時も離れることなく側にい続けた。そしてずい分長い時が静かに流れた。奥様、家族そしてスタッフの見守る中で呼吸停止。最期の瞬間、その場に言葉はなかった。しかしそれぞれが思いをかわしているように思えた。武田氏に意識はなかったが、私の心の中には博さんの「もう十分。ありがとう」の声が響いた。村の柿木先生が前日、診断を下した後、なごみの里を再び訪れたのは武田氏の死亡確認の時だった。


医療の側面から

 なごみの里は知夫里島で暮らす多くの人々の協力で連営されている。島でただ1人の医師柿木伸之先生(45)も私たちの相談に乗り医療の側面から支援する。一連の取り組みは柿木先生の目には「医療、介護、地域が程よくかかわる新たな共同体づくり」のように映り、現代医療が進むべき道筋を示しているかのように思えると言う。
 人口動態統計によれば、1965年、全国では65・0%の人が自宅で死亡、病院での死亡は24・6%だった。ところが2002年には自宅死が13・4%、病院死が78・6%と逆転する。
 柿木先生は言う。「本来病院は治療する場所。人が死ぬとき、実は医師がしてあげられることは少ない。本人が最期を自宅で迎えたいと願うなら、それを尊重してあげることが大切ではないか」
 この島には設備が充実した病院はないが、むしろ「なかった」ことによって見えてきたものがあった。それは島全体がホスピタル(病院)という姿だ。現代医療は病院に患者を呼びこむが、この島では患者を地域に解放。自宅が病室であれば、なごみの里は「特別病室」。地域ぐるみで看病し、看取ってゆく共同体や仕組みを形成している。なごみの里は医療主導ではなく、患者が求めるターミナルケア(終末期介護)を実現するための受け皿となっている。柿木先生は「医療の営みとして、私たちは患者を見守ることの大切さを忘れていないだろうか」と言う。


おわりに

 昔はどの家も大家族でおじいちゃん、おばあちゃんとともに生活し、多くの知恵を学んだ。老いを迎えた時は子が世話をするのが親の愛に対する応えであり、それが当たり前だった。家族の手で時間や手間をかけて死を看取ることこそ、親の愛に応える道である。医療とか介護とかと言う以前に人間として、幸せな死をとげ、次の世代に希望のエネルギーを手渡していくべき尊い一人一人の命なのだ。
 しかしながら、独居家庭が多い、また、家族だけで看取りと向き合うのが何とも怖いという声も聞かれる。家族の手で死を迎えようとする人々を支える、地域で看取る形看取りの家なごみの里のような活動が全国に広がることを願ってやまない。次の世代の者たちに幸せな死を手渡すのが幸せな生を手渡すことと信じ、活動している。