「ふるさとづくり2004」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

引山太鼓の伝承と青少年健全育成
山口県久賀町  久賀引山太鼓保存会
 私たちの暮らす久賀町は、山口県東部、瀬戸内海に浮かぶ周防大島の中央部に位置する自然が豊かで海のきれいな町です。高校を卒業した若者のほとんどが進学や就職のため町を出て行き、Uターンする者も極わずかで過疎化・高齢化はどんどん進んでいます。
 平成16年1月に久賀町は町制施行100周年を迎えましたが、10月1日には合併により久賀町という名前は消えていくこととなりました。


引山太鼓の由来と歴史

 地元の文献を調べていただいた結果、久賀引山太鼓は、平安時代(貞観年間)に、久賀の八田山へ村の鎮守の神様としてお迎えした「八田八幡宮」に奉納したのが始まりだそうです。当時より秋の収穫と豊漁を祝って各地域が競って山車を製作して太鼓を叩いたそうです。久賀が8地域に分かれて、それぞれが山車を製作して町内を練り歩き、八田八幡宮をめざしたそうです。ちなみに、地域により太鼓の叩き方はすべて違っていたようです。


引山復活

 久賀町の過疎化により、昭和35年頃から祭りに引山の山車と太鼓が姿を消しました。それから月日が経ち、町おこしが叫ばれるようになりました。久賀町商工会青年部の意気盛んなメンバーたちは、沈んだ町を盛り上げようと起ち上がり、引山を復活させようと行動を起こしました。彼らが子どもの頃に見た山車と太鼓の微かな記憶をたよりにして、また八地域のお年寄りからも太鼓の叩き方を教えてもらいました。この太鼓に、楽譜などありません。すべて耳から耳へ伝承されてきた叩き方だったのです。まず、青年部の太鼓を志す者が叩き方をマスターしました。そして、それを子どもたちに教えるのです。口から口へ耳から耳へ、復活初年度の練習はたいへん難しかったようです。まず、自分が叩けるようになり、それを人に教えるという作業は口では言い表すことのできない苦労の連続だったそうです。
 山車の製作は青年部の他のメンバーで行いました。山車はとても大きいものなので、製作する場所探しに苦労したそうです。やっと農協のみかん選果場を借りることができ、そこで約1か月間毎晩仕事を終えた青年部員たちが夜遅くまで製作しました。9月15日のお祭り当日、町は久しぶりに復活した引山で盛り上がりました。そして、すべての町民が子どもたちの叩く姿に感動しました。自信を失いかけていた商店街にも人がたくさん出てお祭りは大盛況、青年部のメンバーも苦労が報われたいへん満足できた1日になったそうです。そして今日もなお保存会・青年部が力を合わせているのです。


保存会の結成

 お祭りが成功して、引山太鼓はだんだん有名になりました。その当時太鼓は珍しく各地で「太鼓ブーム」が訪れるよりかなり前だったので、祭り以外の出演依頼も来るようになりました。昭和50年、引山太鼓の伝承を目的に久賀引山太鼓保存会を結成しました。それから毎年新入会員の小学生を募集して、指導し叩ける子どもの数を増やしていきました。メンバーが増えてくると、太鼓の数が足りなくなってきました。この太鼓は1台30万円以上もする高価な太鼓だったので、最初は古い物を借りて活動していました。そのうち、保存会の活動が行政からも認められるようになり宝くじ助成金で、新しく3台の太鼓を買っていただきました。


継続は力なり

 よく「継続は力なり」という言葉を耳にしますが、続けることのたいへんさを感じだしたのは、活動が軌道にのった5年後くらいからです。当初、保存会で一緒に始めた大人のメンバーが1人、2人と辞めていきました。当たり前のことですが、この保存会はボランティアで、活動することに対する見返りというものはありません。ですから最後には、太鼓のことが本当に好きな人間しか残りませんでした。本当に好きな人間でさえ、引越しで大島を出て行くため、やりたくても辞めていかざるを得ない人もいたそうです。そして発足10年を過ぎる頃には、大人のメンバーは4人にまで減少したのでした。


Uターン

 そんなある年(昭和61年頃)に転機が訪れました。Uターンして大島へ帰って来た若者が保存会に入りました。(それがこのレポートを書いている私です。)そして、メンバーにとってもっと嬉しかったのは太鼓の1期生だった子がやはりUターンして家業を継ぐため大島へ帰って来たのです。彼はもちろん保存会に入りました。私と違って子どもの頃からみっちり稽古していたので、技術的にはメンバーの中でもトップクラスの腕前でした。若いメンバーが増え、保存会は息を吹き返しました。それから、数年後にはもう1人子どもの頃から叩いていた子がUターンしてメンバーに入り、平均年齢も少し若返り現在に至っています。


青少年の健全育成

 スタートは久賀町商工会青年部の有志が地域振興を目的にお祭りの引山を復活させることでした。そして久賀引山太鼓保存会を結成して子どもたちに太鼓を伝承していくうちに、子どもたちの心を育成していくようになってきたのです。この太鼓には不思議な力があるのです。みんなが心をひとつに合わせないと太鼓の音が揃わないのです。リズム通り叩くだけではだめなのです。そこには音楽的技術を超えた何かが存在しているようにさえ思えます。そしてそのことで、子どもたちは自然と結束してお祭りが終わる頃には連帯感が生まれてきているようです。
 太鼓を叩く保存会の子どもたちは一般的に明るく・元気の良い子たちばかりですが、30年も指導しているといろいろな子どもに出会ったそうです。おとなしく引っ込み思案の子もいますが、人前で太鼓を叩くことでたいていの子は自信をつけ明るくなるそうです。極まれな例ですが、不登校の子もいたそうです。この子も太鼓を叩くことで元気を取り戻し、他の子どもたちに引っ張られるように学校へ戻っていったそうです。これも太鼓による連帯感のなせる技だと思います。


賞歴

 保存会の活動は地元のみならず、山口県関係者にも評価していただける程になりました。昭和55年に山口県児童文化奨励賞、昭和62年に山口県青少年健全育成県民会議会長賞、平成3年に山口県こども会連合会会長賞、平成4年に山口県青少年育成県民会議会長賞、平成10年山口県青少年育成国民会議会長賞をいただきました。私たちの活動がみなさんから評価してもらえることはとても喜ばしいことです。


地域間交流

 最近の活動では、遠距離の地域の人や団体と交流をしています。以前より久賀町と交流のある北海道早来町の鈴蘭太鼓とも交流をしています。私たちが早来町へ行き、かしわ祭りに出演したり、鈴蘭太鼓のメンバーが大島を訪問して、久賀いきいきフェスティバルに出演してもらったり、合同練習も度々しました。また、2年前の春休みには保存会の中学1年生10名が早来町を訪問しました。子どもたちは生まれて初めて積もった雪を見て、感激していました。もちろん太鼓の合同練習もさせてもらいました。子どもたちにとって、すばらしい体験になったと思います。  多くの移民が渡った関係でハワイのカウアイ島と周防大島は姉妹島縁組を結んで交流していますが、私たち保存会も周防大島の伝統芸能を代表してカウアイ日本文化祭に出演しました。ハワイで暮らす日系人は私たち以上に日本文化を大切にされていて、引山太鼓はとても喜ばれました。記念に太鼓のバチをプレゼントしましたら、欲しいという人が多すぎてたいへんなことになったのは良い思い出です。
発足30周年を迎えて
 久賀引山太鼓保存会は発足して30周年を迎えることができました。その間保存会を巣立った子どもの数も300人を超えました。長く続けるということは苦労の連続ですが、その何倍もの喜びもあります。この気持ちがある限りは、保存会を辞められないと思います。いいえ、辞めてはならないのです。この伝統ある太鼓を未来に継承していくことが私たちの使命なのですから。