「ふるさとづくり2004」掲載
<企業の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

温かくやさしい網地島の住民の生命・健康を守るため、地域に根ざした医療に従事
宮城県牡鹿町 網小医院
網地島と網小医院について

 石巻から船で約1時間30分。宮城県牡鹿半島の先端で金華山の反対側に位置するのが、牡鹿町・網地島です。
 かつて島では3000人を超える住民が生活し、1960年には、網長小学校だけで571人の児童が在籍していました。それが今、6分の1に激減。60代・70代のお年寄りがほとんどとなってしまいました。人口わずか500人あまりのこの島に、住民・医師・行政の三者が力を合わせて運営する小さな病院があります。島で唯一の病院、網小医院です。
 網小医院は、栃木県の医療法人陽気会「とちの木病院」(早乙女勇理事長)が運営する民間の病院で、平成11年9月に網長小学校を改修して開院しました。
 内科は常駐。整形外科、脳神経外科、泌尿器科などの専門医は、ローテーションで来島しています。栃木県の病院とは、オンラインで結ばれ、画像転送による遠隔診断やスタッフを呼んでの大手術にも対応しています。手術の時には、片道400キロ、5時間の道のりを車と船を乗り継いで、栃木県から外科医師が駆けつけています。
 また病院内には、高齢者福祉生活支援センターが併設されています。「自活に不安を持つ希望者は誰でも、教室を改造した4室(うにの間、あわびの間、なまこの間等)に入居できるようになっています。さらに、デイサービスセンターは、月、水、金曜日にあり、80代を中心にたくさんの方に利用されています。医院の車で送迎されるお年寄りは、手作りの漬け物などを持ち寄り、看護士さんたちと談笑を楽しみながら、血圧をはじめとする建康状態をチェックしてもらっています。その後、入浴し、レクリエーションとリハビリテーション、提供される昼食を楽しんでいます。お年寄りたちは口々に「利用日が本当に楽しく待ち遠しい」と顔をほころばせています。
 さらに、この病院は、文部科学省の「廃校利用五十選」にも選ばれています。


網小医院ができた経緯について

 網小医院ができる前までは、島ゆえに万一、急病になっても救急車を呼ぶこともできない。ましてや海が荒れた場合は、船を出すのも困難な状況にあり、島民は絶えず、「病気になった場合」を心配していました。
 全国的に離島の医師の担い手不足が問題となっている状況の中で、医師の確保さえ難しかったこの島に、なぜ、このような充実した夢の病院ができたのか。それは、島の人たちの温かく優しい気持ちがあったためと思います。
 数年前に、早乙女理事長の御子息が、自分の殻に閉じこもりがちになったとき、立ち直りのきっかけを与えようとして、牡鹿町網地島の網長中学校へ転校させることになりました。
 網地島に来てからは、島の方々の温かさと優しさに触れて、自分の殻に閉じこもることはなくなり、島の方々も参加する網長中学校の運動会では、楽しく、いきいきと参加し、本当にたくましく成長したとのことです。
 早乙女理事長は、島のために恩返しをしたいと思い、何が島にとって必要であるのかを考えました。そこで出た結論が、島の住民の方々の生命・健康を守る病院の開院でした。
 実際の経営は厳しく、牡鹿町からの補助金だけでは間に合いません。毎年4000万円もの赤字が出ます。島の住民が安心して、生まれ育った島で暮らせるようにと病院の経営を続けています。早乙女理事長は、島の方が1人になっても、病院を続けると言ってくれています。


網小医院の様子について

 待合室は、元校長室で、壁には27人の歴代の校長先生の写真とPTA会長の写真が飾ってあります。島の人が、いつまでも自分たちの母校を忘れないでほしいとの気配りだそうです。壁には卒業生が作った作品の数々が飾ってあります。学校が病院に変わっても、そこには、ほのぼのとさせる温かさがあります。
 職員室は、診察室、2階の音楽室は、病室に改装されています。また、1階西側をデイサービスセンターに活用し、島のお年寄りが、工芸、陶芸、歌に踊りと楽しみながら取り組んでいます。
 1階廊下は、当時のフローリングをそのまま残し、きれいに磨き上げました。廊下を走り回る子どもたちの声が聞こえてきそうです。壁などは、外壁同様カラフルな色彩になっていて、とかく過疎で暗くなりがちな島の人々の心を明るくしてくれているような気がします。『病は気から』と言われるように、病気で暗くなりがちな気持ちを少しでも明るくしてあげようと考えられています。
 2階に上がる正面には、卒業生の作品が当時のまま残してあります。島を出て遠くで働いていても、島に帰って来たときには、きっと懐かしく、当時のことを思い出すことでしょう。
 病院に来る患者さんは、そんな学校の面影を随所に残している中で、治療を受けるだけではなく、心の安らぎも得られているような気がします。
 わずか500人余りしか住んでいない島の病院ですが、島の中で、手術もできるほど充実した設備とスタッフが揃っています。
 島に残っているお年寄りは、口々に『夢のようです』と言います。この島で一生懸命に生きてきた人が、この島で最後まで生活したいと思うのは、当たり前のことです。今までは、介護が必要となれば、島を出て行かなければならない状況でした。死ぬまで島の中で暮らしたい、その当たり前のことができなかったのです。


網小医院の安田敏明医院長について

 全国の離島では、医師不足に悩んでおり、医師の確保が重要な問題となっています。離島の場合は、特に研究活動や子どもの教育等の問題、さらに不自由な生活環境等があり、医師のなり手がいない状況です。かつては、島に派遣されていた医師の中には、医療費の他に、あわび等の海産物を島の人に割り当てするような方もいました。
 網小医院の医院長は、ネパールの山奥の病院にいたこともある安田敏明先生です。まだ若く、熱意を持って患者さんを診ています。島民からは全幅の信頼を得ています。
 安田医院長に何か不自由な点はありますかと尋ねたところ、「ここは(ネパールと違って)言葉も通じるし、日本食で食べ物もおいしいので、不自由はない。島には、都市部にはないもっといいものがある」と笑って答えられました。


網小医院のふるさとづくり(地域社会づくり)活動について

 網小医院は、島民の生命・健康を守るという病院本来の目的を果たすばかりではなく、網地島の一員として、島のイベントに参加しています。医院のスタッフもこれを楽しみとしています。
(1)島民合同運動会
 小・中学校の閉校にともない、運動会の主役が不在となった運動会を「島民合同運動会」として、網地島地区コミュニティー推進協議会、長渡婦人会、網地島漁業協同組合女性部、網地ちどり会、長渡芸能保存会、網地浜行政区、長渡浜行政区、網小医院が合同で参加する形で、平成12年から続けています。
 網小医院は、網地ちどり会との合同チームを組み、毎年恒例のお約束演目での仮装行列のパレードをして、会場の爆笑を誘っています。また、デイサービスに通う皆さんとともに『デイサービス体操』を披露したりします。
(2)宵祭り演芸大会
 毎年春の雷神社大祭の前夜には、宵祭り演芸大会が催されます。演芸会には、長渡婦人会、網地ちどり会、長渡芸能保存会等の地元の方々が出演し、日頃稽古を積んだ踊り・唄・カラオケなどが披露されます。網小医院も島の一員として飛び入りで登場します。
(3)網小医院JAZZコンサート
 網小医院では、開院を祝すとともに、お盆で島へ戻られてくる方々のために、開院以来毎年、ジャズコンサートを旧網長小学校体育館で開催しています。網長小学校の校歌等もジャズ風にアレンジされ、会場に集まった島の方々を魅了しています。
(4)網地島健康大学
 島民の健康増進を図るため、多彩な講座を「網地島健康大学」として開催しています。温浴療法、陶芸教室、「馬頭琴の演奏会」等が開催され、島民の方々が参加しています。


網小医院の今後について

 設立から5年を迎える網小病院ですが、今、大きな問題が立ちはだかっています。牡鹿町が参加する石巻市周辺の1市6町の市町村合併です。来年4月に合併が成立すると、今まで町が支払ってきた医院の経費が、継続されるかどうかは分からない状態になります。国からの補助金も公立の診療所にはありますが、民間の病院に対する補助金はない状態です。なんとか医院を残したい。島の人たちは、医院のスタッフと協力し、医院継続のための取り組みを始めています。島の交流人口やIJUターン者を増やすため、「あじ島冒険楽校」や「あじ朗志組」等の取り組みを今年度から実施しようとしています。
 生まれ育った島で最後まで暮らしたいと願う島の人々と、島の医療を続けようと奮闘する網小医院の本当の戦いは、これから本格的に始まります。